きぼう屋

生きているから生きている

イラク派兵は違憲じゃよ!

2006年11月30日 | 平和のこと
本日午前中は裁判に行ってきました。
イラク戦争に自衛隊を派遣したことは憲法違反だー
という裁判です。

通称「ストップイラク派兵訴訟・京都」

で、わたしは原告のひとりです。

で、本日は意見陳述をしてきました。

で、そのしゃべってきたものをまず。。。
長いですが・・・


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陳述書
原告本人 大谷心基

 「殺してはならない(聖書:出エジプト記20章13節)」
 「敵を愛しなさい(聖書:マタイによる福音書5章44節)」

 私は日本バプテスト京都教会の牧師です。キリスト者の家系で生まれ、教会にて聖書から学びつつ育ちました。そしてキリスト教会が聖書から学ぶところの、人が生きるために不可欠な行為の中心は、以上の二つであると、神学的吟味をした上で、結論づけているところです。

 イラク戦争開始後に、武力干渉により殺されたイラク市民の数は50,000人前後と言われています(インターネット調べ「www.iraqbodycount.net」)。また、その後のテロ等も含めると65万人のイラク人が死んだとの報告もあります。米国防省は、米兵の死者が2,500人を突破したと伝えています。メディア等の発表する数字の信憑性の問題はありますが、あまりにもたくさんの人が殺されていることは誰にでもわかります。
さらに、最近では23日にバグダードで車の爆弾テロが相次ぎ、200人以上が死亡したと報道されました。
 また、去る10月3日に、日本バプテスト京都教会を会場として、「バグダードから京都へ~イラク・日本 市民交流会」が開催されました。バグダードより、おふたりの芸術家が来洛され、バグダードの現状を語ってくださいました。その中で、ハニ・デラ・アリさんは、この夏に、彼のいとこが、外出しただけで米兵に頭を撃ちぬかれて殺されたことを証言されました。また、毎日百人は米兵に撃ち殺されていること、13歳以下の少年少女が米兵にレイプされていることも証言されました。
 もちろん、先ほどの死者の数と同じく、上述の報道、証言が真実であるか確認することは困難ではありますが、しかし、今でもイラクでは日常に殺しがあり、その殺しの循環とも言うべき状況から解放されていないことは、認識することができます。

 そしてこのように互いに殺しあう状況、また、その背景としての互いに憎みあう状況、さらに心理的に掘り下げるならば、互いに生命が脅かされている恐怖の中で、人間らしさを失っている状況は、起こるべくして起こったと思います。
 思想家カントは、人間の自然状態は常に敵対行為が生じており、決して平和状態ではなく、平和状態は創設されねばならないと言います(「永遠平和のために」岩波文庫 26ページ)。
 平和は創らねばならないものです。平和は人間の自然な感情では成り得ないものです。つまり、自らの生命維持のために、危険だと思われるものは排除するという、端的に言うなら弱肉強食という自然性と、そこから湧き出る感情からは、互いの殺し合いは起こっても、平和は成らないのです。
 よって、たとえフセインの暴力を戦争という暴力で止めて平和にするという論があったとしても、それが戦争を起こす理由になることは、人間の知恵からはあり得ないのです。
 さらには、大量破壊兵器保持を戦争の理由としつつも、それがなかったことがわかっていますし、そもそも大量破壊兵器を最も多く保持している米国が、その理由を挙げることは大きな矛盾ですから、知恵ある者ならば、あまりに明確に、イラク戦争をすべき理由のないことがわかります。
 いずれにしましても、戦争を通して平和が起こることはあり得ず、戦争は、憎しみと暴力と殺しの連鎖を生むだけです。だからこそ「殺してはならない」というのは、条件抜きで、人間が行うべきことです。
そして日本国憲法第九条は、あらゆる条件を排して、端的に「殺す」ことの放棄を語るわけです。

さらには、その憎しみと暴力と殺しの連鎖は、具体的に砲弾が飛ばない社会のなかでも息づいています。それはたとえば昨今再び注目されているいじめ問題などでよくわかります。これは学校社会の子どもたちだけに起こっている問題ではありません。企業をはじめとする大人の社会でも、家庭の社会でも、おそらく宗教界や法曹界においても、あらゆる社会において、憎しみと暴力の連鎖が息づいており、いじめは、その大小があろうと、気づこうと気づくまいと、意識してようと無意識であろうと、起こっているはずです。

