朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

慰め、救ってくださるのだそうです。私たちを下から支えて

2018-02-23 07:17:42 | 聖書から


この貧しい人が呼び求める声を主は聞き、
苦難から常に救ってくださった。詩34:7

 悲しむ人々は、幸いである。
その人たちは慰められる。マタイ5:4

 ヘブル書2:11~18
 申命記33:1~5、26~29(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句2/23;金)

 貧しい者、悩む者が呼び求め、呼ばわる声を、
天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は聞いてくださり、
苦難から、すべての苦しみから救ってくださるのだそうです。

 主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、
彼らを助け出されるのだそうですから。

 だから、幸いなのだそうです。
貧しい人、悲しむ人々は。
主に身を避け、主に呼ばわるなら、慰めを受け、
主のすばらしさを味わうことになるのだそうですから。


 〔御子である神〕は、
〔父である神〕の御思いに従い、
大祭司として私たちを執り成し、
私たちを、聖、取り分けられた者、神の子とし、
〔父である神〕と思いを同じにし、心を一つにする者とするために、
私たち人間と同じように、血と肉を持つ者となってくださり、
人として、人の世に来られて、
すべての点で私たちと同じようになってくださったのだそうです。

 ご自身が試みを受けて苦しまれたので、
苦しみにあっている人のことを分かってくださり、
助けてくださるのだそうです(ヘブ2:11~18)。

 私たちがどん底にいたとしても、
さらにその下から私たちを支え、
私たちが〔父である神〕と心を一つにして生きるよう、
助けてくださるのだそうです。
「永遠の御腕が下に」ある(申命記33:27)のだそうですから。
今日も。
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在ろうと思うとおりに、在ることが出来る方が、

2018-02-22 07:39:39 | 聖書から
 主は言われたことを、
なされないことがあろうか。
告げられたことを、
成就されないことがあろうか。民数記23:19

 イエスはすぐに手を伸ばしてペテロを捕まえ、
「信仰の薄い者よ、
なぜ疑ったのか」と言われた。マタイ14:31

 ヤコブ書4:1~10
 申命記31:1~8(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句2/22;木)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方。
「ありて、ある者」、
「あろうと思うとおりに、ある」ことが出来る方。
その方が、こうすると言われたことを
なされないことがあるだろうか、というのですね。

 天の神、主は、モーセの、出エジプトの時、
海の水を分け、民を海の底を渡らせたのだそうです。

 そして、イエスは、ガリラヤ湖の水の上を歩いて、
弟子たちの舟に近づかれたのだそうです。
すると、ペテロが
「主よ。もし、あなたでしたら、
私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」というと、
イエスは「来なさい」と言われ、
ペテロは舟から出て、
水の上を歩いてイエスのほうに行くことが出来たのだそうです。

 ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので、
「主よ。助けてください」と言ったので、
イエスはすぐに手を伸ばしてペテロをつかみ、
「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われ、
船に乗り移られたのだそうです。

 イエスの弟のヤコブは言います。
「神に近づきなさい。
そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。
二心の人たち。
心を清くしなさい」(ヤコブ4:8)、と。

 「清く」、ピュア(pure)、純粋に、混じりけがない、単一な心に。
苦しいなら苦しいだけ、
悲しいなら悲しいだけ、泣きたいならなきたいだけ、
憂いているなら憂いだけの心に成り切って、
直心、
その時その時の本当の心に成り切って、
神に近づきなさい、と。

 へりくだって、自分のありのままの、
罪のままの、
信仰などない自分を認めて、
天の神、主にお願いしていきなさい、と。
そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます(ヤコブ4:9~10)、と。

 「天の神、主、「『わたしはある』と名乗られる方」、
「こうする」と言われたら、そのとおりになさる方、
その方ご自身が、私たちの先を進まれる。
主が私たちと共におられる。
主は私たちを見放さず、私たちを見捨てられない」(申命記31:8)方、
なのだそうですから。
恐れているなら、恐れているまま、
おののいているなら、おののいているまま、

