朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

真の愛は、相手の思いが成ることを願うもの

2019-03-25 16:50:49 | 聖書から
 あなたの同胞は言っている。
「主の道は正しくない」と。エゼキエル書33:17

 イエスの言葉:
あなたがたは、
わたしを愛しているならば、
わたしの掟を守る。ヨハネ14:15

 ルカ14:(25~26)27~33(34~35)
 サムエル記上18:1~16(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句3/25;月)


 私の若い時の罪と背きは思い起こさず、
慈しみ深く、
御恵みのために、
主よ、私を御心に留めてください。詩25:7


 憐れみ豊かな神は、
私たちをこの上なく愛してくださり、
その愛によって、
罪のために死んでいた私たちを
キリストと共に生かし、
――あなたがたが救われたのは恵みによるのです――エフェソ書2:4~5

 ヨブ記7:11~21
 サムエル記上20:1~23(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句3/26;火)

 天の神、主、
「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方が、
「わたしは決して悪者の死を喜ばない。
かえって、悪者がその態度を方向転換して、生きることを喜ぶ。
方向転換せよ。
悪の道から(わたしに)立ち返れ。
なぜ、あなたは死のうとするのか。
正しい人の正しさも、
彼がそむきの罪を犯したら、それは彼を救うことはできない。


 正しい人でも、
罪を犯すとき、
彼は自分の正しさによって生きることはできない。

 悪者の悪も、
彼がその悪から立ち返るとき、
その悪は彼を倒すことはできない」と仰られるとき、

イスラエルの人たちは、
「主の道は正しくない。
主の態度は公正ではない」と言ったのだそうです。

 そのように、私たちは、
自分の理性による善悪の判断によって
神の御思いさえもさばく者なのですね。

 〔父である神〕は、そのような「的外れ」になっていて、
滅びに向かっている私たちの〔生まれたときからの私」という霊を、
イエスが受けてくださった十字架刑での処刑に合体させて
処刑が終わっているもの、死んだものとしてくださるのだそうです。

 そして、死んで、墓に葬られ、
三日目の日曜日の早朝、
死人の中から新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って何度も弟子たちに現れ、神の国のことを語ったのち、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、上げられ、
天の父である神の右の座に復帰されたイエス。

 そのイエスを通して、もう一人の方、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださるのだそうです。

 そして、この方によって私たちの心に御自身の御思いを置き、
書きしるしてくださって、
受け入れる者の心に御思いがあるようにしてくださるのだそうです。
慈しみ深い、御恵みと憐れみ豊かな神の御思いが。

 それで、受け入れる者は、
この〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る思い、善悪の判断は、
死んだものから出て来たものと認めて、
神の御前に差し出し、見ていただきながら、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって心に来る
神の御思いを我が思いとして生きる、
イエス・キリストの思いで生きるようにしていただけるのだそうです。

 イエスが言われた
「わたしのもとに来て、
自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、
そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、
私の弟子になることはできません。
自分の財産全部を捨てないでは、
私の弟子になることができません」ということばに向き合い、

 塔を建てる者のように、
まず、座って、塔を完成するのに十分なお金があるかどうかを計算し、
あるいは、2万人を引き連れて向かってくる敵に、
こちらの1万人で迎え撃つことができるかをよく考え、
自分が「塩気の失った塩」のように
「役に立たないもの、
外に投げ捨てられてしまう」(ルカ14:25~35)はずの者であると認める者に、

 あるいは、ヨブのように、
苦難の中でちりの中に横たわり、
死を求める思いを神の前に訴え、注ぎだす者を(ヨブ7:11~21)、
〔父である神〕は、
愛と憐れみをもって、
キリストと共に生きる、
神の御思いで生きる者にしてくださるのだそうです。

 サウル王の子ヨナタンとダビデが
心を一つにしていたように(Ⅰサムエル⒛:1~23)、
神と心を一つにして生きる者に。
今日も。

(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg4@yahoo.co.jpへどうぞ。
また、ご家族などで、教会に行っていないけれど、葬儀はキリスト教でしたい、
また、婚活で広く出会いを求めたい、等の
お問い合わせもどうぞ。)

後ろを忘れて、目当てにしっかり目を注げるようにと

2019-03-24 08:54:54 | 聖書から
手を鋤(すき)にかけてから
後ろを顧みる者は、
神の国にふさわしくない。ルカ9:62(3/24の週の聖句)



