今日は代休で家にいるので、広島平和記念式典を見ることができた。安部首相が核兵器のない世界、非核三原則ということをきちんと言った。これは戦後日本の国是である。東アジアを非核地帯とすること、これが日本の夢であるが、現状はアメリカの核の傘に覆われながら、対米追従しているのにすぎない。
罪なきを一撃に焼きほろぼすは憎しみによるか怖れによるか 玉城徹『香貫』
前々日の「毎日」記事では、B29乗組員のインタヴューの録音テープが見つかり、原爆資料館に寄贈されたということである。原爆投下ののち旋回して現場を離れたエノラ・ゲイの機長ポール・ティベッツの証言として、「光に包まれた時、鉛のような味がした。きっと放射線だろう。とてもほっとした。さく裂したとわかったから」と語っていた。墜落して日本軍に捕らわれた際の用意に、自殺用の拳銃と青酸カプセルも携行していたという。
「ブリキの中にいて、外から誰かにハンマーでたたかれているような音が響いた」という証言もなまなましい。
飛行機に閃光が届いた瞬間、口の中に鉛のような味がしたというのは、彼らも被爆したのだろう。口中の唾液の成分が、放射線によって分解して、そういう味がしたのにちがいない。
五日の新聞では、ハワイに渡っていた人が焼け跡の市内を撮影した写真が紹介されていた。一階がつぶれた時計店の写真は、衝撃波のすさまじさを示している。
※ ※
昨日めくっていた本は、『黄犬(キーン)ダイアリー』(二〇一六年平凡社刊)。これは、ドナルド・キーンとその養子のキーン誠己によるエッセイ集で、キーン氏一代の仕事の背景を簡略に知ることができる。
当時ドナルド・キーンは、日本語通訳として軍務に携わっていた。「原爆投下の機密」という文章によれば、沖縄上陸作戦の際の約千人の日本人捕虜を連れて航空母艦でハワイに行き、司令部に報告に行ったところ、日本に行かないかと言われて同意した。
「私は、軍用機で西に向かい、グアム島で待機することになった。そこで、今度は長崎への原爆投下を知った。まとわりつく熱気と湿気に汗を滴らせながらラジオを聞いたが、ショックだったことがあった。二つ目の原爆投下について、トルーマン大統領が「jubilantly(喜々として)」発表した、というくだりだ。
広島にしても、長崎にしても、十万人を超える多くの市民が、熱風と爆風、そして放射線の犠牲となった。そのときの被爆で、六十八年たった今も苦しんでいる人たちがいる。当時原爆被害の実態は分かっていなかったが、それにしてもその威力は絶大で終戦は時間の問題だった。なぜ、原爆を二度も投下する必要があったのか、正当化できる理由は何も考えられず、私は深く思い悩んだ。」 「原爆投下の機密」
開戦のニュースを知った思い出は、次のように語られている。
「夕方、フェリーでマンハッタンに戻ると、夕刊紙「インクワイラー」に「日本、真珠湾を攻撃」と大見出しが躍っていた。ゴシップ紙として知られていた同紙なので「また変な記事を」と一笑に付し、ブルックリンの自宅へ帰った。」 「真珠湾攻撃の日」
そして運命的な日本人の「日記」との出会い。
「翻訳局は、私が日本研究にのめり込む原点でもあった。壮絶な戦闘があった南太平洋西部のガダルカナル島で回収された日本兵の日記を私は翻訳した。血痕が残り、異臭を漂わせた日記には、物量で圧倒的な米軍の砲撃におびえ、飢餓とマラリアにさいなまれた苦悩がつづられていた。死を予感して「家族に会いたい」と故郷に思いをはせる記述には心を揺さぶられた。」 「六十九年前の手紙から」
「源氏物語」との出会いは、次のように語られている。
「当時、十八歳の私はナチス・ドイツの脅威に憂鬱だった。ナチスはポーランドに侵攻し、フランスも占領していた。ナチスの記事が載った新聞を読むのは苦痛だった。第一次世界大戦で出征した父が大の戦争嫌いで私も徹底した平和主義者。「war(戦争)」の項目を見たくないので百科事典の「w」のページは開かないようにしていた。
そんなある日、私はニューヨークのタイムズスクエアでふらりと書店に入った。目についたのがウエーリ訳の『源氏物語』。日本に文学があることすら知らなかったが、特売品で厚さの割に四十九セントと安く、掘り出し物に映った。それだけが買った理由だった。
ところが、意外にも夢中になった。暴力は存在せず、「美」だけが価値基準の世界。光源氏は美しい袖を見ただけで女性にほれ、恋文には歌を詠む。次々と恋をするが、どの女性も忘れず、深い悲しみも知っていた。私はそれを読むことで、不愉快な現実から逃避していた。
『源氏物語』のテーマは普遍的で言葉の壁を越える。日本人が思う以上に海外での評価は高く、十か国以上に翻訳されている。英訳もウエーリ訳のほか、日本文学研究家のサイデンステッカー訳と私の教え子のロイヤル・タイラー訳がある。その中でも、私にはウエーリ訳が一番だ。」 「『源氏物語』との出会い」
※ ※
ふたたび玉城徹の歌を引く。目の前で鴉と鳶の闘いを見た一連「烏鳶図(うえんず)」おしまいの歌。
黄なる鳶黒き鴉らたたかふといふといへども相傷はず
