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朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

武力によらず、権力によらず、ただわが霊のよって

2016-12-21 22:10:47 | 聖書から
武力によらず、権力によらず、

  ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。ゼカリヤ書Zechariah4:6




 信仰によって、

エリコの城壁は、崩れ落ちました。ヘブル書Hebrews11:30




 黙示録Revelation22:16、17、20、21

 ルカLuke1:39~56

      (ローズンゲン日々の聖句12/22;木)




 天の神、主によって特別に選ばれ、

律法というかたちで御思いを示され、

「主の仰せられたことはみな行い、聞き従います」と答えて、

神の民となる契約を結んだイスラエルの人々(出エジプト記Exodus19:4~8、24:3~8)。




 けれども、天の神、主、「私はある」という者と名乗られる方との、

「一つ」になる生き方を捨て、

天の神、主に対抗して、

「神のひとりのようになり、善悪を知る者」となったアダムの子孫であることからは

まぬかれることはできなかったのだそうです。




 天の神、主の呼びかけに応じようとせず、

うなじのこわい者、自分の思う通りの道を行く者だったのだそうです。




 それで、天の神、主は、これ以上、放置できなくなって、

北からバビロン軍を呼び寄せてエルサレムを攻めさせ、

ついにエルサレムは陥落し、

頼みとしていた神殿も破壊され、

城壁も壊されてしまったのだそうです。




そして、民は捕囚としてバビロンに引いて行かれたのだそうです。




 けれども、天の神、主のご計画の70年の時が満ちて、

ユダヤの人々はペルシャのクロス王によってイスラエルへの帰還を許され、

神殿再建に取りかかりますが、

周囲の異民族の妨害に会い、工事は18年間中断されたのだそうです。




 それで、天の神、主は、ハガイやゼカリヤを預言者として立てて民を励まし、

指導者であったゼルバベルへの励ましの言葉として、

「わが霊によって」神殿再建工事は完成すると仰られたのだそうです。




 「わが霊によって」ことが成る。

それはエリコの時もそうだったようです。




 エジプトの奴隷状態を脱出したけれど、

民の不信仰のゆえに40年の荒野での生活を過ごしたイスラエルの民に、

天の神、主は「北のほうに向かって行け」(申命記Deuteronomy2:3)と命じられたのだそうです。




 そして、ついにヨルダン川を渡ったイスラエルの民の前には、

エリコの城壁が立ちはだかっていました。

投降を呼びかける声に聞かず、城門を堅く閉ざすエリコの町。




 そのとき、天の神、主は、指導者ヨシュアに仰せられたのだそうです。

「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。

あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。

町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。

七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、

七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。

その角笛の音を聞いたなら、

民はみな、大声でときの声をあげなければならない。」(ヨシュア記Joshua6:2~5)と。




 そして、民がその言葉のとおりにしたとき、エリコの城壁が内側に崩れ、

イスラエルの民はエリコを攻め取ることができたのだそうです(ヨシュア記Joshua6:20)。




 天の神、主、「わたしはある」という者と名乗られる方を信頼し、その言葉に従った結果だとヘブル書の記者は言うのですね。




 イエスはおっしゃられるのだそうです。

「わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。

然り。わたしはすぐに来る」と。




それで、私たちも答えるのですね。

「アーメン。主イエスよ。来てください」(黙示録Revelation22:16、20)と。

今日も。


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ズレてしまっているのだそうです。私たちの理性の判断は。

2016-12-21 09:52:09 | 聖書から
災いだ、
賄賂をとって悪人を弁護し、
正しい人の正しさを退ける勇者は。イザヤ書Isaiah5:22~23

 あなたがたは、
自分の裁く裁きで裁かれ、
自分の量る秤で量り与えられる。マタイMatthew7:2

 黙示録Revelation3:7、8、10、11(12) 
 ルカLuke1:26~38
      (ローズンゲン日々の聖句12/21;水)

 私たちの自分の理性による判断は、このことばのように、ずれているもの、自分ばかりを正しいとするものなのだそうです。

 私たち人間は、天の神、主、「わたしはある」と名乗られる方によって、
「われわれが一つになっているように、われわれと一つになるものがもっと欲しい」と
望まれて造られたものなのだそうです(創世記Genesis1:;26、ヨハネJohn17:21~23)。

 けれども、最初の人、アダムとエバは、
この天の神、主、「わたしはある」と名乗られる方と一つになっている場に留まるよりも、
もっと素晴らしい者に、なろうとして、
天の神、主に対抗して、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」(創世記Genesis3:5、22)になって、
天の神、主に聞こうとせず、
自分の理性を神とし、自分の理性の判断を実現していく者になったのだそうです。

 その、最初の人アダムの「的外れ」を受け継いでいる私たち人間は、
神のように、「全知」になろうとして、部分的な知識しかなく、
「全能」になりたいと願いながら、自分の力の限界にぶつかり、
神のように清い者にと願いながら、汚い自分にぶつかり、
「永遠不変」なものでありたいと願いながら、病気になり、また、死ぬものである限界にぶつかるのですね。


そして、その足りない自分に不満で、
ありのままの自分を受け入れることができない存在になっているものなのだそうです。

 その、造られた場からずれてしまっている、私たちの理性、その判断は的外れになっていて、
力を持ち、権力を持つほどに、
「悪を善、善を悪とし、
やみを光、光をやみとし、
苦みを甘み、甘みを苦みとし、
おのれを知恵あるものとみなし、悟りのあるものと見せかけ、
酒を飲むことの豪の者となり、
わいろのために悪者を正しいと宣言し、
正しい人を正しくないとしてしまうのだそうです(イザヤIsaiah5:20~23)。

 また、まじめに生きようと努力している人ほど、他の人の「なっていないさま」が目につき、
これを裁記き、非難する思いが出てくるのだそうです(マタイMatthew7:2~5)。

 天の神、主は、そのようにはずれてしまっている私たち人間を、なお、愛し、
ご自分と思いを一つにし、心を一つにする者に取り戻そうとしておられるのだそうです。

 それで、御子である方が、人間イエスとして人の世に来られて(ルカLuke1:26~38)、
私たち、すべての人間のすべてのそむきの責任をご自身に背負って、
神に背く者として十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。

 そして、これを受け入れる者の「生まれた時からの霊」を、
イエスの死刑に合わせて処刑されたもの、死んだものとしてくださるのだそうです(ロマRomans5:11、ガラテヤGalatians5:24)。


 そのうえで、受け入れる者に、もう一人の助け主、
「聖である霊」と呼ばれる方を派遣してくださるのだそうです(ヨハネJohn14:16)。

 この方が、受け入れる者の心に、
「父である神」が一人一人に思ってくださっている思いを置いてくださるので、
受け入れる者は、
自分の「生まれた時からの霊」から出て来る思いを「死んだ者から来た思いである」と認めて横に置き、
この部分において、「父である神」と同じ思いを思い、一つ心になることができ、
「父である神」がその人を通してしようと思っておられることをしていく者にしていただけるのだそうです(ヨハネJohn14:12)。

 天の神、主は、このイエスが十字架刑による処刑を受けてくださって開いてくださった、
ご自分と思いを一つにして生きるようにとの新しい生き方を私たちが受け取り、
神がしようと思われることをする者になって、
やがて御国が実現するときに受ける、
「神と一つになっている者」としての栄光の冠をだれにも奪われないように、
と言っておられるのだそうです(黙示録Revelation3:11)。
今日も。
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