 わが主よ、
私は責めさいなまれています。
どうか私の保証人となってください。イザヤ書36:14



 イエスはペテロの家に行き、
その姑(しゅうとめ)が熱を出して寝込んでいるのをご覧になった。
イエスがその手に触れられると、
熱は去り、
姑は起き上がってイエスをもてなした。マタイ8:14~15



 ルカ9:57~62
 詩34(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句3/24;Ⅳ日曜)

 
 鋤(すき)で、これから畑を耕そうとしている時、
後ろを振り向くと、まっすぐ進めないのですね。
畝(うね)作りをしている時だと畝(うね)が曲がってしまう。



 神の国のために働くために
イエスに呼び出された時、
この世のこと、今までのことに思いを向けていては、
神の国のために充分な働きをすることができない、ということでしょうか。



 兵士が、出て来た家のことばかり考えていては、
司令官が望むような働きをすることができないように。



 私たちが、
人からもそうですが、
自分自身でも、
自分を責めさいなんでいるとき、
自分で自分をしいたげているときも、
神の国のために充分な働きをすることができない、
また、神の国の喜びを味わうことができないのでしょうね。
あるいは、大きな病にあっても。

 それで、イエスは、
私たちを責め立てる律法の縄目、
良心の呵責から私たちを解放しようとしてくださっているのですね。

 ご自身が、人となって、人の世に来られ、
私たちの身代わりとなって、
私たちが問われるべき責任のすべてをご自身に背負って
十字架刑での処刑を受けてくださり、
私たちが受けるはずの処罰、処刑が終わったもの、
私たちが死んでしまっていて、
処罰によって律法の要求を満たしているものと
してくださるのだそうですから。
良心の呵責、罪責感、劣等感から解放して。

 また、ペテロの姑(しゅうとめ)をいやして、
一行をもてなすことができるようにしてくださったように、
必要であれば、病もいやしてくださって。
神の御心のとおりに働けるようにと。


 それで、私たちもダビデのように歌いながら進むのですね。
私はあらゆる時に主をほめたたえる。
私の口には、いつも、主への賛美がある。
私のたましいは主、
「『私はある(I am)』という者」と名乗られる方を誇る。
貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。
私と共に主、
「『私はある(I am)』という者」と名乗られる方をほめよ。
共に、御名をあがめよう。
私が主に求めると、主は答えてくださった。
私をすべての恐怖から救い出してくださった。
彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。
「彼らの顔をはずかしめないでください。」
この悩む者が呼ばわったとき、
主は聞かれた。
こうして、主はすべての苦しみから彼を救われた。
主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、
彼らを助け出される。
主、「『私はある(I am)』という者」と名乗られる方の
素晴らしさを味わい、
これを見つめよ。
幸いなことよ。
彼に身を避ける者は。
主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、
霊の砕かれたものを救われる。
正しい者は悩みが多い。
しかし、主はそのすべてから彼を救い出される
(詩篇34、1~8、18~19新改訳)、と。
この新しい週も。

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導き、受け入れ、義の栄冠を与えようと

2019-03-23 09:54:36 | 聖書から

あなたは
御計らいに従って私を導き、
後には栄光の内に
私を取られるであろう。詩73:24

 パウロの手紙:
私は戦いを立派に走り抜き、
決められた道を走り通し、
信仰を守り抜きました。
今や義の栄冠を受けるばかりです。
正しい審判者である主が、
かの日にそれを私に授けてくださるのです。Ⅱテモテ4~7~8

 ガラテヤ書2:16~21
 サムエル記上17:31~58(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句3/23;土)

 天の神、主、
「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方は、
私たちの心が苦しみ、苦みで満ち、
私たちのうちなる思いが突き刺されたとき、
私たちが愚かで、わきまえもなく、
この方の御前で獣のようなとき、
理性をなくして、気が狂ってしまっているようなときも、
絶えず私と共にいてくださり、
私たちの右の手をしっかりつかまえていてくださるのですね。

 天の神、主は、
御計らいに従って私をさとして導き、
後には栄光の内に私を天に移し、
受け入れてくださいます。

 ローマの市民権を持っていたパウロが、
今度のローマ皇帝による裁判では、
いよいよ、打ち首の判決を受けることが予想され、
「私は今や注ぎの供え物となります。
私は勇敢に戦い、
走るべき道のりを走り終え、
信仰を守り通しました。
今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。
かの日には、
正しい審判者である主が、
それを私に授けてくださるのです」(新改訳)と言っているように。

