視人庵BLOG

古希(70歳)を迎えました。"星望雨読"を目指しています。
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紀元前585年5月28日の皆既日食(タレース日食)

2009-08-22 05:02:36 | 天文関係
古代の日食に関するメモです。

「有翼日輪の謎ー太陽磁気圏と古代日食(斎藤尚生著 中公新書 1982年刊)より
著者の斎藤尚生氏(東北大学名誉教授)は太陽磁場の研究者です。



P140
ハリュス河の決戦
これは古代ギリシアが未だ全盛期を迎える前の、紀元前6-7世紀の物語である。この頃、オリエントとその周辺の地域は、エジプト、新パピロニア、リディア、メディアの、世に言う4王国併立の時代に入っていた。
中でもメディア王国を建てたキャクサレスは野心的な王で、4王国の中では最も大きく発展し、東は遠くインダス河の近くまで版図を広げ、西はさらにリディア王国まで席捲しようと、大軍を率いて攻め寄せた。そこでリディア王国のアリアッテスも大軍をもってこれを迎え、かくて両軍は七年間戦いを続けた。そして時まさに紀元前585年月28日、両軍は国境を流れるハリュス河の両岸に対峠した。
 合戦のこの最中に、前に述べたタレースの日食が起こったのだが、残念なことに肝心の日食の経過については、へロドトスのヒストリアを播いてみても、わずか数行の記述があるだけで細かいところは分からない。
しかしへロドトスの前後の記述から推定し、それに科学的な推理を加えると、およそ次のような経過を辿って日食は進行していったと思われる。
日食は夕方起こっているが、戦争の常識からすると、この日は午後になってからのんびりと戦いを始めたとは考えられない。朝のうちから前哨戦の幕は切って落とされ、日食が起こるまでには蛾烈な白兵戦にまで進んでいたと思われる。このような緊張状態の真最中にハリュス河に群がっていた大軍の上空で恐ろしい皆既日食が起こったのである。
この日食は人類の歴史上初めてタレースが予言したことで知られている。そこで、この群衆のうちの誰かは、この日この場所で日食が起こることを予期していたかどうかを、タレースの予言との関連でまず推理してみよう。
 予言の事実を記す唯一の証拠である原典に遡って、ヘロドトスの記述を調べてみよう。ヒストリアによれば、「この時の日の転換は、ミレトスのタレスが、現にその転換の起った年まで正確に挙げてイオニアの人々に予言していたことであった。(「歴史」松平千秋訳、筑摩書房〉とあるだけで、日食の起こった特定の場所、月日ゃ、いわんや時刻まで予報したとは書いていない。
 むしろ当時としては、転換の起こった「年まで」正確に挙げて予報したというだけで、驚くべきことと思われていたことが逆に判断できる。

奇人タレースの予言
 当時はギリシアでは技術をさげすんで思弁を尊んだ。だから観測器械や観測データなどはほとんど何もなかった。それなのになぜタレースは日食が予言できたのだろう。彼は2500年前に、地動説にもとづく太陽・地球・月の間の軌道運動を正確に知っていて、日食の軌道計算ができたのだろうか。いやそうではない。古代人はパビロニアの時代から既に太陽と月が天球上の星の聞を移動していくさまを、黄道十二宮や白道まで考案して正しく知っていた。したがって黄道と白道の交点付近に太陽と月がちょうどさしかかる時期を予測すれば、地動説や太陽系内の公転運動を全く知らなくても、ある程度の日食予報をすることができる。しかし黄道・白道上の相対運動すら知らなくても、さらに経験的な次の方法によって日食の予報はできたはずである。
 タレースの時代は、日食は十八年と十日半の周期 ( これを1サロスという ) で、ほぼ同じ場所で繰り返されるという法則が発見されるよりも、1世紀ぐらい昔である。しかし、オリーヴ搾り器を買い占めて財を築いたタレースは、貿易にも従事していたことがあるといわれているので、おそらくメソポタミア地方に伝わっていた日食に関する多年の記録を聞いているうちに、周期性に気付いたのではあるまいか。周期性という概念は、過去三回の日食の記録が分かれば、引き出すことができ、外延することによって次に起こる時期を容易に予報することができる。地球の直径を測量的に求めたり、円盤状の地面に半球状の天が覆っているという宇宙を考えるなど、タレースのさまざまな科学的功績から見ても、いい加減なただの予想屋ではないことが分かる。
 では次に、タレースは皆既日食「帯」まで予報したのだろうか。おそらくそうではあるまい。それはヒストリアでタレースが、「イオニアの人々に」予言した、と記されていて、「ギリシア、イオニア、リディア、メディアの人々に」予言した、とは記されていないことからもうかがえる。
皆既食の見える場所が、わずか幅数百キロ、長さ数千キロのベルトの上を、西から東に走っていくものだという発見は、ずっと後世である。したがってエーゲ海沿岸のミレトス付近の人々の中には、また奇人タレースが今年中に日食が起こるなどと法螺を吹いているぞ、と気に留めていた人がいたかも知れないが、ハリュス河に群がって死闘を繰り広げている兵隊たちの中で、まさかこんな時にここで日食が起こると予想した者は唯の一人もいなかったに違いない。
 次に当日の天候はどうだつただろうか。これも地球物理学的に確率的に推定するより他はない。この付近は現在ステップ気候で、冬降雨型であり、5月頃の月間降水量はわずか25ミリ以下である。

