沖縄の日常

日々変わり行く沖縄と自然とつれづれなるままに

異国のお友達

2018年11月18日 | 移民関係

わが町に来ている海外移住者子弟等研修生を夕食に招待した。
彼等は四ヶ月の滞在で、先祖の出身地である沖縄の文化を学んで、もうすぐ帰国の途に着く。
遠い所から来てくれてありがとう。異国の地に住む彼らの話も聞けて、私も楽しませてもらいました。日本語をよく勉強しています。
ペルー、アルゼンチン、ブラジルから来てくれました。

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ウチナーンチュ

2018年10月27日 | 移民関係

沖縄の新聞には、北米と南米のウチナーンチュコミニュティの記事が普通に載る。
各市町村は、海外に移民した人の子孫を研修生として受け入れている。
また沖縄からもたくさんの青年達が移民地を訪れている。
地球の裏側の国と言われるブラジルやペルー、アルゼンチンが、この交流のおかげでグッと近く感じられる。
新聞記事は同胞のコミニュティの情報を伝えてくれる。ありがたいと思う。
(記事は沖縄タイムス)

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ルーツ

2016年11月19日 | 移民関係

 アルゼンチンの友人が帰って日常が戻ってきた。気を使わないと思いつつも、見送って空港から帰ってきたらぐったり。その夜は久しぶりに熟睡した。
 ルーツを辿るのが彼女の今一番のやりたい事だったのかもしれない。親戚を訪ね、話を聞き、親戚の墓参りをして、持ってきた写真の人が誰なのか、またその家にある自分と繋がるアルバムを見せてもらって、どんな人生を辿ったのか聞いたらしい。
 あまり幸せでなかった親戚の話を聞いて泣いたとも言っていた。
 私たちは沖縄という小さな島で同じ民族で暮らしている。が、アルゼンチンは99%白人社会。でマイノリティで生きている彼女たち移民の人にとって、やはりルーツを知るということは大きな課題なのだと思った。いや、生きる価値を見つけるということかも。彼女からいろいろな話を聞くとそういうことになる。

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南米の旅を終えて

2013年02月19日 | 移民関係


 南米5カ国の旅を終えて帰って来たG君と話した。
 彼は、「また、行きます」「ブラジルで行われるワールドカップのサッカーを見に行きます」と。

 でも、それだけではなくて南米で、町人会の方達に大変お世話になって、
「僕は全然、金武町のことを知らないんだなと思った」
「これからは、どんどん町の行事にも参加して行きたい」
「スペイン語、ポルトガル語ももっともっと勉強したい」と。
 彼は大人になってから金武町に移り住み、養豚業をしている若者です。
 私が、ブラジルで町人会の方と触れ合って感じたことを、彼も感謝とうれしさと、遠い地球の裏側にも沖縄があると感じたようです。
 熱い思いが彼の表情から、伝わってきました。

 行ってみたい!と強く踏み出した一歩が、彼を大きく成長させてくれたようです。
 
 貧富の差が大きいブラジル、沖縄と似てとても住みやすい気候だと感じました。もう少し治安が良くなるように願っています。


 
 写真はブラジルの風景。


 ブログ訪問ありがとうございます。

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移民小唄

2012年08月07日 | 移民関係
 金武町ブラジル移民100周年の式典で「移民小唄」を歌った一世のNさん。
 舞台に上がって、淡々と歌った。

  移民一世の方の苦労は、「金武町史 第一巻・証言編」を読めば知ることができる。一人ひとりの生き様が、波乱万丈である。Nさんは、移民して五年経ったときに夫が亡くなったというから、人一倍苦労してきたに違いない。なのに、そんな事はみじんも感じさせない。すてきな笑顔で「今はカラオケが楽しみだよ」と教えてくれた。

 「辛い」と思う度に「遠くへきたなあ(きてしまったなあ)」と思ったのではないだろうか。
 なぜなら、飛行機を何十時間も乗り継いで、サンパウロへ着いた夜、私自信が、しみじみ「遠くまできたんだなあ」「帰りたいと思っても、すぐには帰れないんだ」と思ったのだから。


