あなたたちの先を進むのは主であり、
しんがりを守るのもイスラエルの神である。イザヤ書52:12
私たちは聞いたことに
いっそう注意を払わねばなりません。
そうでないと、
押し流されてしまいます。ヘブル書2:1
申命記8:11~18
申命記30:11~20(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句2/21;水)
天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は
イザヤを預言者として立てて言われます。
「あなたがたは、あわてて出なくてもよい。
逃げるようにして去らなくてもよい。
主があなたがたの前に進み、
イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられるからだ」(イザヤ52:12新改訳)、と。
私たちの救いは、〔父である神〕ご自身が計画し、
〔御子である神〕がその手続きを完了され、
約束のとおりに〔聖である霊〕と呼ばれる方が、
受け入れる者に来られて実現してくださるのだそうですから。
〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神が、
愛と尊敬において、
自由意思で自発的に
〔父である神〕と思いを同じくし、
心を一つにしておられるように、
私たちも〔父である神〕と思いを一つにする者へと。
神さまの側で、一方的に、全部、用意していてくださって、
私たちは約束のことばに信頼して、
ただ、受け取ればいい、もらえばいいのだそうですから。
だから、聞いた約束のことばにいっそう注意を払い、
心に留めて、押し流されないように、と注意されているのですね。
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている私たちは、
その、〔生まれたときからの私〕という霊を、
イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて
処刑されたもの、死んだものとしていただき、
〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
この方によって、〔父である神〕の御思いを心に置いていただいて、
〔父である神〕と思いを同じくし、
心を一つにして生きる、
新しい生き方をいただいているとはいえ、
常に、この、〔生まれたときからの私〕という霊から心に来る、
自分の理性で事の善し悪しを判断し、
自分の理性による判断で生きようとする、
元の生き方に帰ろうとする者、なのですから。
私たちは、食べて満ち足り、
立派な家に住み、
富がまし、生活が安定すると、
心高ぶり、
神である主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方を忘れ、
心のうちで、
「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ」と言い出す者、
なのですから(申命記8:11~18)。
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている私たちは、
自分の創造主を無視して、自分の理性を神としていく者のようです。
それで、私たちは、
「救いのことばを、だれが天に上り、
あるいは、地の奥底、海のかなたに行って、
取って来て、私たちに聞かせて行わせようとするのか」とうそぶくのですが、
いのちと幸い、死とわざわいの道は、私たちの身近に、目の前にあるのだそうです。
もし私たちが口でイエスを主と告白し、
心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が来てくださるのだそうですから。
「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」
のだそうです(申命記30:11~20、ロマ10:5~13)。
イエスの十字架刑での処刑と、死者の中からの復活によって実現した、
〔聖である霊〕と呼ばれる方により、
〔父である神〕と思いを同じくし、心を一つにして生きる、
新しい契約は(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28、ルカ22:17~20、ヨハネ17:21~22、)、
有効なのだそうですから。
今日も。
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