落合順平 作品集

現代小説の部屋。

『ひいらぎの宿』 (4)

2013-11-24 10:36:52 | 現代小説
『ひいらぎの宿』 (4)第1章 2人の旅籠が出来るまで 
・酔うと、目の周りに色香が漂う清子




 それからの清子は膨れた顔を見せたまま、一向に口を開こうとしません。
黙って差し出してきた器へ、なみなみと酒を注ぎ足すと間髪を入れずあおるようにして呑み干してしまいます。
ほっと小さなため息を吐いて見せたものの、器へ目線を落としたままふたたび動作を止めてしまいます。
怒ったときの時の清子は梃子でも動きません。俊彦が先にしびれを切らしてしまいます。


 『切り捨てられたら俺がたまらない。言いすぎたようだ、謝るよ』
まずは仲直りのしるしに、もう一杯だけ飲めと俊彦がよく冷えた青竹を、清子の目の前に持ち上げます。
潮時と読み『はい』と微笑んだ清子が、半分だけにしてくださいなと鼻にかかった声で甘えます。


 「彼という言葉は私の軽はずみすぎる失言でした。誤解されてもいた仕方ありません。
 訂正をいたしますので、もう、そんな目で私を見つめないでくださいな」

 
 清子の切れ長の目の縁(ふち)が、ほんのりとした桜色に変わってきました。
あまり酒に強くないくせに、清子は何故か日本酒ばかりを好みます。
酔うと眼の周りには、妖艶な艶が漂よいはじめます。
『内に秘めた色香が、そのまま眼の中に出る』とささやかれるほど艶やかに、瞳までが潤ってきます。
ホロ酔い加減の風情が何とも堪らないと、常連さん達からおおいに評判を呼び、そのことがまた
舞いの華麗さと共に、お座敷で人気を独り占めにしてきた由縁です。



 「あの方と言い直します。
 あの方は15の時からの、私の大切なご贔屓(ひいき)さんのおひとりです。
 パトロンを持たない独り身の芸者にとって、裕福なご贔屓さんを持つことは暮らしぶりの生命線です。
 知っての通り芸者というものは、舞いや謡(うたい)鳴り物のお稽古などから始まり、お茶やお花、
 衣装代などを含めて、大変な額の経費を必要といたします。
 それゆえに後見人という名のもと、暗黙に男女の秘めた仲という形をとりながら、
 経費のすべてを提供してくれるという花柳界のしきたりが、パトロンと呼ばれる旦那様の制度です。
 ふふふ。ねぇ、ホントはいまだ妬いるんでしょ。あなたの本心は。
 芸以外に身体まで許しただろうなんて、下衆(げす)に勘ぐっていますねぇ、あなたのその目は。
 あら、やだ。・・・・何なのさ、その相槌は。やっぱりまだわたしのことを疑っていますね。
 見かけによらず、疑り深い人ですねぇ、あなたっていう人は」



 青竹を手にした清子が、酒を注ぐ動きを一瞬のあいだ止めてみせます。
『あなたには前科がありますが、私はいまだに、ひたすら純潔を守っています』うふふと、
いまさら思い出したかように、清子が笑いはじめてしまいます。
拗ねた時の清子が、逆襲のための材料として折に触れて持ち出すのが、俊彦が電撃的に結婚したときの話です。
足の怪我のために房総から戻り、桐生の繁華街で蕎麦屋を立ち上げた俊彦が、ほどなくして、
なんの前触れもないまま、同級生の一人と突然所帯を持ったことがあります。


 結果的に、わずか1年足らずで離縁に至りますが、周囲の親しい人間たちは、
2人が結婚するまでのいきさつも、別れる時の理由もまったく窺い知る機会がないままに、
結果として、ひと組の男女が破綻をしたという事実だけを知ることになります。
俊彦自身もそうした経緯について今だに、何ひとつとして詳細を語ろうとはしません。
硬く貝のように口を閉ざしたまま、『もう、すべてが済んだことだ』と寂しく笑うだけです。


