落合順平 作品集

現代小説の部屋。

からっ風と、繭の郷の子守唄(135)

2013-11-13 08:48:07 | 現代小説
からっ風と、繭の郷の子守唄(135)
「そうは言っても、現実は厳しいのよと寂しく笑う身重の美和子」




 「あら。みなさんから簡単に見捨てられてしまいました。
 何故かいつのまにかあたしたちは荒地に、二人きりにされてしまったようです」

 「気を利かせたつもりなんだろう。俺たちに」


 荒れ放題になったままの桑園を見下ろしている美和子の肩へ、康平が母から
託された絹のショールを労わるように掛けていきます。
『千尋が紡いだ糸ですね。いつも丁寧に、丹念に糸を引いている千尋の手の暖かさを、
感じさせてくれるような肌心地がそのまま伝わってくるもの。懐かしい手触りです』
美和子が両目を細め、首の周りへショールの絹地をかき寄せていきます。



 「いいわね、男たちは。
 無邪気そのものに次の夢を見つけて、すぐに、はしゃぎ始めることができるんだもの。
 女にはとてもそうはいかないわ。10月10日を育て上げ、出産してから長い育児がはじまる。
 男たちが表で夢を追いかけて飛び回っている頃に、おんなは家の中で子供を一人前に育てるの。
 こうしてお腹が大きくなっていくたびに、私の中でも、そういう覚悟と気概が成長する。
 でもね。やっぱり今回は、実家へ帰って産もうと決めました」


 「実家は兄嫁がいて居心地が悪いはずなのに、君はそれでもいいのかい?」


 「もう、充分に鋭気なら養ったもの。
 育児が始まると温泉にも行けなくなるから、いまのうちに行って満喫しましょうと
 貞ちゃんに言われたのが、4日前。
 女たちばかりの3人で、誰に気兼ねすることもなく、のんびりと温泉三昧を楽しんできました。
 その帰り道で、あなたのお母さんが私を迎えに来てくれました。
 あなたの考えとはまったく無関係に、お母さんは私とこの子の身元引受人になってくれるそうです。
 涙が出るほど嬉しい申し出ですが、そうそう甘えてばかりもいられません。
 やっぱり私は実家へ戻り、次のチャンスのために備えることにします」


 「次のチャンスだって?。君は一体何を考えているの」


 「一番はまず、無事に産んでからの子育てのこと。つぎに歌手。そして作詞家。
 この3つが、やっぱり私のこれから先のキーワード。
 私にはそれしか無いし、それしかできないと今でも考えています。
 子持ちの女でも構わないからという男性が現れたら、再婚もその時になったら視野にいれます。
 いずれにしても、あなたとは結婚しません。それだけは、今はっきりと申し上げます」


 「なぜ、俺じゃ駄目なんだ」



 「もうこのあたりで堪忍して、康平。
 他人の子供を身ごもった女なんか、大嫌いだとはっきり言って頂戴。
 あなたの気持ちに報いたいと考えても、この現実と、これまでの経過は消し去ることはできません。
 誰もわたしのことを責めないし、問い詰めてくれないから、かえってそれが辛いの。
 でもね。忍耐のいるキツイ生きかたはこれからなのよ。
 この子を産んだその先から、そういう生き方がきっとはじまるの。
 みんなの優しい気持ちはとても嬉しいけど、だからこそ、私は実家へ帰るのが一番なの。
 分かってくれるわよね、康平。
 覚悟を決め、私はこの赤城の山麓で子供を育てるために戻ってきたの。
 決断のための後押しをしてくれたのも、やっぱり、千尋と貞ちゃんだった」



 突然、荒地へ吹きつけてきた木枯らしが、ふたりの周囲で枯れた木の葉を巻き上げていきます。
真冬になると赤城山の山麓では、よく晴れた日の午後に限って、気候が急変をします。
南に広がる斜面一帯で温められた午前中の空気が、やがて山麓に沿って上昇をはじめます。
雪国との境を示す1400メートルの赤城の峰を超えた次の瞬間から、大量の雲まじりの雲と
大陸からの冷えきった空気の塊を呼び込みます。
突風に煽られた美和子のショールの端を、慌てて康平が抑え込みます。