 私たち、律法の行いによっては義と認められない者ですが
キリスト・イエスの信において、
そのイエスへの信頼において義と認めていただけるのだそうですから。

 〔父である神〕は、
「的外れ」の責任を問われるべき、
私自身である、私の〔生まれたときからの私〕という霊を
キリストとともに十字架につけられたもの、
処刑されたものとしてくださったのですね。

 私たちが、
神に生きるために、
律法によって律法に死に、
もはや私が生きるのではなく、
キリストが私のうちに生きてくださるのですから(ガラテヤ2:16~20)。

 イエス・キリストの御名によって来てくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方が
受け入れる者のうちに住んで、
〔父である神〕の御思いを私たちのうちに置き、
書きしるしてくださって、
受け入れる者が、
イエスと同じように
〔父である神〕の御思いによって生きるようにしてくださるのですから。

 天の神、主は、
私たちの右の手を取って、御心のとおりに導き、
この道を走り抜かせてくださり、
天の御国に受け入れ、
義の栄冠を与えようとしていてくださるのだそうですから。

 イスラエルの兵士みんなが恐れ、震えあがっている
ペリシテ軍の代表戦士巨人ゴリアテの前に、
神に対する信頼だけで、
羊を飼う杖と石投げを持って出て行った
若者のダビデとともにいてくださったように(Ⅰサムエル17:31~58)。
今日も。

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神の御業、その威光を見るようにと

2019-03-22 21:07:27 | 聖書から
主よ、
あなたの僕らが御業を仰ぎ、
子らもあなたの威光を仰ぐことができますように。詩90:16



 空の鳥をよく見なさい。
種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。
だがあなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。
あなたがたは
鳥よりも価値のあるものではないか。マタイ6:26


 Ⅱコリント13:3~9
 サムエル記上17:1~30(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句3/22;金)


 私たちは、
天の神、主、
「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方の御業、
その御威光の中で生きているですね。



 天の神、主は、
私たち人間を創造しようと思い立たれたとき、
人間を創造するのに先立って、
まず、私たち人間の住む場所を用意してくださったのだそうです。

私たち人間が困らないように、
喜びと幸せの中で生きられるように、と。

 天の神、主は、この大宇宙と地球を創造し、
6日間かけて、この地球の環境を整えて下さり、
種類にしたがって植物を生じさせ、
また、種類にしたがって動物を創造し、
すべての環境が整ったところで最初の人、アダムとエバを創造し、
彼らをエデンの園に置かれたのだそうです(創世記1:1~2:24)。

 そして、天の神、主は、
「生めよ。ふえよ。地を満たせ」とおっしゃられて、
この二人から、
私たち人間が地の全面にふえ広がるようにしてくださったのだそうです。

 それで、空の鳥が天の神、主によって養われているように、
私たち人間も、
天の神、主が用意してくださった御業、
その御威光の中で生きているのですね。
私たちがそれを認めるか、認めないかに関わらず。

 最初の人、アダムとエバは、
天の神、主によって、
「われわれのかたちとして、われわれに似せて」
との願いで造られたのだそうです(創世記1:26)。


 けれども、アダムとエバは、
〔父である神〕、〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神が、
愛において、
心と思いを一つにし、
行動を共にし、存在を一つにしておられる、
その、「神のかたち、神に似せられた」場にとどまることを善しとせず、
もっと素晴らしい者に、
神のようになろうとして、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ように(創世記3:5、22)なったのだそうです。



 天の神、主に相談することなく、
天の神、主と心を一つにすることなく、
自分一人の理性の判断で善し悪しを決定する者に。



 私たち、すべての人間は
このアダムとエバの性質を受け継いで、
「的外れ」な者として生まれて来ているのですね。



天の神、主は、
その、「的外れ」になっている私たち人間を廃棄処分にすることを望まず、
なお、慈しみ、愛し、大切に思っていてくださるのだそうです。



それで、私たち人間を、
創造の最初の目的のとおりに回復しようと計画してくださったのだそうです。



イエスが言われた、
「それは父よ、
あなたがわたしにおられ、
わたしがあなたにいるように、
彼らもわたしたちにおるようになり、
わたしたちが一つであるように、
彼らがみな(わたしたちと)一つになるためです」(ヨハネ17:21~22新改訳)
のことばのとおりに。



