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朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

イエスとその復活の力の中で

2019-06-10 23:08:45 | 聖書から

 主は
代々限りなく統べ治められる。出エジプト記15:18

 イエスの弟子の群れはこぞって、
自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、
声高らかに神を賛美し始めた。
「主の名によって来られる方に、
王に、祝福があるように。
天には平和、
いと高きとことには栄光。」ルカ19:37~38

 ヨハネ20:19~2
 Ⅰコリント12:4~11
 詩118:15~29(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句6/10;月)

 主は知っておられる、
人間の計らいを、
それがいかに空しいかを。詩94:11

 私は、
キリストの力と
その復活の力とを知っています。フィリピ書3:10

 Ⅰコリント14:1~5、27~40
 フィリピ書3:12~21(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句6/11;火)

 天の神、主、
「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方は、
代々限りなく、とこしえに統べ治められる方。

 イエスが最後のエルサレム入城をされたとき、
人々は、イエスを、この「主の名によって来られた方」、
とこしえに統べ治められる方として賛美したのですね。

 それで、パリサイ人たちがイエスに、
「お弟子たちをしかってください」と言ったのですが、
イエスは、
「もし、この人たちが黙れば、石が叫びます」と応えられたのだそうです。

 そして、人々は、
詩篇118篇25~27に記されているとおりに木の枝を切って来て
道に敷いてイエスを迎えたのだそうです。
「ホサナ(どうぞ救ってください)」と叫びながら。

 その五日後の金曜日、
イエスは、王となって君臨するのでななく、
十字架刑での処刑を受けられ、墓に葬られたのですが、

 3日後の日曜日の夕方、
ユダヤ人の指導者たちを恐れて戸を閉め切っていた弟子たちのところに来られ、
手とわき腹にあるくぎの穴、やりで刺された跡を見せ、言われたのですね。
「聖霊を受けなさい」、と(ヨハネ20:19~23)。

 その【聖である霊】と呼ばれる方が受け入れる者に来てくださって、
【父である神】の御思いのとおりに働いて、
ある人には知恵のことば、
ある人には知識のことば、
ある人とには特別な信仰、
ある人にはいやしの賜物、奇蹟を行なう力、
預言、霊を見分ける力、
異言、異言を解き明かす力として現れてくださるのだそうです(Ⅰコリント12:4~11)。

 私たちは、
自分の思い計ることがいかに空しいものであるかを認めて、
キリストとその復活の力、
【聖である霊】と呼ばれる方の働きの力を知って、
この方に信頼していくのですね。

 この方から来る愛とその御思いを求めながら(Ⅰコリント14:1~5、27~40)。
うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
イエスが、私たちのこの貧弱なからだを
ご自身の栄光のからだと同じ姿に代えてくださる
その日に向かって(ピリピ3:12~21)。

 【主】の御名によって来られた方の、
永遠の統治の中へと。
今日も。

(近くの教会を知りたい等、
また、教会に行っていないけれど、
葬儀をキリスト教でしたい、
また、婚活で広く出会いを求めたい、
等のお問い合わせは
shkhknsyg4@yahoo.co.jpへどうぞ。)

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圧倒的な、輝かしい勝利の中を

2019-06-04 12:09:33 | 聖書から
 主があなたたちのために戦われる。
あなたたちは静かにしていなさい。出エジプト記14:14

 すべてのことにおいて、
私たちは、
私たちを愛してくださる方によって
輝かしい勝利を収めています。ロマ書8:37

 Ⅰヨハネ4:1~6
 フィリピ書2:1~4(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句6/4;火)

 天の神、主、
「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方ご自身が
戦ってくださるのですね。

 それで、「あなたたちは静かにしていなさい。見ていなさい」と言われる。

 エジプトを脱出したイスラエルの民の、
前は海、後ろからはエジプト軍の戦車隊が迫る、絶体絶命の中で
天の神、主が仰られたように。

 そして、私たちが神の前に義と認められ、
神の国に入ることにおいても、
私たち、自分の努力においては誰一人神の義に達することができない、
「義人はいない。ひとりもいない。
すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった」(詩篇14:1~3、ロマ3:10~12)
と言われるしかなく、

 「主よ。もし、あなたが私たちの不義に目を留められるなら、
主よ。だれが御前に立ちえましょう」(詩篇130:3新改訳)と言うしかない私たちです。

 それで、神である主は言われるのですね。
「わたしが、私の側で、全部するから、
あなたたちは静かにして、見ていなさい。
私のプレゼントを、ただ、受け取りなさい」と。