 「芸者も駆け出しで、見習いのうちは着物やお稽古代、生活費まで含めたすべてを、
 身元引き請け人である置屋のお母さんが、面倒を見てくれます。
 5年あまりの年季奉公があけ、ようやく独立したばかりのわたしは、とにもかくにも厄介者でした。
 なにしろ、21歳になったばかりだと言うのに、頑として父親の名前をあかさないまま、
 響(ひびき)という女の子を持つ、子持ちの芸者になってしまったからです。
 いくらバブルの前夜で景気が良かった時代とはいえ、21歳で子持ちになった芸者に
 手を出そうというパトロンは、界隈にはおりません。
 それでも中には物好きな方がいて、子持ちでも構わないからと、いくつかお話が舞い込んでまいりましたが、
 どちらも丁寧に、こちらから辞退をさせていただきました」



 「響(ひびき)を抱えたままの芸者家業か。大変だったろう」



 「響がいることを知っていたのは、置屋のお母さんと伴久ホテルの当時の若女将。
 あなたの同級生で任侠稼業の岡本さんに、急逝をしてしまった宇都宮のやり手社長の、4人だけ。
 あとの皆様は、風の噂などでそれとなく耳にされているだけです。
 真相も実態も闇の中で、子持ちだと見破られたことは一度としてありません。
 だいいち父親であるあなたでさえ、響が24歳の時に行き合うまで、まったく気がつかなかったくせに。
 あの子が家出なんかしなければ、一生隠し通せたのに、実に残念なことをいたしました」


 「おいおい。まるで俺が君の邪魔をしているような口ぶりだ」


 「響を、24歳まで育てたのは私です。
 突然、桐生の街で鉢合わせをするまでは、自分に娘がいることさえ知らなかったくせに。
 自分の娘だとわかった瞬間から、とたんに態度を変えて甘えさせてしまうのだもの。
 損をしてしまうのは、今まで育ててきた母親だけです」


 俊彦は黙って、ただ苦笑するしかありません。
押し黙ったまま差し出す青竹の器に、トクトクと音を立てながら青竹の酒が注がれていきます。



 「たしかに、その事実を知ったとき俺も正直言って驚いた。だが、嬉しくもあった。
 あの当時、伴久ホテルの若女将が毎日、俺の目の前であの子を遊ばせていたという理由がやっとわかった。
 房総で怪我をして湯西川で静養をしていた時のことだから、ちょうど響が3歳になったばかりだ。
 かわいい女の子だと思って見ていたが、まさかそれが俺の子供とは・・・・全く気がつかずにいた。
 一番可愛い盛りの時期の響に、若女将が内緒のまま俺に会わせてくれたんだ。
 女将の粋な計らいぶりには、今でも、心からの感謝をしている」


 「感謝をするのならこの私でしょう。
 まったく。この人ったらトンチンカンにも、ほどがあります。
 母ひとり、娘1人で一生を仲良く暮らすハズだったのに、あの子ったら突然家出なんかするんだもの。
 おかげであなたに半分以上も、美味しいところを盗られてしまいました。
 あんたに会ったせいで、原発になんかに興味を持ちはじめるし、被災地の福島や岩手では飽き足らず、
 敦賀原発がある若狭湾へ行ったきりで、何が気にいったのか何時まで待ってもあの子はここへ帰ってきません。
 つまんないわね、やっぱり。子供に見捨てられた母親は」


 「ずいぶんご機嫌斜めだね。やっぱり変だな、今日の君は」



 「変でなければ45歳で、女としていちばん油の乗り切った時期に、芸者を引退なんかいたしません。
 ふん。なにさ。やっぱり大嫌いです。なんにも気がつかない唐変木のあんたなんか!」


 せっかく機嫌を直しかけた矢先だというのに、清子がいきなりぷいと横を向いてしまいます。
形の良い唇を尖らせ、『知りません、もう』とばかりに、また膨れてしまいました。




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