 ご計画の時が満ちて、
〔御子である神〕は、
〔父である神〕の御心に従い、
天の、栄光の座を後にして、
「女の子孫」(創世記3:15)として、
ダビデの子孫であるナザレ村の一処女、
マリヤの胎を通して人となられ、
およそ、33歳の頃、
私たちすべての人間の身代わりとなり、
「神に呪われた者」となって、
十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。

 〔父である神〕は、
この、イエスが受けられた処刑において、
私たち自身である、
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を
処刑されたもの、死んだものと手続きしてくださるのだそうです。

 そのうえで、
死んで墓に葬られたイエスを、
三日目、日曜日の早朝、
死人の中から新しい霊のからだに復活させ、
40日に渡って何度も弟子たちに現れさせ、
神の国について語らせたのち、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、上げられ、
ご自身の右の座に復帰させられたのですね。

 そして、このイエスを通して
もう一人の方、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を
受け入れる者に派遣してくださるのだそうです。

 この方を私たちのうちに住まわせ、
この方によって私たちを覆い、
私たちの心に、
ご自身が私たち一人一人に思っていてくださる御思いを
置いてくださるのだそうですから
(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)。
ご自身の御思いが私たちの心にあるようにと。

 「神のことば」である
イエス・キリストが内におられる者に(Ⅱコリント13:5)、と。

〔父である神〕の御思いに満たされ、
〔父である神〕がしようと思われること(ヨハネ14:12)が実現するのを、
その御威光を見る者に。
神の養いの中で。
今日も。

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天の父の御心を行なうように、と

2019-03-20 23:14:25 | 聖書から
私たちは主が語られたことを
すべて行い、守ります。出エジプト記24:7



 イエスの言葉:
だれでも、
わたしの天の父の御心を行なう人が、
わたしの兄弟、姉妹、
また母である。マタイ12:50



 ヨハネ16:29~33
 サムエル記上16:1~13(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句3/20;水)


 主はうずくまっている人を起こされる。詩146:8



 兄弟たち、
私たちは、
あらゆる困難と苦難に直面しながらも、
あなたがたの信仰によって励まされました。
あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、
今、私たちは生きていると言えるからです。Ⅰテサロニケ3:7~8



 Ⅰヨハネ1:8~2:2(3~6)
 サムエル記上16:14~23(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句3/21;木・祝)



律法的生き方、
律法によって義と認められようとする生き方では、
律法のすべてを行ない、
完全に守ることが要求されるのですね。



一度でも、1回でも律法を破れば、
その人は失格者とされるのだそうですから。



だから、
イスラエルの人々の歴史によって証明されたように、
この、律法の行いによって義とされようとする道においては、
「義人はいない。
ひとりもいない。
悟りのある人はいない。
神を求める人はいない。
すべての人が迷い出て、
みな、ともに無益な者となった。
善を行う人はいない。
ひとりもいない」(ロマ3:12)
のだそうです。


それで、
〔父である神〕は、
律法とは別に、
しかも律法と預言者によってあかしし、預言していた、
もう一つの道を実現してくださったのですね。



イエスが受けられた十字架刑での処刑による死によって来る
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊の処刑と死、


そして、イエスの復活と、
天の〔父である神〕の右の座への復帰を通して来てくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
心に〔父である神〕の御思いを置いていただいて、
受け入れる者が、
〔父である神〕と〔御子である神〕、
〔聖である霊〕と呼ばれる神の愛において、
神と心と思いを一つにする、新しい生き方における新生。



それを、〔父である神〕からの恵みのプレゼントとして、
信頼をもって受け取るようにと。

 「天の父の御心を行なう」、
この「父である神」からの恵みのプレゼントを受け取る、
そのことにおいて、受け入れる者は
神によって義とされたもの、
神の家族としていただけるのだそうですから。



私たち、「信じます」といっても、
イエスの弟子たちがそうであったように、
私たちの信仰は頼りにならないものなのですね(ヨハネ16:29~33)。


それで、神は、
私たちの信仰など当てにされないで、
ご自身の側で一方的に成してくださった救いの御業を、
ただ、信頼して受け取るようにと願っていてくださるのだそうです。



自分の信仰の無さを体験してうずくまっている者を起こし、
立たせて、
「的外れ」になっている
「生まれたときからの私」という霊から出て来る思いによって
生きるのではなく、
〔父である神〕の御思いの中で
生きるようにしてくださるのだそうですから(Ⅰヨハネ1:8~2:2)。

今日も。



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