地中海や黒海に対する陸地の分布は当時とほとんど変わっていないから、仮に当時も同じ気候区だったと想定すると、ハリュス河の戦いの当日も快晴であった確率が非常に高い。
 そう考えるとますますあとのコロナの推定とよく合致する。また、快晴だとすると、なおさら部分食がかなり進行してからでないと兵士たちは気が付かなかっただろう。たとえ太陽は欠けていても薄雲でも通さない限りぎらぎら光ってまぶしいので、まともに部分食を見ることはできないからである。 まして部分食の始まりである第一接触などは、誰も分からなかったはずである。したがって気付くとすれば、兵馬や武器の地上に落とす影が、三日月を連ねたように妙に尖って見えたり、空の明るさが太陽の高度の割にいつもより暗くなっていて、空の色も微妙に変わっていることなどからであろう。

タレース日食を再現すると
 次に、当時の一般の人々は、日食というものを一生の聞にどれだけ実際に体験しを再現するとていたかを調べてみよう。 問題の小アジア ( トルコ半島 ) で、タレース日食以前5世紀の間に起こった皆既日食を数えてみると、わずか4回 ( 紀元前それぞれ857、818、763,657) しか無い。このうち紀元前657年に皆既食がトルコ半島の先端をかすめてからタレース日食が起こるまでに、72年もの年が経過している o 古代人の平均寿命を仮に50歳と考えても、以前に皆既日食を見た人はタレース日食の時までにほとんど死に絶えている。しかもこれは、「前657年に皆既食帯上にいた人が、タレース日食の皆既帯まで移動したら」という仮定にもとづいている。古代においては予報された皆既食帯上に移動して待ち構えるなどということはできなかった。いわば足のない草木と同じように、その場で偶然起こる皆既食を待つより他なかったのである。このように一点に固定した観測者が皆既食を受動的に見る確率を計算すると、斎藤国治博士によれば340年に一回という答えが出てくる。したがって少なくともハリュス河の戦いに参加している青壮年の戦士たちの中には、皆既食を見た経験者は計算上は皆無ということになる。
 部分食が起こる頻度は皆既食の場合より多いけれども、当時は人口密度が少なかったなどのために、最大食率の小さい部分食など、計算上は発生していたとしても、誰にも気付かれずに済んでしまった場合は現代よりよほど多かったと思われる ( 古代人は日食を透して見るための黒いネガフィルムも、すす付きガラスも持っていなかった !)。
 第五章でも述べたとおり、幅数百キロの皆既食帯をわずか数十キロでも外れると、コロナは見えないから、たとえばある集落の一部を皆既食帯がかすめても、コロナが帯上では見えた、帯の外では見えなかったという区別を、場所の違いによる区別とは受け取らずに、信仰の深さの違いなどとして受け止めたのではなかろうか。
 要するに日食に対する概念にしても実体験にしても、古代人は現代人に比べて、桁違いに乏しかったことが考えられる。したがってハリュス河に集まった群衆で、過去に皆既日食を体験した者は、ほとんど一人もいなかったと思われる。
 このようにして群衆の頭上でひそかに進行していった凶変は、突然誰かによって発見され、みるみる群衆全体に情報は行き渡った。その間にも白兵戦という異常状態の最中に、天の異常事態は加速度的に進行していく。
 こうなった時の群衆の行動について、自然科学の推理しうる領域は極めて貧弱である。それは群集心理の問題であり、パニックの科学だからである。ただ地球物理学徒の体験上言えることは、皆既日食という現象は、神がパニックを煽るために綿密なドラマツルギーの計算にもとづいて創作したのではないかと思えるほど、実に巧みな劇であるということである。
