さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

『源氏物語』雑記 

2016年04月26日 | 古典
 何年も前の事だが、私は通勤電車の中で『源氏物語』を読んでいて、年甲斐もなく亢奮して来て弱ったことがある(宇治十帖である)。傍訳のついている新潮の日本古典集成本でだから、これは別に私の古典読解力を自慢していることにはならない。もっとも最近になって例の岩波文庫本を手に取ってめくってみたら、結構いい気分になることができたので、それなりに年季を積むということは、読解力の向上につながっているのだろうとは思う。

 私の以前の職場で、定年退職された数学の先生が、がんの診断を受けて、なぜか死ぬ前に一度『源氏物語』を読みたいと急に思って、一念発起してカルチャーに通いだしたという話をうかがったことがある。その方が、酒の席ではあるが、私は特に専門でもなんでないのに、しきりに頼りにして質問をされるので、その時は面映ゆくて弱ったのだが、以来私は、日本人が死ぬ前に読んでおかないと死んでも死にきれないもののひとつに『源氏物語』がある。アメリカ人には、こんなものはない。ということを、若いアメリカ系ドクトル並びに、ごくまれに出会う官僚予備軍の諸君には、言う事にしているのである。
 
 だいたい現代の日本政府の愚かな政策の大半は、アメリカ留学によって、洗練または洗脳されたひとびとによって形成されているのであって、これだけは、さしてエリートの事情に詳しくない私にもわかる。英語が読めるだけの猿どもよ。なあんて、英語が苦手の私が言っても詮無いことで…。その一番わかりやすい例が、この何十年かの経済政策と教育政策である。

 それで、『源氏物語』の話に戻るのだけれども、当たり前の話かもしれないが、『源氏物語』の最大の読みどころは、中に出て来る和歌の情緒を読み味わうところにあるのであって、その注釈にある引歌(典拠となった引用歌や、本歌取りのもとになっている歌)も併せて楽しまないと、楽しみを極めたことにはならないのである。その点で新潮日本古典集成本はいいと思う。

 ここまでが枕で、このあとに続けて何か書こうと思っていたのだけれども、チリ産赤ワインを飲みながら書いていたら酔っ払ってしまった。それで、本文の小題は「源氏」だけれども、私は本当に「源氏」には詳しくない。今思い出したのが、某大学の入試問題で、匂宮が浮舟を見つける場面を出題していたのだった。必死の受験生たちに匂宮の放蕩の現場を読ませるなんて、ずいぶんだよなあ。読んだ瞬間に〇〇したら合格、なあんてね。最近はこの手の話題に向くと、何でもセクハラと言われるので、困る。ひどい時には「あなたの顔がセクハラだ」とか平気でいうんだから、ひどいよなあ。 


津野海太郎の『百歳までの読書術』

2016年04月26日 | 
 横浜の有隣堂で何となく買ってしまった。こういう本についての本というのが、私は結構好きである。この本のいいところは、一つの話題から次の話題へ渡る時のつなげ方が絶妙なところである。似たような話が続くのに飽きさせない。若い女の子の恋愛談義を略して恋話(こいばな)と言うなら、老人の病気談義は老話(おいばな)である。この本は、死ぬまで本を読み続けてやろうという、老年の大読書人の覚悟のほどを、いささかの諦観もこめながら自身の闘病生活についての話も交えてユーモラスに語ったものだ。著者は路上読書派をもって自任していた人で、その主張は私もどこかで読んだ覚えがある。その当人が老いてみたらいつの間にか机上読書派に移行してしまったのだという。引いてみる。

 いやはや、それにしても「本は歩きながら読むべし」とかなんとか、なんのことはない、毎日がいそがしすぎ、落ち着いて本を読む時間がなかったのだろう。いそがしさが減るにつれて、当然の成り行きとして路上読書の必要も薄れ、ついには消滅し、机上読書がそれにとってかわる。死ぬまで変わらないと信じていたクセまでが変わり、おかげで、むかしのクセが滑稽に見えてきた。
 ――バカだねえ。
 思わず笑ってしまう。ただし重ねていうが、もちろん先のことはわからない。もしこのまま八十歳をこえれば、また別の私が出現するだろうことは、ほぼ確実といっていいのだから。でも、ともかくいまのところは。         (同書47ページ「新しいクセ」)

 ここで思い出したことがある。岩波書店から出た長谷川如是閑の選集の栞に、その読書用の机の写真が出ていた。これはけっこう有名なもので、海外から辞書閲覧用の傾斜のある書見台を取り寄せ、それに目を傷めないように電球を上向きにして反射板をとりつけ、ライトで手元を間接照明するようにしてある大掛かりな仕掛けで、写真だけみると、まるで歯科医の診察台のようだった。それを見た瞬間に、読書人の並々ならぬ執念を感じて、思わず噴き出したことが忘れられない。
 問題は読んでいる時の姿勢であり、腰に支えられた背骨が、まっすぐに立っていなければならないのだ。長谷川如是閑は長寿だったが、こういう合理的精神で工夫したから長生することができたのである。ということがわかったから、以来、私は椅子に坐る時の姿勢をクッションで常に調整して来た。座面が背板とともにがたがた連動して動く椅子も使っていたのだが、壊れてしまって臨時に購入した椅子をそのまま使っていた。そうしたら、昨年椎間板ヘルニアになってしまい、何か月か苦しんだ。
 私のアイデアは、目が悪くなったらО・H・Pのようなものを使って壁面に拡大した文字を投射して読むというものだ。投射する壁のかわりに本棚の前に白いスクリーンを下げる。県立の図書館にあった大きなレンズがついた書見台もよさそうな気がしている。まあ、先の話だが。

 津野海太郎の本の話に戻る。表紙が平野甲賀。なつかしい晶文社の本を思い出させる。集中には亡くなった黒テントの齋藤晴彦との思い出が出て来る。年末をしばしば一緒に過ごしていたのだそうだ。早世した草野大悟の死後に残された書き付けを編集して著者が編んだ『俳優論』の巻末には、樹木希林、齋藤晴彦、石橋蓮司らの鼎談を収録してあるという。この本読んでないなあ。いつか読みたい。