きぼう屋

生きているから生きている

キリスト者の自立

2007年01月28日 | 教会のこと
1月28日の京都教会週報巻頭言

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この季節は胸が痛む。
教会員Nさんが一人寂しく亡くなった時期だ。
二週間後に発見された。
アルコール多量摂取による心停止だ。
長いことアルコール依存症を患っていた。

彼は依存症からの解放を夢見ていた。
一緒に語り合った。
彼は論理明晰だった。 

彼の結論は、
「人間は何かに必ず依存している。
 どれも害がある。
 アルコールのようにわかりやすい害もあれば、
 互いの依存性が戦争を生むという害もある。 
 その害の種類によって、
 病気とされたりされなかったりする」
というものだった。

そして依存対象がノートに列挙されていた。
国、家族、恋人、思想、宗教、学校、など、
それは千近くあった。
その通りだと思った。

居場所喪失が問題になる。
人は居場所を決定的に必要とする。
だから愛国心にそれを見出したり、
自分のアイデンティティに見出したりする。

全体主義か個人主義かという問いは意味がない。
どちらも居場所探しだからだ。

またその中間もある。
「ただいま」と言える場所探しだ。
家族や教会や学校がそういう場になりやすい。

しかし私たちはよく知っている通りに知らねばならない。
この居場所には
摩擦、ねじれなど、
関係において人が対応しきれない
罪人の出来事がうずまいていることを。

ここが居場所に依存するしかない我々が、
正しく依存するか否かの分かれ目だろう。

自分の居場所が理想郷のように映るとき、
それは依存症だろう。

そうでなく、
愛ゆえに批判しつつ、
しかし、出会いゆえに居続ける場所ならば、
信仰的に言うなら、
罪人の交わりという汚れた居場所を
神に赦されつつ生きるならば、
それは、
赦し主キリストへの依存と言えるところの、
豊かな依存であろう。

そしてこれが
依存でありつつしかし自立であるという事柄ではないか。

来月には定期総会を迎える。
私たちは、
愛ゆえに教会と自己を批判しつつ、
反省と評価と夢と希望を分かち合いたい
と願う。

Nさんの死後の歩みを祈りつつ。