手ぶらでも、何も持たないままでも、
御思いの中に一歩、踏み出して行けば、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が共にいて、
先に進み、しんがりを守り、
御業を実現してくださるのだそうですから。
今日も。
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私たちの先を進み、しんがりも守ってくださるのだそうです。この方が。

2018-02-21 09:38:31 | 聖書から
あなたたちの先を進むのは主であり、
しんがりを守るのもイスラエルの神である。イザヤ書52:12
 
私たちは聞いたことに
いっそう注意を払わねばなりません。
そうでないと、
押し流されてしまいます。ヘブル書2:1

 申命記8:11~18
 申命記30:11~20(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句2/21;水)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は
イザヤを預言者として立てて言われます。


「あなたがたは、あわてて出なくてもよい。
逃げるようにして去らなくてもよい。
主があなたがたの前に進み、
イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられるからだ」(イザヤ52:12新改訳)、と。

 私たちの救いは、〔父である神〕ご自身が計画し、
〔御子である神〕がその手続きを完了され、
約束のとおりに〔聖である霊〕と呼ばれる方が、
受け入れる者に来られて実現してくださるのだそうですから。

 〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神が、
愛と尊敬において、
自由意思で自発的に
〔父である神〕と思いを同じくし、
心を一つにしておられるように、
私たちも〔父である神〕と思いを一つにする者へと。

 神さまの側で、一方的に、全部、用意していてくださって、
私たちは約束のことばに信頼して、
ただ、受け取ればいい、もらえばいいのだそうですから。

 だから、聞いた約束のことばにいっそう注意を払い、
心に留めて、押し流されないように、と注意されているのですね。


「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている私たちは、
その、〔生まれたときからの私〕という霊を、
イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて
処刑されたもの、死んだものとしていただき、
〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
この方によって、〔父である神〕の御思いを心に置いていただいて、
〔父である神〕と思いを同じくし、
心を一つにして生きる、
新しい生き方をいただいているとはいえ、
常に、この、〔生まれたときからの私〕という霊から心に来る、
自分の理性で事の善し悪しを判断し、
自分の理性による判断で生きようとする、
元の生き方に帰ろうとする者、なのですから。

 私たちは、食べて満ち足り、
立派な家に住み、
富がまし、生活が安定すると、
心高ぶり、
神である主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方を忘れ、
心のうちで、
「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ」と言い出す者、
なのですから(申命記8:11~18)。


「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている私たちは、
自分の創造主を無視して、自分の理性を神としていく者のようです。


それで、私たちは、
「救いのことばを、だれが天に上り、
あるいは、地の奥底、海のかなたに行って、
取って来て、私たちに聞かせて行わせようとするのか」とうそぶくのですが、
いのちと幸い、死とわざわいの道は、私たちの身近に、目の前にあるのだそうです。


もし私たちが口でイエスを主と告白し、
心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が来てくださるのだそうですから。

「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」
のだそうです(申命記30:11~20、ロマ10:5~13)。


 イエスの十字架刑での処刑と、死者の中からの復活によって実現した、
〔聖である霊〕と呼ばれる方により、
〔父である神〕と思いを同じくし、心を一つにして生きる、
新しい契約は(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28、ルカ22:17~20、ヨハネ17:21~22、)、
有効なのだそうですから。
今日も。
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恵み深く、憐れみに富む、驚くべき御業を記念しながら

2018-02-20 10:45:21 | 聖書から
恵み深く憐れみに富む主は、
驚くべき御業を記念するように定められた。詩111;4

 私たちが神を賛美する賛美の杯は、
キリストの血にあずかることではないか。
私たちが裂くパンは、
キリストの体にあずかることではないか。Ⅰコリント10:16

 ヨブ記1:1~22
 申命記27:11~26(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖2/20;火)

 イエスは、ご自分が、数時間後には捕らえられ、
十字架刑での処刑を受けられる前の晩の、
過ぎ越しの祭りの食事の席で、
過ぎ越しの杯を取り、感謝をささげて後、弟子たちに言われたのだそうです。
「これを取って、互いに分けて飲みなさい」。

