沖縄の日常

日々変わり行く沖縄と自然とつれづれなるままに

運転しながら・・・

2010年11月09日 | 日々のこと
 先日、宜野湾市の結婚式へ出席するために高速を走っていたら、CIMAという車が追い越していった。とっさに昔の事を思い出した。
 昔勤めていた会社に年の近い二人の上司がいた。年はちょっとしか違わないが、中小企業のこの会社での彼らの働きには目を見張るものがあって頼りがいのある二人だった。
 
 で、その一人が車が大好きな奴(ごめんね奴よばわりして)で、結婚する時に、彼女の父親に「BMWを買うのだけは許して下さい。外には賭け事も悪いことは何もやりませんので」とお願いして、BMWを買ったと話してくれたことがあった。
 私は車にはちっとも興味が無いのだが、その話に引き込まれて、そんなに彼がほれ込んだBMWとはどんな車なのか興味があった。一度見せてと言っておいたので、ある日、車で通勤してきたからと言って、会社から銀座までの短い距離を乗せてもらった。初めて見たBMW
は驚くようなものではなく、バンパーの下にも地面すれすれに何かが付いていた。
「じゃまくさそう」
と言ったら、
「なにっ!をいう?これが良いんだよ、これが」
と。う~~~ん、私にはじぇんじぇんわかりませんという感じだった。

 その彼が、ある日「社長が新車を買った」と大騒ぎしていた。○百万くらいと言ったのだろうか?それが「CIMA」だった。興味のない私も釣られて一緒に車庫まで見に行った。新車でぴかぴかなのはいいなと思うだけで、特別な気持ちにはならなかった。
 しかし、男どもの目はぎらぎら羨望のそれだった。

 車に興味はないが、車にこんなに熱くなる男も嫌いではない。かわいいという気がした。
 ある程度は、車の事を知っている男の方が恰好いいし、今も乗っているのだろうか?みんな元気かな~。

 高速で私を追い越して行った「CIMA」を見て、そんな事を思いながら運転していた

 (写真は最近書いた水彩画)

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勝連城跡⑤

2010年11月08日 | 日々のこと

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勝連城跡④

2010年11月08日 | 日々のこと

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勝連城跡③

2010年11月08日 | 日々のこと

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勝連城跡(世界遺産) ②

2010年11月08日 | 日々のこと
 勝連城跡で、物思いにふけっているのは私だけではなかった。彼(鳥くん)も、遥かなす太平洋をながめて、「平和な世の中が一番だねー」とつぶやいていた。

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勝連城跡(世界遺産)

2010年11月07日 | 日々のこと
 先日また勝連城跡へ上った。写真の通り城へ通ずる道は視界が開け、急な傾斜で外敵をいち早く確認できるような作りになっている。四っつの曲輪からなり、城壁の石は珊瑚質石灰岩の切り石が使われ、優雅で美しい。

 最も高い一の曲輪からは、北側に金武湾を挟んで北部の山並みが見え、東に平安座島、宮城島、伊計島が、南には中城湾から遠く太平洋を一望できる、360度の雄大な景色。

 この勝連城跡は、今帰仁城跡、中城城跡と共に、世界遺産に登録されている。その中で私はここが一番好きだ。朝から勝連城に上れるとわくわくしていた。
 この城の主など詳しいことは、ボランティアガイドさんに案内してもらったお陰で、今まで興味のなかった歴史本も読んでみようかなという気持ちにさせられた。

  今、5夜連続放送されたテレビドラマ「JAPANESE AMERICANS」をみた。真珠湾攻撃から始まった、アメリカ移民した日系一世の苦難の人生と「442部隊」、忘れてはならない。私の父も含めて、戦争の時代に生きた人々は多かれ少なかれ歴史に翻弄された人生を送っている。
 広島、長崎と二個も原爆を投下されたこと、忘れてはならないと改めて思い知ることができた。

 自分が死ぬ時には、何を願うのだろうかと想像してみた時、やっぱり「戦争のない平和な世がいつまでもつづきますように」と私は願うだろう。子や孫のために。

 戦争で無ければ、働けばどうにか食べていける。しかし。戦争が起ってしまうと、人間は人間でなくなり、畜生に陥ってしまい、憎しみの連鎖を生む。そのことがどんなに酷い悲惨な事なのか、私たちは体験しなくとも本を読んだり、あらゆる情報を収集すればわかる。人間としての尊厳を失ってしまう戦争。

 脚本を書いた橋田壽賀子さんの残したいメッセージもそうだったのだろうと思う。

 私を始め戦争体験のない人へのメッセージとして、一世の方々が居なくなってもそれは心の中に刷り込むように、伝えて行かなくてはならない事である。

 主のいないすべての城跡は、人間の愚かさをも教えてくれる。

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懐かしい便りが

2010年11月06日 | 小田本(NTB)
 先日、思いがけない人からハガキが届いた。実家の父から電話があり、
「旧姓でハガキがきているよ」と。
 若いころ、小田急デパートのNTB・バルーンで一緒に働いていた仲間からだった。
「写真を整理していたら、あなたのあたたかい見送りの手紙に感謝します」
というお礼の言葉と、近況が書かれていた。
 
 私は手紙のことは覚えてはいないが、30年も前のあの頃の仲間は、昨日の事のように思いだせる。そのレストランには、大学や短大、専門学校に通っている多くのアルバイト生がいた。

