人より秀でていたとして、別にそれに慢心しているわけでもなく、必要だから培った能力や才能だったりします。
別に羨ましがられる程のものでもないし、ひけらかしたいわけでもない。
仕方がなかったとも言える。
他人ウケするためには、「楽しんでやった」という方が良かったりするから、そう言うわけ。
首席特待生になったことなんてまさにそう。
他人の評価で生きれば楽なのはわかりますよ。
自分の評価で自分を見ることほど、しんどいことはない。
赤の他人に聞いて、今の自分にこれだけ不満を持っていることを告げて、
「そんなことないよ」
と言ってもらえたら、
いやまぁ、それでも無責任に何を言うかと思ったりもするのだけれど。
独自技術というか、他人の評価できないところを究めようとしていると、他人の意見ほど無責任なものはないわけです。
だから黙って黙々と、ああでもないこうでもないと、悩んで自己反省して、もっと良くするためにはどうしたらいいかを、深く深く考えているわけです。
営業とか、とにかく他人にどう思われるかを常日頃から考えている人にとっては、逆にどうでもいいことですよ。
自分の自分に対する思いなんてことより、他人にどう思われるかを、いつでも気にして生きている人にとっては、まさにどうでもいいこと。
毎日が自己否定ですよ。
今日よりより良い明日を実現するために、自分をいじめ続けている。
だからスランプにもなる。
いつまで自分はこのままなんだと。
まぁ、そんなでも実は何もしていない人に比べたらすごくやっているんですけどね。
いつの間にか毎日の積み重ねが、一般人には到底及びつかない領域まで達してしまうと、逆に見向きもされなくなる。
更に自己否定モードに入る。
別に他人を蹴落とそうとか考えてもいないのだけれど。
うまく使いたがる人もいて、その自虐心をうまくくすぐって、より自己否定させながら使う。
立派な社畜の出来上がり。
そんなところに忠義を示して勤め上げても、ただ絞り上げられて残り滓で生きることになるわい。
自分を常に評価して、他人の評価も気になる。
別にそんなに自己評価する必要もないし、他人もそんなに自分のことを見てもいない。
他人は他人で自分のことで精一杯なのだから。
噂好きのオバサンほど無責任な人もいない。
オバサンに限らず、オッサンも無責任でもある。
他人は基本的に他人のことに無責任なのよ。
他人の人生をまるまる背負えるわけないのだから。
ゆりかごから墓場まで他人の人生背負えるか?
ある程度は面倒見れるけど、その結果シリアルキラーになってしまったとして、そこまで面倒は見れないわけですよ。
自分の人生の面倒を見るので精一杯。
年老いて凡庸な老後を迎えたとしても、人生のひとときは誰よりも光り輝くヒーロー・ヒロインであったときもあったりするわけだ。
そのへんの若僧には思いもよらない艱難辛苦を乗り越えて落ち着きを持っている。
「あらおじいちゃん。ごはんこぼしちゃったんですかぁ?」
なんて子供をあやすみたいに介護するなと実習で思った。
お前より豊富な人生経験をしてきてんだ。
下に見るからボケるんだ。ボケェ。
これも自分を見過ぎなのかもね。