 私たちを愛してくださり、戦ってくださる神の戦いによって、
私たちは輝かしい勝利者として、
圧倒的な勝利をいただくことができるのだそうです。
すべてのことにおいて。
神の御国に入ることにおいても。

 イエスが、ご自身を私たちの身代わりとし、
贖(あがな)いの小羊となって、十字架刑での処刑を受けてくださり、
必要な手続きのすべてを「完了」していてくださる今は(ヨハネ19:30)。

 それで、今は、神の国にはいるために、
完全な者になろうと、
ない自分の力を振り絞って、
一生懸命、熱心に伝道をし、
たくさん献金をして、
誰一人達することができない、
絶望的な戦いをする必要はなくなっているのだそうです。

 12使徒のひとりヨハネも書き残しています。
「霊だからといって、みな信じてはいけません。
それらの霊が神からのものかどうかを、試しなさい。
なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。
人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。
それによって神からの霊を知りなさい。
イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。
それは反キリストの霊です。
あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、
今それが世に来ているのです。
子どもたちよ。
あなたがたは神から出た者です。
そして彼らに打ち勝ったのです。
あなたがたのうちにおられる方が、
この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです」(Ⅰヨハネ4:1~4)、と。

 私たちのうちにおられる方、
十字架刑での処刑を受けてくださり、
墓に葬られ、
三日目、日曜日の早朝、死者の中から新しい霊のからだに復活し、
40日にわたって何度も弟子たちに現れ、
神の国のことを語ったのち、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、上げられ、雲に包まれて見えなくなったイエス、

 天の【父である神】の右の座に復帰されたイエスが派遣してくださる
【聖である霊】と呼ばれる方が、
私たちの心に【父である神】の御思いを置いてくださり、
受け入れる者の心に
【父である神】の御思いがあるようにしてくださるのだそうですから
(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)。

 それで受け入れる者の心には、
【父である神】の御思い、
励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情とあわれみがあり、
一致を保ち、同じ愛の心を持ち、
心を合わせ、志を一つにしていくようにしていただけるのだそうでです。

 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、
へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれたものと思い、
自分のことだけではなく、他の人のことも顧みる思いが。

 天の神、主の圧倒的な、輝かしい勝利の中で。
今日も。

(近くの教会を知りたい等の方、
また、婚活で広く出会いを求めたい、
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等の方、
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立ち帰り、霊を一つにし、心を一つにして

2019-06-03 09:38:44 | 聖書から

 主よ、御もとに立ち帰らせてください。
私たちは立ち帰ります。
私たちの日々を新しくして、昔のようにしてください。哀歌5:21

イエスの言葉:
父は別の弁護者を遣わして、
永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
この方は、真理の霊である。ヨハネ14:16~17

 エゼキエル書11:14~20
 フィリピ書1:27~30(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句6/3;月)

 天の神、主、
「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方の、
「わたしに立ち帰れ」とのたび重なる呼びかけにも応じようとせず、
自分の理性による善悪の判断によって反逆を重ねるイスラエルの民。

 その反逆が極まって、これ以上放置できなくなり、
ついにエルサレムは敵の手に渡され、
王を初め、主だった者はバビロンにより捕囚として連れ去られる憂き目の中で、
預言者エレミヤは嘆いて訴えるのですね。

 「なぜ、いつまでも、私たちを忘れておられるのですか。
私たちを長い間、捨てられるのですか。
それとも、あなたはほんとうに私たちを退けられるのですか。
きわみまで私たちを怒られるのですか」(哀歌5:20~22)、と。

 その反逆が極まる中で、
人間には期待できないことが明らかになった中で、
【父である神】は、
【御子である神】を、「女の子孫」として(創世記3:15)、
ベツレヘムで(ミカ5:2、ルカ2:1~1~20)、
ダビデの子孫である(Ⅱサムエル7:11~13、ルカ1:27)、
ナザレという町の(ルカ1:26、マタイ2:23)ひとりの処女マリヤの胎を通して
人とならせ、
この方がおよそ33歳の頃、
この方を私たちすべての人間の罪を贖(あがな)う身代わりの小羊として立て、
十字架で処刑し、
私たちの「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっている、
「生まれたときからの私」という霊を処刑済み、死んだものとしてくださり、
罪、「的外れ」の責任が果たされたものとしてくださったのだそうです。

 このことによって、
私たち「的外れ」になっている人間に【聖である霊】と呼ばれる方が来られても
私たちが滅びてしまわないようにしてくださり、
もうひとりの助け主、別の弁護者として
【聖である霊】と呼ばれる方が受け入れる者に来てくださる道が開けたのだそうです。