 ○ 移民小唄 

  作詞;作曲:福久原朝喜

1、なれし故郷 沖縄の 想い出深き 那覇港 
  泣いて別れた 両親(フタオヤ)と 八重の潮路を 押し渡り

2、海山越えて はるばると 来たる月日も 夢の間に
  もはや1年 たちました 油断するなよ ネー貴男(アナタ)

3、立てし志望の 一筋は 岩もつらぬく 覚悟あれ
  金は世界の まわりもの かせぐ腕には 金ばかり

4、無理なお金も 使わずに 貯めたお金は 国元の
  故郷で祈る 両親に 便り送金も 忘れるな

5、人に勝りて 働けよ 金倹貯蓄も 心掛け
  錦を重ねて 帰る時 親の喜び 如何ばかり



移民口説


 作者:普久原朝喜?


ひとつ開くる此の御代は四海同胞睦まじく共に稼ぐも面白や

二つ親兄弟と別れてはるばると八重の潮路を押し渡り

三つみ国と我が家の富を増さんと雄々しくも尋ね尋ねて此の国に

四つ夜昼時の間も忘るまじきは父母の国馴れし古里沖縄よ

五つ幾年経るとても親に便りを怠るな親に孝事を忘れるな

六つむつびて働けよ金は世界の廻り持ち稼ぐ腕には金がなる

七つ那覇港の桟橋に別れ告げたるあの心いかで忘るる事やある

八つ山より尚高き立てし志望の一筋は岩をも貫く覚悟あれ

九つ心は張弓の緩むことなく他の国の人に勝りていそしめよ

十と所は変われども稼ぐ心は皆一つエイ錦飾らん古里に親の喜び如何ばかり

 感動で泣いてしまいました。おばあちゃん長生きして下さいね。

 ブログ訪問ありがとう。

 (一生懸命書き写してきたのに、その紙が見当たりません。ネットで検索したら、「移民小唄」と「移民口説」があった。どっちだったのだろうか?)

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金武町史 第1巻 移民・証言編

2012年07月30日 | 移民関係
  

 私が友人に「私も小さい頃、移民しようと思っていた時があった」と言ったら笑われたが、本当の事である。
 家が公民館に近かったせいもあるが、あの頃、移民の映画がよく公民館で上映されていて、私は一番前で見ていた。「小さな沖縄から出て、大陸に渡れば、広大な土地が貰える、将来に夢がある」と言うようなものだったかもしれない。今思えば、移民を扇動するような映画だったのだろう。子どもだった私でさえ、その気になったのだから。

 今回の北米、南米を訪問して、元々近所だった方々が多いのに驚いた。ので、もう一度「金武町移民史(3部)」の証言編を読みなおした。

 あの頃の村の人口は今(1万人)より少なかった筈である。(当時の人口については戦争で資料が焼失してわからないようです)。しかし移民人口は実に2千人を超えている。
 


次の資料で、隣組ごとに移民した家とその移民先がわかる。色を塗られていない家、すなわち移民しない家の方が、この並里区では少ない位である。私の実家のある仲栄組では実に80%の方が移民している。当時、どんなに移民熱が高かったかがわかる。

 事実は小説よりも奇なり   

 とても良くできた、よくぞここまで調べ上げたと言う資料である。証言者の方々のお話も小説よりも面白い。今回お会いした一世の方の証言もあり、な~だぐるぐるしながら読んだり、笑わされたり、大変興味深い資料である。

 

  参考資料:金武町史 第1巻「移民・証言編」1996年3月31日発行
       金武町史編さん委員会

 ブログ訪問ありがとう。
 
 

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故郷は遠きにありて思うもの

2012年07月28日 | 移民関係
 ブラジルでお世話になったASAKOさん宅の豪華なマンションの一室には、和室が設えてあった。
 私達はそこで二泊させてもらった。

 和室の床の間には、「日々是好日」の掛け軸と「琉球人形」が飾られていた。
 ブラジルから遥か遠く隔たった故郷、沖縄(日本)がここにあった。故郷を離れて40年以上経っても、故郷はふるさとなんだよね。