 それから、過ぎ越しのパンを取り、感謝をささげてから、裂いて、
弟子たちに与えて言われました。
「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。
わたしを覚えてこれを行いなさい。」

 食事の後、過ぎ越しの杯も同じようにして言われた。
「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です」、と。

 ヨブは、自分の7人の息子たちの誕生日の祝宴が一巡すると、
子どもたちを呼び寄せ、
彼らひとりひとりのために、
それぞれの全焼のいけにえをささげていたのだそうです。
「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、
心の中で神をのろったかもしれない」と思って(ヨブ1:5)。

 私たち、天の神、主と、思いを一つにせず、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になって」
自分の理性の善し悪しの判断のとおりを歩む者、
「神に呪われる」はずの者ですが(申命記27:11~26)、
〔父である神〕は、ヨブが子どもたちのためにしたように、
〔独り子である神〕を人間イエスとして人の世に遣わしてくださり、
イエスが十字架刑で裂かれた肉、流された血によって私たちを赦し、
受け入れる者に、もう一人の助け主、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
受け入れる者が、愛において、ご自身と思いを同じくし、
心を一つにするように、と、道を開いてくださっているのだそうです。

 それで、これにあずかっている者は、
イエスの裂かれた肉、流された血を記念しながら、
イエスによって締結された新しい契約(エレミヤ31:3134、エゼキエル36:25~28)、、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる
〔父である神〕の御思いによって生きるのだそうです。
今日も。
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神の秘められた計画をゆだねられた管理者として

2018-02-19 07:54:41 | 聖書から
もし主に仕えたくないというならば、
仕えたいと思うものを、
今日、自分で選びなさい。
ただし、私と私の家は主に仕えます。ヨシュア記24:15

 こういうわけですから、
人は私たちをキリストに仕える者、
神の秘められた計画をゆだねられた
管理者と考えるべきです。Ⅰコリント4:1

 Ⅱテサロニケ3:1~5
 申命記27:1~10(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句2/19;月)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
私たちが、恐怖によってではなく、
愛によって、自由意思で、自発的に、
ご自身を「私の神」として選び、
仕える者になってほしいと願っておられる方のようですね。

 イスラエルの民をエジプトから脱出させ、
約束の地に導いたモーセの後継者として、
約束の地をイスラエル12部族に分割したヨシュアも、
自分の死を前にして、イスラエルの民にこのように言っています。


 また、使徒パウロも、
自分たちを、キリストに仕える者、
神の計画をゆだねられた管理者として、
テサロニケの人たちに書き送っています。
「私たちが命じることを、あなたがたが現に実行しており、
これからも実行してくれることを私たちは主にあって確信しています。
どうか、神である主が、あなたがたの心を導いて、
神の愛とキリストの忍耐を持たせてくださいますように」(Ⅱテサロニケ3:4~5)と。

 モーセもイスラエルの民に言いました。
「あなたがたが、あなたの神、主が与えようとしておられる地に向かって
ヨルダン川を渡る日には、
大きな石をエバル山に立て、
それらに石灰を塗り、
この、御教えのすべてのことば書きしるしなさい。
静まりなさい。
イスラエルよ。聞きなさい。
きょう、あなたは、あなたの神、主、
「『わたしはある』という者」と名乗られる方の民となった。
あなたの神、主の御声に聞き従い、
私が、きょう、あなたに命じる
主の命令とおきてとをおこないなさい」(申命記27:1~10)、と。

 今、イエスの十字架刑での処刑と、復活によって、
新しい契約に仕える者、
文字に仕える者ではなく、
御霊に仕える者(Ⅱコリント3:6)としていただいた者は、
御霊、〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる
〔父である神〕の御思いについて行く者、
御思いを実行していく者(エレミヤ31:31~33、エゼキエル36:25~28、ガラテヤ5:24~25)として用いていただけるのだそうです。
今日も。
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