そして、そのような現実と出会うゆえに、確かにわたしは1970年生まれであり、戦争を直接経験してはいませんが、憎しみと暴力の連鎖という本質を異なるかたちで経験することにより、戦争を極めて深く追体験出来るし、知ることもできます。23日に逝去された灰谷健次郎さんの「太陽の子」は、沖縄の地上戦を経験していない子どもたちも、イジメなどから戦争をそれこそ経験していくという作品であり、こういう事実を描いているものでありましょう。

具体的戦争経験のない者も、このようにして、戦争の本質、つまり憎しみと暴力の連鎖、さらには殺しの連鎖を経験します。

そして、とりわけ日本国憲法第九条を生きるこの国の私たちは、戦争の本質である暴力の連鎖につながるのではなく、むしろ断ち切ることを、明確に宣言しています。交戦権も武器保持も認めないというのは、カントの言葉を借りるならば、いじめ問題にも見られるような、人間の自然状態から生み出される暴力の連鎖という戦争の本質を断ち切り、平和を創設するという宣言でもありましょう。

ですから、理由すらも成立しないイラク戦争に日本が協力することは、明らかに憲法違反であり、あってはならないことです。さらに言うならば、日本は、今なお増え続ける殺し合いと死者の数からよくわかるところの、憎しみと暴力と殺しの連鎖に、協力しているにすぎません。繰り返しますが、これは憲法に反しており、断じて許されません。

 さて、最後に、人間の自然状態である、憎しみと暴力の連鎖から脱出するためには、私たちはどうすればよいのかということを分かち合いたいと思います。
 「敵を愛しなさい」と聖書は、キリスト教会およびキリスト者に教えます。また、ガンジーから学ぶならば、仏教徒も同じ知恵を持つようです。
 つまり、人間の自然な感情ではまずおこり得ないところの、敵を愛するということを、平和創設のために人間はすべきであるという知恵はすでに生まれています。しかも、上述以外の宗教から、また思想からも、この知恵が語られていることは、よく知られるところです。
 そして日本国憲法第九条において私たちは、まさにその知恵を受け継ぎ、自然な感情を越えて、相手を「敵」と認識しようとも、それにもかかわらず、戦うこと、武器を持つことを放棄することを選び取り、平和を創設することを選びとっているわけです。
 つまり、愛と非暴力の連鎖をはじめることによって、平和を創設することを、この国の私たちは選び取っています。
 
 カントは、平和創設のために「法」を論じ、今、国連というかたちで動いている「自由な諸国家の連合制度」を提案しつつも、人間の自然状態と平和創設の間の難しい問題に苦慮しつつ、永遠の平和を保障するのは「摂理」としか表現できませんでした(同上書54ページ)。「平和」を語るのはこのように難しいことです。しかし、今、彼が生きていて日本国憲法第九条を見るならば、大いに喜び、論文を書き直し、国連の中心の法に据えるだろうとも、私は想像します。また実際に、彼の知恵を受け継いで語り継ぐ思想家がたくさんいることも、やはりよく知られているところです。

つまり、日本国憲法第九条は、そういう知恵を受け継いだ、地球における最先端の憲法です。そして、この憲法を持ち、これを選び取って生きるこの国の私たちの歩みは、平和創設の最先端の歩みです。


日本国憲法第九条は、このような知恵深い条文であり、この深みから解釈されねばなりません。

そして、イラクへの自衛隊派遣は、殺しの循環に協力していることであり、決して平和創設に適う事柄ではないため、明らかに憲法違反であると考えます。また、この国の私たちの、平和創設の最先端の歩みを逆行させるものでもあります。

ぜひとも、この裁判におきましては、豊かな深い人間の知恵を持って、知恵ある憲法判断をお願いしたく存じます。


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お読みいただき感謝。
ねえ。長かったでしょう!!

で、これが味わい深い裁判なんです。
原告代理の弁護士団は、
「平和を求める良心」でもって、たたかっていまして・・・・
憲法9条の解釈は二の次なんです。
これは、日本裁判史上初だと思います。

だから、人間性の深みが語られる裁判なんです。

で、本日の最終準備書面ですが・・・・

これがまたすごかった。
博士論文として通用すると思います。これ。

ただで、情熱あふれる講演を聴いてしまった!!!
というところでしょうか。。。

しかも、相手さんの方々も裁判官も
相当聴き入っておりました。。。

で、今回最終で

次回は判決です。
3月23日。10時~。京都地裁にて。。。