ささかのブログ

雑多な思考整理のためにブログを活用中。
自分が生きやすくなればいいと思うけれど、教祖になるつもりはない。

特異な得意

2021-02-12 22:34:25 | Human
人より秀でていたとして、別にそれに慢心しているわけでもなく、必要だから培った能力や才能だったりします。

別に羨ましがられる程のものでもないし、ひけらかしたいわけでもない。

仕方がなかったとも言える。

他人ウケするためには、「楽しんでやった」という方が良かったりするから、そう言うわけ。

首席特待生になったことなんてまさにそう。


他人の評価で生きれば楽なのはわかりますよ。

自分の評価で自分を見ることほど、しんどいことはない。

赤の他人に聞いて、今の自分にこれだけ不満を持っていることを告げて、

「そんなことないよ」

と言ってもらえたら、

いやまぁ、それでも無責任に何を言うかと思ったりもするのだけれど。


独自技術というか、他人の評価できないところを究めようとしていると、他人の意見ほど無責任なものはないわけです。

だから黙って黙々と、ああでもないこうでもないと、悩んで自己反省して、もっと良くするためにはどうしたらいいかを、深く深く考えているわけです。


営業とか、とにかく他人にどう思われるかを常日頃から考えている人にとっては、逆にどうでもいいことですよ。

自分の自分に対する思いなんてことより、他人にどう思われるかを、いつでも気にして生きている人にとっては、まさにどうでもいいこと。


毎日が自己否定ですよ。

今日よりより良い明日を実現するために、自分をいじめ続けている。

だからスランプにもなる。

いつまで自分はこのままなんだと。


まぁ、そんなでも実は何もしていない人に比べたらすごくやっているんですけどね。


いつの間にか毎日の積み重ねが、一般人には到底及びつかない領域まで達してしまうと、逆に見向きもされなくなる。

更に自己否定モードに入る。

別に他人を蹴落とそうとか考えてもいないのだけれど。


うまく使いたがる人もいて、その自虐心をうまくくすぐって、より自己否定させながら使う。

立派な社畜の出来上がり。


そんなところに忠義を示して勤め上げても、ただ絞り上げられて残り滓で生きることになるわい。


自分を常に評価して、他人の評価も気になる。

別にそんなに自己評価する必要もないし、他人もそんなに自分のことを見てもいない。

他人は他人で自分のことで精一杯なのだから。


噂好きのオバサンほど無責任な人もいない。

オバサンに限らず、オッサンも無責任でもある。


他人は基本的に他人のことに無責任なのよ。

他人の人生をまるまる背負えるわけないのだから。

ゆりかごから墓場まで他人の人生背負えるか?

ある程度は面倒見れるけど、その結果シリアルキラーになってしまったとして、そこまで面倒は見れないわけですよ。

自分の人生の面倒を見るので精一杯。


年老いて凡庸な老後を迎えたとしても、人生のひとときは誰よりも光り輝くヒーロー・ヒロインであったときもあったりするわけだ。

そのへんの若僧には思いもよらない艱難辛苦を乗り越えて落ち着きを持っている。


「あらおじいちゃん。ごはんこぼしちゃったんですかぁ?」

なんて子供をあやすみたいに介護するなと実習で思った。

お前より豊富な人生経験をしてきてんだ。

下に見るからボケるんだ。ボケェ。


これも自分を見過ぎなのかもね。
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若き日の望楼

2021-02-06 09:32:10 | Human
20代の頃?

きっと今でもそうなのだろうけれど、私は人のためになろうと、優しくあろうと、非常に強く思っていた。

それはそれで構わないのだけれど、世の中にはそれをうまく使いたいという人もいるわけですよ。

死ぬほど努力して、他の人のために働く。

滅私奉公もいいところ。

結局のところ、財産は何も残らず、病んだ体を残すことになった。

その結果弱った自分を守るために怒ったり、可能性を探し求めた日々は、まぁ無駄ではないのかもしれない。

行き過ぎたことに後悔はするけれど、自分としては間違ってはいないとは思う。


工業高校時代には不良と言われる人も多かったけれど、個々人はそんなに悪い人間ではなかった。

どちらかといえば、非常に純真無垢で、素直すぎるぐらい。

他人を信じて裏切られることで、どんどん自分が傷ついていく。

それを防ぐために見た目の強さで防御する。

こちらが裏表のない素直な態度で応対すれば、信頼してくれる。

だからといって利用しようとは思わなかったなぁ。

自分のことで精一杯だったので。


色々経験したことで、人を見る目が養われたし、物事を判断する区切りもついた。

結局のところ、嘘をつかず正直であり、誠実な人間に優る人はいない。

そうではない、嘘をつき正直でなく、不誠実な人間ほど劣った人はいない。

これだけは相当に真実に近い。


清い水はそれだけで美しいけれど、簡単に濁すことができる。

生まれた瞬間の赤ん坊は、それこそ純真無垢なのですよ。

人の世に生まれ落ちて、欲望の世界への一歩を踏み出す。

息を吸い、大声を上げ、泣かなければならない。

生きている証を自ら示さなければ、生きていけない。

欲し、満たされることで、やっと生きられる世界。

何もしなくても、母親の胎盤から全てのエネルギーが与えられる状況ではないので。


サラリーマンである限り、インキュベートされている、孵化器の中の大きな子供なのですよ。

他人の目的に従って、決められたことを忠実に実行し続ける、従順なマシーンになっている。

それが世界一の経済大国を作り出した原動力でもあったわけだけど。

従順な労働力、従順な税収対象として。

それでもいずれ孵化器の中の子供も自我を持ち始める。

外に出よう。違う世界を知ろう。

満たされない知的欲求を探して孵化器の外に出る。

そしてより個々の人に合わせて変えて改良された、新しい居場所を作り出す。


昔に戻ることなどできない。

時が進むのは未来だけ。

「昔は良かった」けれど、そこに問題があったから今の社会が出来上がった。


下道で車で関東から九州に行ったことがあるけれど、穴だらけで舗装されていない道は通らなかった。

日本全国アスファルト舗装された社会が存在している。

当たり前の事だけれど、日本にアスファルトが存在しなかった江戸時代などでは、今の車で通れるようなきれいな道はなかった。

整備されていない道路の時代に戻れと言っても、それは相当な無理がある。

浄水された水も、いつでも供給される電力も、手元にある情報端末も、すでになくなっては困る日常品になっている。


得た経験や知識もそう。

何も知らなかった昔には戻ることはできない。

それでも間違えてはいけないことは、昔の失敗を避け続けること。

諦めなければ、別の解決策が見つかることもある。

それは、その当時の実力や知識ではどうにもならなかったり、没頭している限り気づけない方法でもある。

気に病まなくても、ポンと見つかるときがある。

今現在が厳しくてその人間関係から逃げたほうがいい場合もある。

ただ使われている状況に留まり続ける必要はない。

人生の限られた時間を消費して、培った技能知識を劣化させるだけなら、そこから離れて逃げる。

それさえも経験して学習することの一つ。


自分も変わるし、他人も変わるし、社会も環境も変わる。

その中で同じことを続けることのほうが、格段に難しい。

仮に同じことを続けるなら、変わる環境に合わせてやり方を変えていかなければならない。

変化することが、継続することになる。

その意味では右派も左派も変わらない。

状況は変わり続ける。

自分も変わり続ける。
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