「水衣」は「みずごろも」と読む。あとがきによれば、「能装束や狂言の蚊の衣装でもありますが、日常的には水仕事をする時のふだん着、粗衣といういうことです。」とある。2019年から2021年にかけての作品の集成である。コロナ禍によって、たびたび外出制限が呼びかけられたこの間の日常は、まさに強いられた「ケ」の期間であり、タイトルにはそのような含意が込められているのだろう。しかし、翻って思えば、衣装であるとするからには、舞うこともできるのだ。
開巻巻頭から衰弱した母の歌が見え、いつ死が訪れるのかと思いながら読んでゆくと、五章めの「早春賦」ではやくも母の末期を看取っている。最晩年の母のすがたをうたった歌が、しみじみとしたいい歌である。
いのち老いて母はさびしい縫ひぐるみ さはつてほしいさはつてほしい
母はただわが肉にしてかかへ抱くとき底なく母とつながる
※「抱く」に「だ-く」、「底」に「そこひ」と振り仮名。
とろとろとお粥をはこぶ 木の匙が肉身やはらかき母には似あふ
※「肉身」に「しし」と振り仮名。
母への思いは、二、三首目のように触覚的に表現されていて、私は母の肉体とまるで幼子と母親の関係にもどったかのように、濃厚に溶け合っている。それが、老いのあわれさをなだめるかのように、悲しみをたたえつつも一種のしあわせな雰囲気を醸し出しているところが、何ともすばらしい。母が亡くなる直前の頃に、私は「川がみたい ゆつくりと水よこたへて息づきふかくながれる川が」という心情で表に出る。
川肌のさむざむとして夢よりも深きところへ流れてゐたり
これは生と死を深いところでつないでいくような、水の流れをうたったものである。このように、死が夢を介して一抹の甘美なものを含み得ることを作者はこれまでも歌にして来たのではないだろうか。
お母さんずつと好きでしたささやけば薄目をひらき「そかしら?」といふ
*「そうかしら」の母の言い癖。
老い床に川が流れてゐたりけり椿があかく咲きゐたりけり
※「床」に「どこ」と振り仮名。
この二首目の歌をみれば、先の川の歌との連関は明白である。そのように連作としてみごとに川をひとつのライトモチーフとして使っている。「そかしら」というかわいらしい口調に元気なころの母の闊達な姿が浮かぶ。二首目の歌の椿は命の暗喩にもなっているだろう。
いのちといふ粘着質のいきものがぼろぼろの身体をまだ死なしめず
※詞書に、「命とは、身体でもなく、魂でもなく」とある。
この歌は本文の最初に引いた二首と響き合うところがある。「いのち」という見えない何かを、肉体の現実を前にして透視している作者のすがたがここにはある。
ゆっくり読むべき歌集であり、本文は書評を意図したものではないから、このぐらいにしておく。久しぶりにふれる歌集の造本がなつかしく、ありがたい。手触り、紙質、装丁、みなこの歌集の中身と呼応しあって、やさしいしみじみとした歌にふれるよろこびを味あわせてくれるものとなっている。
開巻巻頭から衰弱した母の歌が見え、いつ死が訪れるのかと思いながら読んでゆくと、五章めの「早春賦」ではやくも母の末期を看取っている。最晩年の母のすがたをうたった歌が、しみじみとしたいい歌である。
いのち老いて母はさびしい縫ひぐるみ さはつてほしいさはつてほしい
母はただわが肉にしてかかへ抱くとき底なく母とつながる
※「抱く」に「だ-く」、「底」に「そこひ」と振り仮名。
とろとろとお粥をはこぶ 木の匙が肉身やはらかき母には似あふ
※「肉身」に「しし」と振り仮名。
母への思いは、二、三首目のように触覚的に表現されていて、私は母の肉体とまるで幼子と母親の関係にもどったかのように、濃厚に溶け合っている。それが、老いのあわれさをなだめるかのように、悲しみをたたえつつも一種のしあわせな雰囲気を醸し出しているところが、何ともすばらしい。母が亡くなる直前の頃に、私は「川がみたい ゆつくりと水よこたへて息づきふかくながれる川が」という心情で表に出る。
川肌のさむざむとして夢よりも深きところへ流れてゐたり
これは生と死を深いところでつないでいくような、水の流れをうたったものである。このように、死が夢を介して一抹の甘美なものを含み得ることを作者はこれまでも歌にして来たのではないだろうか。
お母さんずつと好きでしたささやけば薄目をひらき「そかしら?」といふ
*「そうかしら」の母の言い癖。
老い床に川が流れてゐたりけり椿があかく咲きゐたりけり
※「床」に「どこ」と振り仮名。
この二首目の歌をみれば、先の川の歌との連関は明白である。そのように連作としてみごとに川をひとつのライトモチーフとして使っている。「そかしら」というかわいらしい口調に元気なころの母の闊達な姿が浮かぶ。二首目の歌の椿は命の暗喩にもなっているだろう。
いのちといふ粘着質のいきものがぼろぼろの身体をまだ死なしめず
※詞書に、「命とは、身体でもなく、魂でもなく」とある。
この歌は本文の最初に引いた二首と響き合うところがある。「いのち」という見えない何かを、肉体の現実を前にして透視している作者のすがたがここにはある。
ゆっくり読むべき歌集であり、本文は書評を意図したものではないから、このぐらいにしておく。久しぶりにふれる歌集の造本がなつかしく、ありがたい。手触り、紙質、装丁、みなこの歌集の中身と呼応しあって、やさしいしみじみとした歌にふれるよろこびを味あわせてくれるものとなっている。