さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

新学習指導要領の高校の国語科科目の再編について 追記。10月6日。

2018年07月02日 | 大学入試改革
横浜駅の西口にはいくつも彫刻があって、とりわけシェラトン・ホテルの前にある大きな像と、こんど新たに設置された金色に塗られた女性像の左手にある、手を垂らしたブロンズの少女像が、いつ見ても心をなごませる。それにしても、あの新たに設置された金色の像は、従来の像を動かしてまであそこに設置する必要があったのだろうか。私は以前の配置の方が好きである。

行政というのは、時におどろくほど愚劣なことをやらかすことがある。下北沢駅の再開発がいい例で、要するに大切な文化遺産を破壊して平気なのだ。文化というのは、無形の社会的資産である。歴史(思い出)がそこには蓄積しているのに、勝手に大きな変更を加えて、それを恥じない。横浜の話題からそれるけれども、二十代、三十代を下北沢で飲んだくれていた人間としては、くやしい限りである。彼らは、見せかけの「仕事」をしないことも仕事である、ということがわからない。「である」価値がわからないということか。

 ついでに述べておくと、今度の文科省の高等学校の国語科の再編案では、大幅に文学と古典の旗色がわるい。従来は二年生の「現代文」2単位のカリキュラムでも、評論的文章と文学的文章の両方を盛り込むことが出来た。しかし、今度の「論理国語」と「文学国語」を標準4単位選択させるかたちだと、それができない。減単をみとめるとしても1単位はなさそうだから、どちらか一方をとるとしたら、進学校は「論理国語」を優先するだろう。「文学国語」は選択だから、へたをするととらない者もでてくることになる。こうしてまた日本の文化的な教養の足腰が弱る。

 こうして実用の国語と論理的文章を読むことを優先した選択科目を選択する学校が増えるであろう。この問題では、全国の高校現場が頭を抱えている。従来の方がまだ現場の裁量が効いたのに、今度の科目分けでは、それができない。

 小学校では、文学の教材が昭和の時代とくらべて半減している。国語の時間数も少なくなっている。自国の文化を大切にしない国や政府というのは、いったい何なのだろうか。

 ※ 追記 10月6日。

 そののちの続報によれば、「論理国語」は「エビデンス」を重視した文章を収録したものであるべきで、夏目漱石の「私の個人主義」や、山崎正和の「水の東西」などは、それに該当しないという説明が担当官によってなされたようである。

 そうすると、従来の教科書の「評論」は、すべて「論理国語」から排除されるわけで、担当官がいったいどういう教科書を考えているのか、まったくわからない。


 いっそ「商業国語」とか、「経済団体忖度国語」とでも名前をつけてみたらどうかと思うが、必ずしもそういうものではないのだと思いたい。それとも「PISA対策国語」の発想として出てきたものなのか。

 文科省の担当官はきっと宇宙人なのだろう。
現場では、六月にやって来る教育実習生のためには、一年生の教科書で「羅生門」がなくなると、とても困る。ただでさえ陸上競技大会や、学校によっては体育祭や運動会で忙しい時期なのだ。

 そういうことについての感覚がゼロの、まったく現場を知らないひとの机上の空論で教科内容まで一度に勝手に変えられるのは、本当に困る。と言うよりも、そこに民主主義的な手続きがまったくなく、上意下達ですべてが進行してゆくのが、本当に困る。

(※アリバイとしてパブリック・コメントをとっていた、と言うかもしれないが、でも、その時にこれだけの内容だという事をあらかじめ示していただろうか?)