沖縄の日常

日々変わり行く沖縄と自然とつれづれなるままに

金武町の風景(上の毛から)

2010年12月09日 | 金武町の風景
 
 
 上の毛から見える風景。火力発電所の煙突が見える。
上の毛(うぃーぬもー)の場所は金武公会堂の左手の小高い丘の上。そこに見晴らし台が建てられているが、金武町をほぼ360度見渡す事が出来る。
 金武湾を挟んで、向かいに平安座島、宮城島、伊計島が見える。近年出来た火力発電所の煙突は、その高さゆえに町内の到る所から目にすることができ、今となっては町内の風景の一部となっている。
 此の丘には、フィリピン移民で功績のあった「大城孝蔵」氏の銅像が建てられている。

 金武湾を見下ろせる光景は風光明媚である。

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金武町の風景(上の毛から)

2010年12月09日 | 金武町の風景


 上の毛から見える風景。太平洋が望める。

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金武町の風景(上の毛から)

2010年12月09日 | 金武町の風景
 

 「大城孝蔵の銅像」の建つ上の毛。その見晴らし台から望める景色。
 左手に見える白く丸い建物は「JA金武」の建物。金武湾のはるか向こうに見える島は、平安座島と勝連半島。

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金武節

2010年12月09日 | 金武町の風景
 


  歌三線でもよく歌われる「金武節」。沖縄の琉歌である。「金武節」の碑は上の毛の傍らにある。
 
  碑の左上に見える植物がクバの木。「クバ」は金武町木でもある。
 

       く  ば や  ち  ん  く  ば
     クバや金武クバに  

       だ き や あ ふ す だ き
       竹や安富祖竹
         や  に や  し ら か ち
         屋根や瀬良垣に 
         は い や  う ん な
          張いや恩納
     

                               読み人知らず

     歌意:くばの葉は金武くばがよい。竹は安富祖の竹がよい。
         屋根を竹で組む技術は瀬良垣がすぐれている。
         くばの葉を笠に張るのは恩納が勝れている。


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ウランダ森

2010年12月09日 | 金武町の風景
 


 写真は「松岡政保」氏銅像の立つウランダ森公園である。

 高台にあって景色がいいはずなのに、木々が成長し昔は見晴らしがよく、海も見えたような気がするが、今は見えるはずだった海が見えず残念だ。
 見通しをよくすれば、明るくなり、絶好の散歩コースともなるが、今の所、木々がうっそうとしているので、日中でも一人で歩くのはちょっと怖いなと思ってしまう。

 「ウランダ森」の由来は、ペリーが来航した際に、この丘に立ち寄ったと言うことからそう呼ばれるようになったらしい。
 

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ガジュマル

2010年12月09日 | 金武町の風景
 


 金武町並里区にる当山久三生誕の地のモニュメントとは対面側になる場所に、写真の大きなガジュマルの木がある。
 この大木も大事に守って行ってほしいなと思う。

 今日は青空のきれいな12月というのに暖かい一日であった。
 
 先日、次男の同級生が結納をしたという話を聞き、驚いたが、次男に話すと彼はもっと驚いたようである。
 長男の同級生も割と早く結婚して、子どものいる人が多いが、我が家の三人の男どもは、彼女がいるとかいう話を聞いたことが無い。男ばっかりだから晩生なのだろうか。

 早いのもなんだけど、居ないのも寂しい?

 「早く就職が決まって、少し親孝行をしてから結婚してね」
 「お母さん、旅行に連れて行ってね」と、つぶやくわ・た・し。

 我が家に、その時はいつやって来るのであろうか。

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松岡政保の銅像

2010年12月09日 | 金武町の風景
 金武町並里区のウランダ森に立つ「松岡政保」の銅像。
 
 彼の人物像については「金武町誌」より抜粋する。
 ①極めて個性的でいかにも金武人らしい人である。
 ②少年期から青年期までアメリカの教育(大学院)を受けた人らしく米交流というか、実に合理的な考え、行動に徹した人である。
 ③実業界、政界に大きな足跡を残し、行政主席という県のトップまでのぼりつめた人である。
 ④米国の出身大学の関係者、東京の政界官界の要人、東京在住の県出身の先輩との交流があった。
 ⑤多くの逸話を残しているがそれは松岡政保の一面をもの語るものである。
  1989年93歳で亡くなる。

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大城孝蔵の銅像

2010年12月09日 | 金武町の風景
  
 写真は金武区の上の毛(ウィヌモー)に立つ「大城孝蔵」の碑。
 大城孝蔵は、フィリピン移民、ダバオ開拓の功労者として知られる。
 
 金武町民は南米移民も多いが、フィリピン移民も多い。その移民地フィリピンに「リトル金武町」が形成されていた。それを裏付ける資料がある。「金武町史誌」。編纂員の地道で莫大な聞き取り調査によって、フィリピンにあった金武町人街が地図になり、屋号と共に明らかにされた。初めて「金武町史:移民編」を手にした時私は驚いた。
 私の父も(若いある一時期そこに働きに行っていた。しかし、戦争の足音が近づき、徴兵が近づいていた父は故郷から出兵したいと沖縄に帰ってきた)という話を聞いていた。が、これほど(一つの町がそっくり移動したような)の方が、移民して豊かに暮らしていたとは知らなかった。ほとんどの方がマニラ麻栽培に従事していた。

 大城孝蔵は大規模なマニラ麻栽培を成功させ、ミンダナオ島ダバオ開拓の先駆けとなった。ダバオ市の開発発展に尽くした功績は多大で、現地住民からも慕われ、バブセロ(パゴ・オーシロ)という地名まで残している。昭和5年には約一万人の日本人移民がいたが、内7割が沖縄県人であった。
 「戦争が無ければ、ずーとそこに住んでいたと思うよ、それほどいい所だった。気候も食べ物(果物)も」と多くの人は語っている。

 (参考:金武町誌)

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仲田徳三の碑

2010年12月09日 | 金武町の風景
 金武並里区にある「仲田徳三の碑」。

 仲田徳三は、第一回県会議員選挙で第四区の国頭地区より当選。(明治42年)第二回県会議員選挙で当選(大正2年)。第3回県会議員選挙で当選。大正6年~8年副議長を務める。大正8年6月に県会議長となる~大正九年5月迄。第14回衆議院議員選挙、第4区の国頭郡から当選。任期満了後は農業に従事する(大正13年:57歳)。昭和37年、満94歳で没す。

 「人格高潔、識見高く、気骨稜々、世人敬慕の的となる又宜なりというべし。平時は農事にいそしみ村民をして勤勉の気風を養成するに勤め、自ら指導者となり、諄々として教えて倦まず、近世稀に見る高風の人なり」。中略「飲めば斗酒尚辞せざるにも拘わらず、出所進退に整然たる亦珍とすべきなり」:仲田徳三の人柄、風格を短く力強い美文でまとめている。

 (上記は「金武町誌」より抜粋)

 「仲田徳三の碑」はモーシヌ森近くに建立されている。

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当山久三の生誕地

2010年12月09日 | 金武町の風景
 


 金武町は移民発祥の地である。
 
 写真は、移民の先駆者「当山久三」の生誕地(金武町並里区)を記念して建てられたモニュメント。

 

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