 ゆるやかなスタートから始まって、2時間ほどの間に加速度的に進行していく部分食、そして皆既の瞬間に起こるカタストロフィーが、群集心理を煽り立てる不安上昇曲線に大変効率よく働いているということである。そして光球が全部隠される瞬間からは、今までの連続ではない全く別の現象ー恐ろしい形のコロナーが突然現われる。 しかし異形の太陽は、たった1、2分かせいぜい5,6分で、まばゆい光の中に消え去って戻ってこない。この数分という時間の短さが、また、憶測を生み、流言飛語を伝えるに申し分ない時間である。
 ただ、人聞が創った戯曲と古代日食では少し違う点がある。 演劇の観客は終演の時刻を知りながら客観的に観ているし、筋は前もって知らなくても最後に山場のあることを知っている。これに反して古代日食では、進行する部分食の次に何が待ち構えているのか、あらかじめ知らされずに時が進行していくのである。しかも思いもよらぬ恐ろしい皆既のコロナというカタストロフィーが始まってから、わずか数分で皆既が終わって、文字通り白昼夢のように前後の筋の脈絡がさっぱり分からないままに心理的に放り出されてしまうのである。宗教的な畏怖心を起こさせるにはまことによく計算されたドラマだと言わねばならない。
 ともかく群衆は地上の白兵戦をいつの間にか止めて、敵も味方も世の終末に立たされた共通の人間として天を仰ぎ見、怖れうろたえる。この時戦場で起こったパニックについて推定を下すのは、私の専門を逸脱するから控えるが、私の専門に近い日食の進行状況を、専門書や私の体験に従って記してみると、次のような状況が考えられる。
 部分食が進行するにつれて鳥や獣が本能的に恐怖を感じて鳴き騒ぐ。カラスの群れがねぐらに向かってあわただしく空をかけ抜ける。気温が下がる。下降気流のために全くの快晴となる。日食風が幽かに吹く。ぐんぐん暗くなる。明暗の縞紋様が地上を走る。畳みこむように舞台はパッパッと転換していく。太陽はあっという聞に細く痩せて、遂に弧状に宝石を連ねたような美しいベイリービーズ! 一瞬も休まずにその宝石もプツプツとかき消されて、最後の宝石がサッと輝くと、みごとなダイヤモンドリング。すぐ引き続いて、どんでん返しにその宝石もプッンと消えた瞬間が第二接触、皆既。がくんと暗黒が支配して、燃えさかる紅炎に縁どられた黒い太陽が、怪鳥のように長い長いコロナの翼を左右にサッと広げる。有翼日輪 !
 じりじりと不安を煽り立てていく長い部分食のあとで、不安が最高潮に達するにつれて加速度的に早まる舞台転換、そして次々に変わる舞台のひとつひとつが、これほど非日常的なすごい現象なのだから、ハリュス河の群衆にとっては、パニックが起こらなかったらむしろおかしいだろう。事実、「ヒストリア」によれば、ついに彼らは日食のために戦いを止めてしまったとある。

この皆既日食はヘロドトスの「歴史(ヒストリア)」巻1 74に記されています。
ヘロドトス「歴史」松平千秋訳 岩波文庫上巻 1971年刊 P61より

その後、キュアクサレスがそれらのスキュタイ人の引き渡しを要求したのに、アリュアッテスが応じなかったので、リュディアとメディアの間に戦争が起り5年に及んだが、この間勝敗はしばしば処をかえた。ある時などは一種の夜戦を戦ったこともあった。戦争は互角に進んで 6年自に入った時のことである。ある合戦の折、戦いさなかに突然真昼から夜になってしまった。 この時の日の転換は、ミレトスのタレスが、現にその転換の起った年まで正確に挙げてイオニアの人々に預言していたことであった。
リュディア、メディア両軍とも、昼が夜に変ったのを見ると戦いをやめ、双方ともいやが上に和平を急ぐ気持になった。


2099年7月22日の皆既日食
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