朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

裏切られることのない望みなのだそうです。これは。

2016-11-20 21:51:03 | 聖書から
腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。ルカ12:35(11/20の週の聖句)




 あなたの仰せによりすがらせ、

命を得させてください。詩編119:116




 どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。

また、あなたがたの霊も魂も体も何一つかけたところのない者として守り、

私たちの主イエス・キリストの来られるとき、

非のうちどころのないものとしてくださいますように。Ⅰテサロニケ5:23




 マタイ25:1~13 

イザヤ書26:7~19

      (ローズンゲン日々の聖句11/20;Ⅲ日)




 婚礼に出かけた主人がいつ帰って来てもいいように、真夜中に、あるいは明け方に帰って来ても、身支度を整え、部屋に明かりをともして待っているのを見られる僕は幸いなのだそうです(ルカ12:35~38)。




 また、花婿がいつ到着してもいいように、遅れて真夜中になってもいいように、予備のともし火の油を用意して待っている出迎えの娘のようでありなさいとイエスはおっしゃるのですね(マタイ25:1~13)。

イエスが2度目に来られるときは、思いがけない時に来られるのだそうですから(ルカ12:40)。







 私たち自身である「生まれたときからの霊」は、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっていて、天の神、主に逆らい、対抗する者なのだそうです。




自分自身はそういう者であることを認めて、

この自分自身、「生まれたときからの霊」をイエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、死んだ者としていただき、

この「生まれたときからの霊」から来る思いは死んだ者から来ている思いであるとして、これを横に置いておくのだそうです。




そして、イエスが派遣してくださるもう一人の助け主、「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えするなら、この方が、私たちひとり一人に思っていてくださる「父である神」の御思いを心に置いてくださるので、その思いに従って生きていけばいいのだそうです。




そうするなら、受け入れる者は新しい関係を「父である神」と持つようになり、神である主と一つになっている者、聖なる者、この世から取り分けられた者とされ、イエスが来られたとき、霊も魂もからだも何一つかけたところのない、非の打ちどころのないものにしていただけるのだそうです。




 それで、その生き方をいただいている者は、イエスが来られるのが真夜中だろうと明け方だろうと大丈夫なのですね。




 受け入れる者は、主人の帰りを待つ僕のように、花婿の到着を待つ出迎えの乙女たちのように、イエスが来られるのを待ちながら、「父である神」の御思いを求めて生きるようになるのだそうですね。

この新しい週も。


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あの方と一つ霊になって生きる

2016-11-19 09:31:13 | 聖書から

人々は必ずあなたたちに言う。

「ささやきつぶやく口寄せや、霊媒に伺いを立てよ。

民は、命ある者のために、死者によって、

自分の神に伺いを立てるべきではないか」と。イザヤ書8:19




 主に結ぶ付く者は

主と一つの霊になるのです。Ⅰコリント6:17




 黙示録20:11~15

 Ⅱペトロ3:10~18

      (ローズンゲン日々の聖句11/19;土)




 私たち人間は、造り主である天の神との「一つ」の場にとどまることを嫌い、

天の神、主、「私はあるという者」と名乗られる方に対抗し、

神のひとりのようになろうとして「善悪を知る者」(創世記3:5、22)になり、

自分一人の理性の判断でことの良し悪しを決定する者になってしまっているのだそうです。




 けれども、人間は、全知でも全能でもなく、死ぬ者になっているため(創世記3:19)、自分の力に余る出来事に遭遇することになります。




そのようなときも、なお、天の神、主に帰ろうとはせず、

いよいよ対抗して、天の神、主に反抗している霊どもの所にすがって行くのだそうです。

口寄せや霊媒、占いなどに。




 それでもなお、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、私たち人間と「一つ」になろうと願い続けて下さって、

まず、「御子である神」が、「女の子孫」として、ダビデの子孫のひとりの貧しい処女、マリヤの胎を通して、人間イエスとして人の世に来られ、すべての人間のすべてのそむきの罪の責任を取って、自分から十字架刑での処刑を受けてくださり、私たち自身である私たちの「生まれたときからの霊」を処刑されたもの、処罰が終わっている者、死んだ者としてくださるのだそうです。




 そのうえで、受け入れる者に、もう一人の助け主、「聖である霊」と呼ばれる方が来てくださって、受け入れる者の心に「父である神」が私たちひとり一人に思っていてくださる御思いを置いてくださるので、受け入れる者は「父である神」と同じ思いを思うようにしていただけ、「一つ」心になり、「父である神」がその人を通してしようと思われることをしていく者、「一つ」行動をとる者にしていただけるのだそうです。




「生まれたときからの霊」から出て来る思いを、「死んだ者」から来た思いであると認めてこの思いは横に置いて、「聖である霊」から来る「父である神」の御思いによって生きる、「主と一つの霊」で生きる者にしていただけるのだそうです。

今日も。



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自分が自分を責めさいなむときも、あの方が私の保証人になって

2016-11-18 08:16:20 | 聖書から
わが主よ、

  私は責めさいなまれています。

 どうか私の保証人となってください。イザヤ書38:14




  “霊”は弱い私たちを助けてくださいます。

私たちはどう祈るべきかを知りませんが、

“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって

執り成してくださるからです。ロマ書8:26




 ヘブル書13:17~21

 Ⅱペトロ3:1~9

      (ローズンゲン日々の聖句11/18;金)




 人からの中傷に、また、自分が自分を責め、自分自身によって責めさいなまれているときに、私たちの主である御子イエスが私の保証人になってくださり、弁護人になってくださるのだそうです。




