さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

高石万千子歌集『外側の声』

2017年03月20日 | 現代短歌 文学 文化
高石万千子の歌集は、ひらくたびに発見がある。

きのう目にとまったのは、次の二首だ。

陽は没りぬ
遺りしもの の明るみに
天は 空なる
いちまいの皿


さだまらぬ
 老いの思ひの 迷ひ縞
  わづかずらして
   木漏れ陽を
    来よ

という歌である。本では縦書きだが、多行形式なのは、変わらない。
「陽は没りぬ」の「没」には「い」と振り仮名がある。
 日が没してからしばらくの間、まだ空は白くあかるんでいる。それが一枚の皿のようにみえるというのだ。「天は 空なる」は、「くうなる」とも読めるが、「ソラなる」と読んで「からっぽの」という意味にとった方がいいか。作者は私的な境涯詠を一切作らない人だけれども、やはり自分の生きて来た時間の全体を思って「遺りしもの の明るみに」という、一種の自賛のよろこびのようなものを感じているのではないかと思う。

 その一方で、次に引いた「さだまらぬ/老いの思ひの 迷ひ縞」というのは、「木漏れ陽」の間を通って、なにものかがやって来ることを待ち受けている、というように読める。「迷ひ縞」のような想念と「木漏れ日」は重ね合わされながら、やって来るはずの思惟の断片のようなものが、待たれている。

ここでは、すでにつかんだものではなくて、未見のものを待っている。

 そう思って見返してみると、高石万千子の歌には、そういう「待つ」歌がたくさんあるのだ。すでに所有しているものをもとに歌を作ったり論じたりするという態度が、自分にはないか?反省させられるのである。このブログだって気を付けなければならない。

誰に貸そか千の帽子もわたくしも疑似的所有者あふるる街へ

 「疑似的所有」への抵抗というのは、高石のように若い頃にマルキシズムと実存主義の波をかいくぐり、それから後半生は何十年もドゥルーズを読んできたというような変わり種の人の初一念というものであろう。孔子の「仁」みたいなものである。それが「からっぽ」の帽子の比喩によって語られるというところが、高石短歌の独特のおもしろさである。

 この人の歌集の編集にかかわることができた偶然を、よろこびとしたい。一首。

多行書きに歌分けて詠みくつきりと結句の一語よみがへらする
   さいかち真




阿部久美『叙唱 レチタティーヴォ』  近刊歌集雑感

2017年03月20日 | 現代短歌

私はけっこう気まぐれでなまけ者なので、このブログを利用して自分に仕事をするように仕向けている。あとは、本をいただいた返事がまず書けないので、これまでにずいぶん失礼をしてきたと思う。それで新刊書については、こういうかたちで触れていくことにしたい。

〇阿部久美『叙唱 レチタティーヴォ』

アカシアの咲いてよごれた白がある夜の窓から夜を見るとき

夏の風そわんと鳴つてそれつきりわたしのことはたかが知れてる

あまりにもかたち綺麗なわかれゆゑこれはなにかの結晶だらう

夜といふつめたきものをまねき入れのちうつくしくゆがむ窓あり

 一首め、一見するとうまみのない歌のように見えるが、そうでもない。こういう同語反復のような細かいリズムでモノトーンに景物をとらえてみせるところに作者の歌の特徴がある。そういう感覚を良さとしてとらえると、感興を覚えて読むことができる。作者は北海道留萌市の人で、これは六月下旬の頃の歌だろうか。四首め、作者の窓の歌はどれもいい。こういう歌い方に作者の特徴があり、後述するがたぶん音楽に造詣の深い人らしいもののとらえ方なのだ。

三首め、作者のこころのいたみは脇に置いておいて、自分の置かれた場所を諧謔をもって突き放しているところがおもしろい。結晶作用というのは、むろんスタンダールのザルツブルグの塩の枝、つまり恋愛の方面にかかわる何かを示唆しているわけだろう。孤独で、自分には少しばかり情熱が不足していると感じている都市生活者。器用な方ではないし、あまり目立ちたくもない、典型的な内気な日本人である。歌を通してイメージできるのは、そのような人物像だ。

降りつづく夜半の窓辺におもひをり笠地蔵とふやさしき伽し
  ※「伽」に「はな」と振り仮名。

グールドに弾いてもらはう新年会終へてしれつと戻り来し部屋

現実もまぶたの裏のまぼろしもさかひめあらぬただ雪野原

 一首目のやさしい気持や、二首目のここからは自分の時間、という感覚など、どちらも女のひとらしい歌だと思う。三首目は雪の白さが圧倒的なのだろう。

ゆづりあふせまき雪道ゆづられてかたじけなしとおくる警笛
 ※「警笛」に「サンキュー」と振り仮名。

 自動車に乗っているのだろう。闊達な明るい歌である。こうやって書きしながらだいたい読み終えた。「グレー・グラデーション」の一連がいい。

またリスか 左の耳に尾が触れて背中に流れゆきしまぼろし

己が首すいと撫づれば温とさがその人だといふひたに会ひたき

 この「リス」というのは、自分の触覚的な記憶が現実化して、実際に自分をなでていると感じる感覚なのだと思う。甘い自己慰撫の感じである。自分の指のあたたかさを、会いたい人の指のあたたかさそのものとして感ずる。官能的で、本源的に性的な存在である人間の固有の鋭敏な感覚である。和泉式部が「わが黒髪をかきやりし」とうたった、それと同じものである。これとは逆に自分自身を他人のように詠む次のような歌もある。

冴え冴えと真夏粉雪降りくだれ このひとにはもううんざりなのよ

このひとのつまりわたしの思惟なれど理解不能の手紙下書き

 こういう人が音楽の話をすると、結構たのしい。

エリーゼにすこしの邪心 譜面ではどうなつてるか知りませんけれど

うつくしいことの説明むつかしく「これ」と根つこのありさまを指す

「エリーゼにすこしの邪心」でいろいろなイメージが重なって思わず噴き出した。伝説とちがいけっこうもてたらしいベートーヴェンのイメージや、それに肘鉄を食らわせる少女や、この曲を練習しているお転婆でいじわるな女の子のイメージやらが、「譜面ではどうなつてるか知りませんけれど」という句できちんと引き受けられている。確かにあの曲は邪険な感じにも弾けるな、と考えたらますますおかしい。

鼻歌とあなたはいふが切なくて呻く声ではなからうか、これ

 この歌も何だかおかしい。こういう諧謔を私はいいと思う。おしまいに一首引く。

りろりろとトリルののちに着地してことしの花もしづかにをはる