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酷暑も一段落した昨日、一昨年の7月、89歳で亡くなった串田孫一を”語る”「アルプ 特集串田孫一」(2007年 山と渓谷社刊)をひろい読みしていた。
その中で辻まことが「山と高原」1965年1月に書いた文に引き寄せられた。
1965年、辻まこと52歳、串田孫一50歳のころである。
辻まことは1975年62歳で亡くなっている。
「アルプ 特集串田孫一」P124
串田さんのこと 辻まこと
直接串田さんを知らない人でも、ラジオやテレビで会ったことのある人なら気付くことだろうが、串田さんはとてもいい声をしている。バリトンであるけれども私のいい声という意味は歌手の声を指しているのではない。それはうまく言葉で表現できないけれど、耳にとどく最終のところできっぱとした男性的で誠実な勇気とでもいうような感じを与える強さがあるとともに、発声の最初にきわめてデリケートな顫音をもっていて、素直な感性と沈潜した思想が喉のスクリーンに漉過されてでてくる化学的な条件をよく示している。音色の点からいえば、その声はやや暗いオリーブ色であるが決してメランコリックではない。
疑いもなく串田さんの声は串田さんの人格の一部であって、またその人柄のあたたかさをよく示している。
解る人には、串田さんに一度会えば、この位のことは解るのである。然し、どんな人間も表現よりはもっと深いものだ。串田孫一は彼の表現したものだけでももっとずっと遠くて深い。
戦後いくばくもない日、まだ国電の窓ガラスが破れている頃のことだが、外地から帰った私は三十三歳位だった。電車の中でも街でも、見掛ける男は老人と少年ばかりであった。
彼等は死に損なった年代であり或は死をまぬがれた年代のものだ。そして自分といえば、一度死んでしまった年代であった。
傷ついたものはもとの生に立戻る努力をするだろうが、死んじまったものは、新しい生命を発見して、やり直さなければならない。赤ン坊のように眼ざめ、初めてのように世界を見付けなければならない。
私は半ば無意識に自然に向った。「われ山に向いて眼をあぐ」という聖書の言葉が深い意味をもって意識され、中断していた山登りをはじめた。
ある日有楽町の駅で串田さんに会った。串田さんは本を抱えてホームにしゃがんでいた。「時々めまいがして立っていられない」といっていた。 山へ出掛けても荷が重くて苦しいといっていた。私も体力がなくてもう登山をやめなければならないのではないかと絶望していたので、その言葉が身に泌みた。
つぎに矢張り街で会ったとき、すぐに山の話がでて、すこし無理をしても続けていると、だんだん昔に戻ってきますと教えてくれた。
私はその頃、もうつらくなってやめようかとおもっていたところだったが、それではという気になってまた熱をいれて山へ出掛けるようになった。そして串田説が正しかったことが解った。
串田さんの書くものから私はずいぶんいろいろなものを教わったが、それ以上に書いている文章が読むものの心に惹きおこす想像の方に強い魅力をもっている。それは半ば自分であり半ば串田孫一である。
多くの人には理解できないことかも知れないが、串田さんの文学は、戦争の文学であって、戦場の荒廃した焼跡の死から新しい生を証明した一輪の花なのだ。
しかしその花は地味だから一寸読者が文章の上をぶらついても仲々わからないだろう。
(1981年「山の風のなかへ」所収 画家・エッセイスト)
実はこの文、所蔵している「辻まことセレクション2 平凡社刊」の229ページに掲載されていた。
発刊が1999年となっているが購入時当然目を通していた文であろうが記憶にない。
それが「アルプ 特集串田孫一」に掲載された文を読んだ時、
”多くの人には理解できないことかも知れないが、串田さんの文学は、戦争の文学であって、戦場の荒廃した焼跡の死から新しい生を証明した一輪の花なのだ。”
というフレーズの異様な想像力に圧倒されている自分にとまどっている。
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『辻まこと全画集』解説 「無言の対話」より 串田孫一