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15代将軍徳川慶喜の一橋藩主時代の側近家来であった小川興郷らは、慶応4年
(1868)、大政奉還をして上野寛永寺に蟄居した慶喜の助命嘆願のために同志を
つのった。そこには徳川政権を支持する各藩士をはじめ、新政府への不満武士、変
革期に世に出ようとする人々が集まり、「彰義隊」と名乗り、やがて上野の山を拠
点として新政府軍と対峙した。
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旧暦5月15日の上野戦争は、武力に勝る新政府軍が、半日で彰義隊を壊滅させ
た。生き残った小川ら隊士は、明治7年に新政府の許可を得て、激戦地であり隊士
の遺体の火葬場となった当地に彰義隊戦死の墓を建立した。現在、歴史的記念碑と
してその管理は東京都に移されている。(説明板より)
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