さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

江戸雪歌集『昼の夢の終わり』

2016年02月27日 | 現代短歌 文学 文化
 
  生きるとはゆるされること梔子の枯れゆくようにわれは病みたり  ※ルビ「くちなし」

 「あとがき」に大病をしたとあるから、下句のにおいは、病む身の体感を踏まえているのだろう。分析してみると、「生きるとはゆるされること」という感慨を示す句が先に来て、その直感から語り出して、それに眼前の事物を合わせるという作り方がされている。
 
  どの春もいまは遠いよさえずりをあびてあなたと川の辺にいる
  川の辺を群れ咲くはなの水仙を見ている眸、春の秀となる  ※「眸」に「ひとみ」、「秀」に「ほ」とルビ。
  川べりの雲が引きはがされていくそれをかなしむひともいなくて
  なぜ涙流れたのだろうながすたび咽喉にとろりとやさしさがきて

 平易でしかも深みが感じられる歌だ。四つ目の章あたりから、だんだん興が深まって来て、実にいい歌集だな、と思いながら読み終えた。特に関西弁が入ってくる歌がおもしろい。半ば以降はそれが顕著である。

  悪いこと起こった日にはテディベアの置き場所かえてほなまたあした

 たぶん歌集のカバーの写真は、この歌のイメージを元にしているのだろう。「ほなまたあした」と言ったときに余裕が生まれて、切羽詰まった感じがまぎれる。関西弁の秀歌をいくつかまとめて引いてみる。

  いいひとになりたいのんか渡されたクリアファイルが腕にはりつく
  葦はらに鳥はもぐれりくやしくてかなしいときは笑っときなはれ  
  ざぶとんになろうあなたが疲れたらあほやなあって膨らむような

 こういう歌がアクセントになっている。江戸さんの歌は、思ったことをすぱっすばっと言うところに良さの一つがある。歌集の半ば以降の方が、私には読みやすかった。そこから引いてみたい。

  後ろからきたる驟雨ににおいたつ鉄を運べり軽トラックは
  台所にセロリはありぬ天をゆくアキレス腱のようにひかりて
  くびすじへとどく陽射しよひとづまのわが恋歌は夏雲のよう
  横にいるわたしはあなたのかなしみの一部となりて川鵜みている
  やさしさがさびしいだけの時があり鳥よひかりのごとくはばたけ
  プラタナス「ほなまたね」って別れたりそしてざわっと動きだす川

 この歌の下句の「そしてざわっと動きだす川」は、詩の一回性の輝きを持ったかけがえのない表現ではないだろうか。

  蒼き水を淀川と呼ぶうれしさよすべてをゆるしすべてを摑む
川が吐くひかりはときに青くなりやはり「今」しか生きられなくて
いわばしる箕面ビールの瓶が鳴る春のまひるにハンドルきるとき
曇天とわれのあいだに垂れている藤の花ぶさあるいは闇が

 川や橋の歌にいいものがたくさんあって、「時間と淀川」の章がいい。「鉄工所の嫁」の章もいい。中盤からも少し引こう。

  からだだけ運ばれてゆくような日はホタルブクロや雲と出会うよ
  想像する遠景それは水門であなたの後ろすがたもありぬ
  打合せ終えて初夏しばらくはひかる堂島川を眺める
  栴檀木橋うつくしそれゆえに渡ることなく時はすぎたり  ※「栴檀木橋」に「せんだんのきばし」とルビ。
  漆黒のぶどうひとつぶ口に入れ敗れつづける決心をする

  空、これが嘘だとしてもいつの日かわたしは身体をうしなっていく
  ブラインドひりひりと鳴り昼すぎの思考をふかく胸にしずめる
  秋ふかく風はときどき向きを変えなにわ筋いまはげしく黄金

 江戸雪さんの歌には、大阪の川面をわたる風の匂いがする。空の色が言葉に映り込んでいるのだ。