 【父である神】は、この方によって、
「わたしは彼らに一つの心を与える。
すなわち、わたしはあなたがたに新しい霊を与える。
わたしは彼らから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。
それは、彼らがわたしのおきてに従って歩み、
わたしの定めを守り行うためである。
こうして、彼らはわたしの民となり、
わたしは彼らの神となる」(エゼキエル11:19~20新改訳)との約束を
実現していてくださるのですね。

 受け入れる者が、
【父である神】と思いを同じくし、
心を一つにして生きるようになる(創世記1:26、ヨハネ17:21~22)ようにと。

 それで、受け入れる者には、この方によって神の御思いが心に来て、
キリストの福音にふさわしい生活、
霊を一つにしてしっかりと立ち、
心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘し、
どんなことがあっても反対者たちに驚かされることはない(ピリピ1:27~30)
生活が送れるようにしていただけるだそうです。
今日も。

(近くの教会を知りたい、
教会に行っていないけれど、
葬儀をキリスト教でしたい、
婚活で、広く出会いを求めたい、
等のお問い合わせは、
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実を結び、その実が残るように、と

2019-06-02 18:31:56 | 聖書から

 わたしは地上から上げられるとき、
すべての人を自分のもとに引き寄せよう。ヨハネ12:32(6/2の週の聖句)

 主は私たちを造られた。
私たちは主のもの、その民、
主に養われる羊の群れ。詩100:3

 あなたがたがわたしを選んだのではない。
わたしがあなたがたを選んだのだ。
あなたがたが出かけて行って実を結び、
その実が残るように。ヨハネ15:16

 ヨハネ16:5~15
 詩27(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句6/2;Ⅰ日曜)

 このように、
イエスはご自分がどのような死に方をするかを示しておられたのだそうです。

 「上げられる」、
ユダヤの処刑の仕方は、
みんなで取り囲んで石を投げつけて殺すというもでのでした。

 だから、この方法では「上げられる」ということはなかったのですね。
ローマの、
しかも国家に反逆したり、重罪人の処刑方法である十字架刑での処刑で、
「上げられる」ということが実現するのですね。

 そして、そのときには、
「すべての人を自分のもとに引き寄せよう」と言われる。

 天の神、主は、
ご自分の権力によって、
私たちを無理やり、何かをさせるということはなさらない方。

 愛によって、自由意思で、自発的にすることを願っておられる方ですから、
イエスも、
ご自分の権力で無理やり「引き寄せる」ということではなく、
誰でもがイエスのもとに行こうとすれば行けるようにしてくださる、
道を開いていてくださって、
私たちが来るのを待っていてくださるということなのでしょうね。

 天の神、主、
「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方は、
私たちを創造された方。
私たちはこの方のもの、その民、その牧場の羊。

 この方はすべての人がご自分のもとに帰って来ることを
願っておられるのだそうです(Ⅱペテロ3:9)。

 けれども、呼びかけを受け入れて、誰が帰って来るのか、
誰が呼びかけを拒否、あるいは無視して帰って来ようとしないのかを
ご存知だということのようです。

 私たちすべての人間の身代わりとなって受けてくださった
イエスの十字架刑での処刑によって、
私たちの「的外れ」の責任が果たされたものとし、

 そして、死んで葬られ、
三日目に死人の中から新しい霊のからだに復活し、
40日にわたって何度も弟子たちに現れ、神の国のことを語ったのち、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、天に帰られ、
【父である神】の右の座に復帰されたイエス。

 そのイエスを通して来てくださる
もう一人の助け主、【聖である霊】と呼ばれる方(ヨハネ16:5~15)。

 この方が私たちの心に
【父である神】の御思いを置いてくださるので、
私たちの心に【父である神】の御思いがあるようになり、
受け入れる者は、【父である神】と思いを同じくし、
心を一つにして生きる生き方が出来るようにしてくださっているのだそうです。

 それで、その人たちが出て行く所で【父である神】の御思いが実現し、
その実が残るようにと、私たちも用いていただけるのだそうです。

 だから、主の御顔を、その御思いを求めながら(詩篇27)。
この新しい週も。

(近くの教会を知りたい等の方、
また、婚活で広く出会いを求めたい、
教会に行っていないけれど、
葬儀をキリスト教でしたい、
等の方、
お問い合わせをshkhknsyg4@yahoo.co.jpへどうぞ。

〈日本仲人協会 https://www.omiaink.com/ 認定〉
〈(復活社 http://www.sougi8849.jp/index.html 〉

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