※「相傷はず」に「あひそこな(はず)」と振り仮名。
争闘しても殺し合うわけではない。鳥の方が人間よりもましかもしれない、という諧謔もかすかに漂う。
罪なきを一撃に焼きほろぼすは憎しみによるか怖れによるか 玉城徹『香貫』
前々日の「毎日」記事では、B29乗組員のインタヴューの録音テープが見つかり、原爆資料館に寄贈されたということである。原爆投下ののち旋回して現場を離れたエノラ・ゲイの機長ポール・ティベッツの証言として、「光に包まれた時、鉛のような味がした。きっと放射線だろう。とてもほっとした。さく裂したとわかったから」と語っていた。墜落して日本軍に捕らわれた際の用意に、自殺用の拳銃と青酸カプセルも携行していたという。
「ブリキの中にいて、外から誰かにハンマーでたたかれているような音が響いた」という証言もなまなましい。
飛行機に閃光が届いた瞬間、口の中に鉛のような味がしたというのは、彼らも被爆したのだろう。口中の唾液の成分が、放射線によって分解して、そういう味がしたのにちがいない。
五日の新聞では、ハワイに渡っていた人が焼け跡の市内を撮影した写真が紹介されていた。一階がつぶれた時計店の写真は、衝撃波のすさまじさを示している。
※ ※
昨日めくっていた本は、『黄犬(キーン)ダイアリー』(二〇一六年平凡社刊)。これは、ドナルド・キーンとその養子のキーン誠己によるエッセイ集で、キーン氏一代の仕事の背景を簡略に知ることができる。
当時ドナルド・キーンは、日本語通訳として軍務に携わっていた。「原爆投下の機密」という文章によれば、沖縄上陸作戦の際の約千人の日本人捕虜を連れて航空母艦でハワイに行き、司令部に報告に行ったところ、日本に行かないかと言われて同意した。
「私は、軍用機で西に向かい、グアム島で待機することになった。そこで、今度は長崎への原爆投下を知った。まとわりつく熱気と湿気に汗を滴らせながらラジオを聞いたが、ショックだったことがあった。二つ目の原爆投下について、トルーマン大統領が「jubilantly(喜々として)」発表した、というくだりだ。
広島にしても、長崎にしても、十万人を超える多くの市民が、熱風と爆風、そして放射線の犠牲となった。そのときの被爆で、六十八年たった今も苦しんでいる人たちがいる。当時原爆被害の実態は分かっていなかったが、それにしてもその威力は絶大で終戦は時間の問題だった。なぜ、原爆を二度も投下する必要があったのか、正当化できる理由は何も考えられず、私は深く思い悩んだ。」 「原爆投下の機密」
開戦のニュースを知った思い出は、次のように語られている。
「夕方、フェリーでマンハッタンに戻ると、夕刊紙「インクワイラー」に「日本、真珠湾を攻撃」と大見出しが躍っていた。ゴシップ紙として知られていた同紙なので「また変な記事を」と一笑に付し、ブルックリンの自宅へ帰った。」 「真珠湾攻撃の日」
そして運命的な日本人の「日記」との出会い。
「翻訳局は、私が日本研究にのめり込む原点でもあった。壮絶な戦闘があった南太平洋西部のガダルカナル島で回収された日本兵の日記を私は翻訳した。血痕が残り、異臭を漂わせた日記には、物量で圧倒的な米軍の砲撃におびえ、飢餓とマラリアにさいなまれた苦悩がつづられていた。死を予感して「家族に会いたい」と故郷に思いをはせる記述には心を揺さぶられた。」 「六十九年前の手紙から」
「源氏物語」との出会いは、次のように語られている。
「当時、十八歳の私はナチス・ドイツの脅威に憂鬱だった。ナチスはポーランドに侵攻し、フランスも占領していた。ナチスの記事が載った新聞を読むのは苦痛だった。第一次世界大戦で出征した父が大の戦争嫌いで私も徹底した平和主義者。「war(戦争)」の項目を見たくないので百科事典の「w」のページは開かないようにしていた。
そんなある日、私はニューヨークのタイムズスクエアでふらりと書店に入った。目についたのがウエーリ訳の『源氏物語』。日本に文学があることすら知らなかったが、特売品で厚さの割に四十九セントと安く、掘り出し物に映った。それだけが買った理由だった。
ところが、意外にも夢中になった。暴力は存在せず、「美」だけが価値基準の世界。光源氏は美しい袖を見ただけで女性にほれ、恋文には歌を詠む。次々と恋をするが、どの女性も忘れず、深い悲しみも知っていた。私はそれを読むことで、不愉快な現実から逃避していた。
『源氏物語』のテーマは普遍的で言葉の壁を越える。日本人が思う以上に海外での評価は高く、十か国以上に翻訳されている。英訳もウエーリ訳のほか、日本文学研究家のサイデンステッカー訳と私の教え子のロイヤル・タイラー訳がある。その中でも、私にはウエーリ訳が一番だ。」 「『源氏物語』との出会い」
※ ※
ふたたび玉城徹の歌を引く。目の前で鴉と鳶の闘いを見た一連「烏鳶図(うえんず)」おしまいの歌。
黄なる鳶黒き鴉らたたかふといふといへども相傷はず
※「相傷はず」に「あひそこな(はず)」と振り仮名。
争闘しても殺し合うわけではない。鳥の方が人間よりもましかもしれない、という諧謔もかすかに漂う。