 誰も知っている人がいないと思っていたブラジル。紹介されたり、声を掛けてもらったりして、驚いた、私の実家の近所の方ばかりが大勢。こんなにたくさんの方が、あの時代に(40年~50年前に)移民していたのだ。

 私の住む金武町並里区は、「移民の父:当山久三」を輩出した所。移民に対する思いは他所の地域より強く熱いものがあったのだろう。


 地球の反対側にいる私達の同胞。行って良かったと思う。はるか遠く離れた所でも、故郷を熱き思いで見つめながら頑張っている人々がいると言う事を知った事も、なんかありがたい気持ちになった。勇気をもらった気がした。
 ASAKOさんのご家族のみなさん大変お世話になりました。ありがとうございました。
  
 ブログ訪問ありがとうございます。

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ロサンゼルスの気候

2012年07月25日 | 移民関係
  

 ロサンゼルスは真夏なのに、なにか沖縄とはちがう。それは、ふく風が冷たいと言う事。日差しが強くても、沖縄のようにべとつかない。湿気がないので、肌がさらさらしている。
 ロサンゼルスを案内してくれたNORIKOさんが言うには、ここは寒流が流れているからだという。だから海は近くても泳ぐ人はいないと言う事だった。

 沖縄の海は暖流が流れているから、熱風が吹くんだね。帽子もかぶらないと道を歩けないのに、ここでは、熱いのを忘れてしまう。風が冷たくて、天然のクーラーのようだから、真っ黒に日焼けしてしまった。

 暖流、寒流っていつも同じ流れでなくて、時々入れ代わったらいいのに*と、ロスの気候がちょっと羨ましかった。

 写真の海はサンタモニカ。

 ブログ訪問ありがとう。
コメント (2)
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バナナ園

2012年07月23日 | 移民関係


 移民で最初に入植したバナナ園の見学に行った。サンパウロの中心部から三時間ほど離れた郊外へ向かった。広大なバナナ園は、ひと山ふた山の単位で所有しているらしい。隣の家もない、この奥深い山に足を踏み入れ、開拓して行った移民一世の方々。
 まだ手つかずの荒れ地だった山を、目のあたりにした時の思いはどんなだったのだろう。

 山はきれいに手入れされ、整然と佇んでいた。今は、成功して現地の人を雇っている。その使用人の家族用の家も敷地内に建て与えていた。
 トラックに乗って、バナナ園の奥まで見学させてもらった。雨が少ないのか、砂ぼこりがまっていた。

 幼い頃、この地で嫌と言うほど親と一緒に働いたというTADASIさんは、感慨深げに歩いていた。
 その後ろ姿。逞しい背中が「ワイルドだね~」。



 園の中にあるため池で、旅人の私達は、しばし釣りを楽しんだ。都会の喧騒から逃れて、時間を忘れさせてくれた。

ホテル近くの中心部とは打って変って、バナナ園のあるこの村は、ここもブラジル?と思わせる、のどかな風景だ。
黒砂糖の飴玉を分けて上げようと、袋を手渡すと、子どもたちは、自分の分を取って「ハイ」と返してくれた。素朴でかわいい子どもたち。

 ブログ訪問ありがとう 

 

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アメリカの迫力

2012年07月22日 | 移民関係


 ロサンゼルスのユニバーサルスタジオへ行った。最初に行ったアドベンチャーショーは「海賊に取られた仲間を取り戻す」という、とてもわかりやすいものであった。
 スリルと迫力に満ち、観客にも遠慮なく水をぶっかけたり、応援合戦をさせたり、観客を巻きこみ楽しませる、さすがアメリカだと思った。

 しかし、写真のように石油を撒いて火をつけた時の爆音に私はすごく驚かされた。それに石油臭さも。で、毎日のショーの度に、石油が撒かれ燃やされるのだろうか、アメリカは資源が豊かな国なのだなと思った。
 そこまでしなくても十分楽しめるのになとも思った。
(もったいない国のおばさんの感想でした)

 沖縄の今朝は、六時過ぎと言うのに、もうミージュー(セミ)の泣き声がうるさいです。テレビの音も聞こえないぐらい。


 ブログ訪問ありがとうございます

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