 私は4年もいたので、長い方だった、友人たちが学業を終え、一人、二人と帰郷していくのが寂しいなと思ったりしていた。彼女は群馬県の友人だった。父が、
「群馬からだよ」
と言った時、すぐ彼女(旧姓:高沢さん)の顔が浮かんだ。
 昼間大学へ行って、夕方からの5時間を小田急デパート14階にあったレストラン「バルーン」で働いた。時間に追われ、忙しさに追われた日々であったが、あの頃は若かったから
できた。ここで働いた彼女やほかの仲間達との濃い時間は忘れがたい。
 最近になってひとり、二人と知らせが届いたりする。

 できればもう一度、その頃の同窓生会がしたい。
コメント (4)
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チベット族の子どもたち

2010年11月03日 | 日々のこと
 

BSテレビでやっていた「世界のドキュメンタリー 世界の子ども」、昨日は中国青海省の大地震で被災し、孤児になった子どもたちのその後を映していた。
 地震があったのは、1020年4月14日・マグニチュード7、1。北京オリンピック開幕の前だった。
 子どもたちは、ある施設で1月ぐらいの心のケアをということで生活していた。彼等は中国人にされてはいるが、中国語は通じないので、チベット語の通訳を入れていた。その中にいた両親を亡くした幼い兄妹(5歳・3歳)がつかず離れずずーっと手を握っていたのが切ない。中国人の世話係の人にも全然懐かず、心を開こうとしなかった子どもたちだったが、日を重ねる毎に母のように慕っていった。寝る前には、男の子たちから「ほっぺにチューして」とせがまれ、一人が言うとみんな、自分のお母さんにしてもらっていたのだろう、「ぼくも」「ぼくも」と。

 この世話係の方がこの子たちを世話して驚いた事があるという。
 一つは、子どもたちの腕には傷がたくさんあるので、聞くと、チベット族は「蚊を殺してはいけない」、だからどの子の腕も刺されてかさぶたになっていた。「こっちの人は蚊をぱっちっと叩いてころすので、こわかった」「自分がたたかれているようで、心臓がどきっとした」と。
 また、彼らは花も摘まないという。
 そして、何よりも感心したのは、年上の子が幼い子供たちの面倒をよく見てあげること。自分も親を亡くして寂しいが、小さい子はもっと辛いだろうと、年長の子は自分の妹弟のように遊んであげ、抱きしめてあげているのだという。
 そういう気持ちになって上げられるチベットのこどもたちの優しさに驚いたと。
 

この施設で、チベットの踊りや歌を催すイベントがあった。子どもたちは嬉しそうに歌い踊った。震災の起きる前に流行っていたという「お母さんは天国へ行った」という歌が好きでみんなで大合唱をしていた。
 しかし、その歌が終わって、廊下に出た時、一人が泣き、二人が泣き、みんな堪えていたものが溢れて嗚咽となった。
 
 
帰る前に見せておきたいと、「地震直後の様子が撮影されたビデオ」が上映された。現実を分からせることも心を強くするためには必要と、これからの生活の大変さを考えて、迷った末の上映だった。果たして、子どもたちは。真剣に見入っていたが、中には目をそらしている子も。見終わって子どもたちは、泣いていた。みんな泣いた。不思議な事にひとり、ふたりと机の上で手をあわせている。全員がそうしていた。それは、手を合わせて何かをつぶやいていた。「祈ることで悲しみは消えるよ」と教えられているのだという。
切ない。この子たちはもうすぐここを出て行かなくてはならない。ここに居られないものだろうか、と私は思った。
 しかし、子どもたちは、「玉樹(ぎょくじゅ)に帰りたい」と。たとえガレキと化した所でも、故郷なのだ。父と母のいた故郷なのだ。 
 
 私も今日からこの子ども達のために、そして同じBSドキュメンタリーで先日見た「ハイチのこども」たちのために祈ろう。
 

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福花(ふっか)の海

2010年11月01日 | 金武町の風景
 億首川は金武湾に注いでいる。その河口一帯を福花(ふっか)という。

 ふっかは稲作と金武町名産のターマーム(田芋)の緑なす田園地帯となっている。

 ふっかの海沿いには、モクマオウの木が林立している。モクマオウは私の小さいころからあるが、もう大分大きく成長している。旧暦3月3日には、浜降りには村民がここから、遠浅になった海へ出て、貝拾いをやった。
 
 今、ここはキャンプ場になって、多くの観光客や修学旅行生が訪れる場所となっている。

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エーグ岩

2010年11月01日 | 金武町の風景
 金武町の方なら「エーグ岩」は懐かしい風景のひとつ。
 写真の遠くの浜に立つ丸っこい岩が「エーグ岩」。

 由来は、ペリーが沖縄に来航した折に、森(ウランダ森)から金武湾に浮かぶ岩を見て、「エーグ」「エーグ」と言ったらしい。
 島の人は、ペリーの一行が言った名前を「あ~あ、あれは、エーグなんだ」と言ってエーグ岩と命名したらしい。本当は「岩が丸っこいので、「卵のようだ」「卵みたいだ」といったらしいが、由来とは案外素朴なものだ。

 ちなみに実家の父は、「学校に行ってる頃は、エーグ岩までよく泳いで行ったよ」と楽しそうに云った。

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