主はこう言われる。
わたしはあなたの祈りを聞き、
涙を見た。
見よ、わたしはあなたをいやす。列王記下20:5
ラザロが病気であった。
姉妹たちはイエスのもとに人をやって、
「主よ、
あなたの愛しておられる者が病気なのです」
と言わせた。ヨハネ11:2~3
出エジプト3:13~20
ヘブル書11:8~22(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句5/28;月)
南ユダ王国の王、ヒゼキヤは、病気になって死にかかっていた。
そこへアモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。
「主はこう仰せられます。
『あなたの家を整理せよ。
あなたは死ぬ。直らない。』」
そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて、主に祈って、言った。
「ああ、主よ。
どうか思い出してください。
私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、
あなたがよいと見られることを行ってきたことを。」
こうして、ヒゼキヤは大声で泣いた。
イザヤがまだ中庭を出ないうちに、
次のような主のことばが彼にあった。
「引き返して、わたしの民の君主ヒゼキヤに告げよ。
あなたの父ダビデの神、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗る者、
主はこう仰せられる。
『わたしはあなたの祈りを聞いた。
あなたの涙も見た。
見よ。わたしはあなたをいやす。
三日目には、あなたは主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗る者の宮に上る。
わたしは、あなたの寿命をもう15年加えよう。
わたしはアッシリアの王の手から、あなたとこの町を救い出し、
わたしのために、
また、わたしのしもべダビデのためにこの町を守る。』」
イザヤが「干しいちじくをひとかたまり、持って来なさい」と命じたので、
人々はそれを持って来て、腫物に当てた。
すると、彼は直った」(イザヤ20:1~7新改訳)。
兄弟のラザロが病気になったとき、
マルタとマリヤは、イエスの所へ使いを送って、
「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」
と言ったのだそうです。
天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は、
私たちの願いを聞き、
私たちをいやしてくださる方。
マルタとマリヤは、このイエスが、
その、天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方(出エジプト3:13~20)、
〔御子である神〕であることを認めて、
こう言い送ったということなのでしょうね。
この方への信頼において、アブラハムは、
相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、
これに従い、
どこに行くのかを知らないで、
出て行き、
その信頼によって、
彼は約束された地に他国人のようにして住み、
同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。
この方への信頼によって、アブラハムの妻、サラも、
すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。
彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。
この方への信頼によって、アブラハムは、
試みられたとき、独り息子のイサクをささげ、
イサクは、未来のことについて、
息子のヤコブとエサウを祝福したのだそうです。
この方への信頼によって、ヤコブは死ぬとき、
ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し、
また自分の杖のかしらに寄りかかって礼拝し、
ヨセフは臨終のとき、
イスラエルの子孫の(エジプトからの)脱出を語り、
自分の骨について、
(約束の地に持って行くよう)指図したのだそうです(ヘブル11:8~22)。
私たちも、この方への信頼において、
十字架刑での処刑を受け、
死んで葬られ、
三日目に死人の中から新しい霊のからだに復活した
イエスを通して来てくださる、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる、
〔父である神〕の御思いの中に出て行くのですね。
この方の行うわざを行う(ヨハネ14:12)ようにと。
今日も。
(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)
イメージ 1
[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]
[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]
わたしはあなたの祈りを聞き、
涙を見た。
見よ、わたしはあなたをいやす。列王記下20:5
ラザロが病気であった。
姉妹たちはイエスのもとに人をやって、
「主よ、
あなたの愛しておられる者が病気なのです」
と言わせた。ヨハネ11:2~3
出エジプト3:13~20
ヘブル書11:8~22(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句5/28;月)
南ユダ王国の王、ヒゼキヤは、病気になって死にかかっていた。
そこへアモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。
「主はこう仰せられます。
『あなたの家を整理せよ。
あなたは死ぬ。直らない。』」
そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて、主に祈って、言った。
「ああ、主よ。
どうか思い出してください。
私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、
あなたがよいと見られることを行ってきたことを。」
こうして、ヒゼキヤは大声で泣いた。
イザヤがまだ中庭を出ないうちに、
次のような主のことばが彼にあった。
「引き返して、わたしの民の君主ヒゼキヤに告げよ。
あなたの父ダビデの神、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗る者、
主はこう仰せられる。
『わたしはあなたの祈りを聞いた。
あなたの涙も見た。
見よ。わたしはあなたをいやす。
三日目には、あなたは主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗る者の宮に上る。
わたしは、あなたの寿命をもう15年加えよう。
わたしはアッシリアの王の手から、あなたとこの町を救い出し、
わたしのために、
また、わたしのしもべダビデのためにこの町を守る。』」
イザヤが「干しいちじくをひとかたまり、持って来なさい」と命じたので、
人々はそれを持って来て、腫物に当てた。
すると、彼は直った」(イザヤ20:1~7新改訳)。
兄弟のラザロが病気になったとき、
マルタとマリヤは、イエスの所へ使いを送って、
「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」
と言ったのだそうです。
天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は、
私たちの願いを聞き、
私たちをいやしてくださる方。
マルタとマリヤは、このイエスが、
その、天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方(出エジプト3:13~20)、
〔御子である神〕であることを認めて、
こう言い送ったということなのでしょうね。
この方への信頼において、アブラハムは、
相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、
これに従い、
どこに行くのかを知らないで、
出て行き、
その信頼によって、
彼は約束された地に他国人のようにして住み、
同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。
この方への信頼によって、アブラハムの妻、サラも、
すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。
彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。
この方への信頼によって、アブラハムは、
試みられたとき、独り息子のイサクをささげ、
イサクは、未来のことについて、
息子のヤコブとエサウを祝福したのだそうです。
この方への信頼によって、ヤコブは死ぬとき、
ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し、
また自分の杖のかしらに寄りかかって礼拝し、
ヨセフは臨終のとき、
イスラエルの子孫の(エジプトからの)脱出を語り、
自分の骨について、
(約束の地に持って行くよう)指図したのだそうです(ヘブル11:8~22)。
私たちも、この方への信頼において、
十字架刑での処刑を受け、
死んで葬られ、
三日目に死人の中から新しい霊のからだに復活した
イエスを通して来てくださる、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる、
〔父である神〕の御思いの中に出て行くのですね。
この方の行うわざを行う(ヨハネ14:12)ようにと。
今日も。
(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)
イメージ 1
[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]
[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]