さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

日記 

2017年09月10日 | 日記
 今日は、知友と西田政史の歌集を間にはさんで歓談し、そのあとは、いつものように古書を何冊か買ってから家に戻った。

 電車の中から読み始めたのは、河野多恵子の或る小説で、すぐに読み終わったものの、こんな悲しい小説もまたあるものではない。続けて手に取ったのは、J・M・クッツェーの『恥辱』という小説で、今朝のテレビで某政治家の失墜の話題で盛り上がっているワイドショーの画面をたまたま見てしまっていた胸糞が悪さが尾を引いていたものだから、そういう気持ちの悪さを党派的とかなんとか誤解されないように上手に表現するのには、クッツェーほどの才能が要るのだなと思ったら、自分の非才が悲しくなって、ビールのあと買ってあったワインを半分ほどあけてしまった。

 しかしながら、まったく酔えなかったため、もう一冊、これは邱永漢の『香港・濁水渓』(中公文庫 昭和五十五年刊)という小説を読み始めたら、黒岩重吾の初期の小説に雰囲気がそっくりだった。その解説(進藤純孝)から引いてみようか。

 「世間の風は冷たい。だが、その風で頭を冷やさなければ、人間は生きることの意味を忘れてしまう」 (香港)より

「戦争がないだけで、平和と言いながらその中身は、「青空の下の牢獄」でしかない奇妙な時代を三十余年程、媚びて生きる人、威張って生きる人の雑踏に漬かって来ると、両作品が飢えて求めた「人間らしく生きることのできる世界」が、今日なおさらに希求されていることに思い当たるのである。」

 というような言葉が書きつけてあって、スマホをいじる「自由」はあるかもしれないが、「戦争がないだけで、平和と言いながらその中身は、「青空の下の牢獄」でしかない」ような現在というのは、まるごとわれわれの現在にほかならないではないかと、思ったのであるけれども、こういう「文学的」なまとめ方はまるで駄目なのではないか思ったところから、私の近年の新聞精読という日々がある。それでも二日酔いなどでひっくり返っていたりすると、読み落してしまうことはあり、たまたま私事がたてこんでいたために、「種子法の廃止」に気がついたのは、まったくあとの祭の時点であった。

 ここ十年か二十年以内に穀物の大不作ということが起きるとしよう。その時に、飢えて苦しむのは、年金生活者の引退政治家たちだけではなく、その子孫も含まれるのである。その時には、利子もへったくれもなくて、みんなが一様にあえいでいようというものだ。だから、自民党と農協の方々には、本気で日本の未来について話し合ってもらいたいと思う。

 私が言いたいのは、日本の政府には、食料についての危機感が足りない、もしくはあっても優先的に考えるつもりがない、ということだ。ジョージ秋山の『アシュラ』という漫画が事実上の「発禁」になったのは、私が小学校の時のことだった。東北の飢饉の中で、斧を使って人を殺しその肉を食べて生き延びる子供が主人公の漫画であった。このままでは、いつそんなことにならないとも限らない。だいたいひとは、ありそうもないことを指摘する言葉には、耳を貸さないものである。「想定外」だからである。

もっとも世界的に食料が不足した場合に、もっとも被害を受けるのは、最貧国とその国の住民で、先進国の住民が飢えて死ぬようなことはまずないだろう、というニヒルなものの見方もないではない。しかし、そういうものの考え方自体が、きわめて不道徳と言うか、非倫理的なものである。

※四月二十日に少し手を入れて再度アップする。