 「女性の場合、離婚後6ヶ月以内の再婚が不可能なことは、あなたも知っているでしょう。
 離婚した後に妊娠が発覚した場合、離婚後にすぐに再婚をしてしまうと、
 どちらの子どもなのか分からなくなり、たいていがトラブルの原因になるそうです。
 ただし、前夫と再び結婚するか、妊娠する可能性がない(医者の診断書が必要)場合や、
 離婚前から妊娠は発覚をしていて、出産後に再婚する場合などは、6ヶ月以内での
 再婚でも認められるそうです。
 男の場合は、離婚をしたその翌日でも結婚することはできますが、
 女性の場合は、6ヶ月以上が経過をしないと新しい籍へ入れてもらません。
 だから私は実家でこの子を産んで、その後は、誰かが迎えに来てくれるまで
 いつまでも辛抱強く実家で待ちます。この子が生まれてくるのは3月のはじめ。
 私が晴れて解放をされる6ヶ月後は、7月の七夕の時期にあたります。
 民法の中に、婚姻中に妊娠していた場合は、その子どもが生まれた日から
 再婚することができると書いてあるそうですが、私には、特に急ぐ理由は何もありません。
 その日まであなたはゆっくりとこの問題を考えて、納得のいく結論を出してください。
 どんな結論であれ、あなたが出す決断に私は、無条件で従います」



 美和子の目が、真正面から康平を見つめてきます。
北の峰から一気に湧き出してきた鉛色の雲が、またたくまに頭上の青空を覆い始めます。
細かい雪の断片が冷たい空気の中を舞い始め、ふたりが居る荒地には暗い影を落ちてきます。
『風花(かざはな)になりそうだ。とりあえず帰り道に向かおう』
上着を脱いだ康平が、美和子の肩へ羽織らせます。
風花とは、周囲は晴天時なのに雪が風に舞うようにちらちらと舞い落ちてくる現象のことです。
山などに降り積もった雪が、風によって吹き飛ばされ小雪がちらつく現象のことなどを指しています。
静岡県やからっ風で有名な群馬県では、厳冬期によく見られる現象です。
小雪がまじる北風の中で、激しく煽られる前髪を手で押さえた美和子が、ふと康平に
微笑みなどをみせます。


 「万難を排したいと考えています。
 そうでなくてもあたしは、とかくの噂がつきまとうような世界を歩いてきました。
 時代が変わったとは言え、田舎は、まだまだ閉鎖的な部分がたくさん残っている保守の世界です。
 古くからのしきたりや建前などを重んじる傾向が強いところです。
 軽はずみなままみなさんの行為に私が甘え、あなたと暮らし始める訳にはいきません。
 実家の兄やお嫁さんの立場もあるし、あなたのお母さんとあなた自身の立場も別にあります。
 『ほとぼり』を冷まし、みなさんが納得をされるまで、場合によれば何年でもあたしは待ち続けます。
 それくらいの覚悟なら、もうとうに出来上がっています。
 お願いだから康平。簡単に優しい言葉なんかはかけないで。
 あんたに優しくされてしまったら、せっかくのあたしの決心がまた、
 足元から崩れていってしまいます」


 峰からの激しい吹き降ろしの風が、ふたりを横殴りにしていきます。
短い時間に変わり始めてきた山の天気は、周囲を白く染めるほどの風花を舞わせていきます。
吹き降ろしの風に乗って飛んできた雪の断片は、ふたりが歩く大地へ舞い降りてきた次の瞬間、
再び強い風に煽られて、天空へ舞い上がっていきます。
羽毛のような軽さを持つ風花は、いくら舞っても決して大地に降り積もることはありません。
風上へ回った康平が、自分の上着ごとしっかりと美和子の両肩を覆います。
足元から再び舞い上がっていく風花と、さらに北の峰から舞い落ちてくる風花が、一瞬のあいだだけ、
2人の姿を真っ白の世界の中に隠してしまいます。





・「新田さらだ館」は、
日本の食と、農業の安心と安全な未来を語るホームページです。
多くの情報とともに、歴史ある郷土の文化と多彩な創作活動も発信します。
 詳しくはこちら