 この方が、私たちの身代わりになって、私たちのそむきの罪の責任を全部背負って処刑されてくださり、私自身である「生まれたときからの霊」を処刑されたもの、死んでしまった者と手続きしてくださって、ご自分のいのちで保証していてくださるのだそうですから。




 だから、告訴する者がどんなに私の罪を並べ立てても、自分が自分を責めたてていても、イエスは、それらの一つひとつがすでに処罰済みで、罰すべきものは何一つ残っていないとご自身の命を懸けて弁護してくださるのだそうです。




 さらに、私たちは、どう祈ったらいいのか分からない者、「父である神」とどういう関係をもったらいいのか分からない者ですが、イエスが派遣してくださる「聖である霊」と呼ばれる方が受け入れる者のうちにあって、「父である神」に執り成してくださり、私たちの本心を明らかにしてくださり、祈りの言葉も導いてくださるのだそうです。




 そして、「聖である霊」と呼ばれる方は、私たちの「生まれたときからの霊」から来る思いを、死んだ者から来た思いであることを分からせてくださり、「父である神」が私たちひとり一人に思っていらっしゃる御思いを心に書き付けてくださって、御心のとおりに生きる者にしてくださり(ブル13:20~21)、御子イエスが「父である神」ともっておられる関係と同じ関係に入れてくださり、同じ栄光を与えてくださるのだそうです。




 「神は、あらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになり、御子イエスのかたちと同じ姿にならせようとしていてくださるのだそうですから(ロマ8:29~30)。




 「聖である霊」と呼ばれる方は、御子イエスが、「父である神」の御思いのとおりに生きられたように、私たちも、「父である神」がそれぞれの場で、私たちを通してしようと思っていらっしゃることをしていくよう、導いてくださるのだそうです

今日も。


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心の包皮を切り取った、柔らかな心の者に

2016-11-17 08:38:42 | 聖書から
見よ、

  天とその天の天も、

   地と地にあるすべてのものも、   

    あなたの神、主のものである。申命記v10:14




 世界が造られたときから、

目に見えない神の性質、

つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、

これを通して神を知ることができます。ロマ1:20




 ルカ15:1~10

 Ⅱペトロ2:12~22

      (ローズンゲン日々の聖句11/17;木)




 神の、目に見えない本性、神の永遠の力と神性は、世界の創造されたときからこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められているものなのだそうです。




 その方が言われるのですね。

「イスラエルよ。今、あなたの神、主、「私はあるという者」と名乗られる方があなたに求めておられることは何か。

それは、ただ、あなたの神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主、「私はあるという者」と名乗られる方に仕え、あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主、「私はあるという者」と名乗られる方の命令と主のおきてとを守ることである。

見よ。天ともろもろの天の天、地とそこにあるすべてのものは、あなたの神、主、「私はあるという者」と名乗られる方のものである。

主は、ただあなたの先祖たちを恋い慕って、彼らを愛された。

そのため彼らの後の子孫、あなたがたを、すべての国々の民のうちからら選ばれた。

あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。

もう、うなじのこわい者であってはならない」(申命記10:12~16新改訳)と。







 私たちは、義の道を知っても、自分に伝えられたその聖なる命令に背くばかりの者、「犬は自分の吐いた物に戻る」、「豚は身を洗っても、また泥の中にころがる」(Ⅱペテロ2:12~22)ですが、天の神、主、「私はあるという者」と名乗られる方は、いなくなった一匹の羊を見つけるまで捜し歩き、見つけたら大喜びでその羊を肩に載せて帰って来る羊飼いのように、

また、10枚セットの銀貨の一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで捜し、見つけたら、友達や近所の人を呼び集めて喜ぶ女性のように、私たちを捜し、ご自分に帰って来るのを喜んでくださる方なのだそうです。




 うなじのこわい、自分一人で善悪を決定する者になって、天の神、主に聞こうとせず、自分の理性の判断を押し通すものになっている「生まれたときからの霊」という私自身を、御子イエスの十字架刑での処刑に合わせて、処刑済みのもの、死んだ者としてくださり、

受け入れる者に、もう一人の方、「聖である霊」と呼ばれる方をお遣わしくださって、受け入れる者が「生まれたときからの霊」から来る思いで生きるのではなく、「聖である霊」と呼ばれる方から来る「父である神」の御思いによって生きる者に、「心の包皮を切り取った者」にしてくださり、「父である神」がしようと思われることをしていく者にしていただけるのだそうです。

今日も。


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喜び祝います。喜びに満ち溢れて

2016-11-16 08:11:40 | 聖書から

あなたを避けどころとする者は皆、
  喜び祝います。詩編5:12

 あなたがたは、
イエス・キリストを見たことがないのに愛し、
今見ていなくても信じており、
言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに
   満ちあふれています。Ⅰペテロ1:8

 ルカ13:1~9
 ロマ2:1~11
 Ⅱペテロ2:1~11
      (ローズンゲン日々の聖句11/16;水)

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、私たち人間が、ひとりでも滅びることを望まず、
すべての人が、イエスが身代わりとなって十字架刑での処刑を受けて完成してくださった救いを受け取り、
すべてのことにおいてイエスを避けどころとし、
「聖である霊」と呼ばれる方によって実現する、神である主と心を一つにして生きるという喜びに満ち溢れた新しい生き方を受け取るようにと願って、
裁きのとき、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いを与えるとき、恵みの締め切りを、一年、もう一年と待っていてくださるのだそうです。
慈愛と忍耐と寛容をもって。
今日も。
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