さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

紅梅の候 岡部文夫『雪代』

2018年02月25日 | 日記
 このオリンピック期間中は、私もはじめて見るカーリングにはまってしまった。計算と勘と度胸と知恵と努力の蓄積に乾坤一擲の博打の感覚が合わさっていて、おもしろいスポーツだ。少人数のメンバーの息が合っていないと点に結びつかないところも、今の時代向きである。特に女子では、カリカリしている他国のチームと日本のチームの陽気な雰囲気の対照が印象的だった。当たり籤ならぬナイス・ショットが出ると、けらけら笑ってみせる若い娘らしい健康な姿に何となくほっとしたものを味わうことができた。

 ふだんどの競技スポーツでも、あれだけ長い時間、特定の選手の息遣いを見つめ続けるということは、なかなかない。カーリングには、野球やゴルフの試合を見ている感じと共通の要素がある。だから、今後は日本でも人気の競技のひとつになるのではないだろうか。今後はスキー場やスケート場にもカーリングの楽しめる設備が常備されて、一般の人が気軽にカーリングを楽しめる時代になればいいと思う。シニア向きの要素もあるような気がする。長野や北海道などでは、温泉地にもそういう設備を作って、春秋までできるようにしたらいい。

 この時期、私が読みたいと思って引っ張り出して来てあった本は、岡部文夫の歌集『雪代』である。岡部文夫は、北国の冬の歌が印象的な歌人である。

はららぎしひとときのまの風花に紅梅の蕊つゆつゆとせり 

 巻頭の一首。昭和五十五年の作である。私の身近なところでは白梅より少し遅れて紅梅が咲き始めているが、北国ではまだそれどころではない。二月の雪がこれでもか、これでもかと降り続くという天気予報である。掲出歌、わずかに降って来た雪が陽に溶けて、紅梅の蕊がそれに潤っていっそう輝いているというのだ。初々しい春の喜びの感覚が伝わって来る、いい歌である。

ものなべて孤独ならむか暗黒のはげしき風に欅は立つに

 しかし、玄冬の厳しさは圧倒的で、森閑と冷えた大地に夜は暗闇が大きくのしかかっている。そこに風がはげしく吹きつける。

降る雪の音さへもなき冬の夜に一つ炎の如くにあらむ

 しんと静まり返っている時間もある。そのなかで、一つの炎のような己というものを確かめている。一個の存在として、己を意識し、生きてもの思うことに集中している。

 昭和五十五年というのは、1980年。もう38年も前になってしまった。八十年代というのは、古い日本の風物がばらばらに解体されて、それまでに存在した強固な思想や制度の枠組みがゆらぎだした時代である。「戦後」が次の「戦後以後」の時代に向かって新たな摸索をはじめていたのだ。そのなかでは、岡部文夫の歌は「戦後」そのものであったし、そこにおける成熟のひとつのかたちを生きて体現していたのだと言える。岡部とほぼ同じ軌跡を歩んできた坪野哲久も同様である。いま読んでいると、一首の姿の引き締まった強さに打たれる。とてもかなわない、という気がする。それが、この頃のこういう歌の良さである。短歌が円満に近代短歌を受け継いでいるという安心感のようなものがあるのだ。

 昭和五十五年当時、私は現代短歌をまだよく読んでいなかった。むろん岡部文夫の名前も知らなかった。詩歌よりも近代小説をよく読んでいた。当時は寺山修司が健在で、自分の大学の友人とは吉増剛造の詩集や正津勉の詩を話題にしていた。粟津則夫のランボー訳詩集と渋澤孝輔の詩が私のお気に入りだった。私の知人は何かと村上春樹を話題にしていたが、私は初期の作品以外は続けて読まなかった。ハルキに関してはもっぱら聞き役だった。……思えば遠くに来たもんだ。


日記 

2017年09月10日 | 日記
 今日は、知友と西田政史の歌集を間にはさんで歓談し、そのあとは、いつものように古書を何冊か買ってから家に戻った。

 電車の中から読み始めたのは、河野多恵子の或る小説で、すぐに読み終わったものの、こんな悲しい小説もまたあるものではない。続けて手に取ったのは、J・M・クッツェーの『恥辱』という小説で、今朝のテレビで某政治家の失墜の話題で盛り上がっているワイドショーの画面をたまたま見てしまっていた胸糞が悪さが尾を引いていたものだから、そういう気持ちの悪さを党派的とかなんとか誤解されないように上手に表現するのには、クッツェーほどの才能が要るのだなと思ったら、自分の非才が悲しくなって、ビールのあと買ってあったワインを半分ほどあけてしまった。

 しかしながら、まったく酔えなかったため、もう一冊、これは邱永漢の『香港・濁水渓』(中公文庫 昭和五十五年刊)という小説を読み始めたら、黒岩重吾の初期の小説に雰囲気がそっくりだった。その解説(進藤純孝)から引いてみようか。

 「世間の風は冷たい。だが、その風で頭を冷やさなければ、人間は生きることの意味を忘れてしまう」 (香港)より

「戦争がないだけで、平和と言いながらその中身は、「青空の下の牢獄」でしかない奇妙な時代を三十余年程、媚びて生きる人、威張って生きる人の雑踏に漬かって来ると、両作品が飢えて求めた「人間らしく生きることのできる世界」が、今日なおさらに希求されていることに思い当たるのである。」

 というような言葉が書きつけてあって、スマホをいじる「自由」はあるかもしれないが、「戦争がないだけで、平和と言いながらその中身は、「青空の下の牢獄」でしかない」ような現在というのは、まるごとわれわれの現在にほかならないではないかと、思ったのであるけれども、こういう「文学的」なまとめ方はまるで駄目なのではないか思ったところから、私の近年の新聞精読という日々がある。それでも二日酔いなどでひっくり返っていたりすると、読み落してしまうことはあり、たまたま私事がたてこんでいたために、「種子法の廃止」に気がついたのは、まったくあとの祭の時点であった。

 ここ十年か二十年以内に穀物の大不作ということが起きるとしよう。その時に、飢えて苦しむのは、年金生活者の引退政治家たちだけではなく、その子孫も含まれるのである。その時には、利子もへったくれもなくて、みんなが一様にあえいでいようというものだ。だから、自民党と農協の方々には、本気で日本の未来について話し合ってもらいたいと思う。

 私が言いたいのは、日本の政府には、食料についての危機感が足りない、もしくはあっても優先的に考えるつもりがない、ということだ。ジョージ秋山の『アシュラ』という漫画が事実上の「発禁」になったのは、私が小学校の時のことだった。東北の飢饉の中で、斧を使って人を殺しその肉を食べて生き延びる子供が主人公の漫画であった。このままでは、いつそんなことにならないとも限らない。だいたいひとは、ありそうもないことを指摘する言葉には、耳を貸さないものである。「想定外」だからである。

もっとも世界的に食料が不足した場合に、もっとも被害を受けるのは、最貧国とその国の住民で、先進国の住民が飢えて死ぬようなことはまずないだろう、というニヒルなものの見方もないではない。しかし、そういうものの考え方自体が、きわめて不道徳と言うか、非倫理的なものである。

※四月二十日に少し手を入れて再度アップする。


「舟」30号。「毎日新聞」6月3日「名作の現場」。「短歌現代」1981年5月号。

2017年06月04日 | 日記
今日は一日家にいたので、ものを書くのに疲れたら何となくねそべっては手元に積んである本や雑誌をぱらぱらめくったりしている。中公文庫の吉田秀和『響きと鏡』というエッセイ集を何ページか読み、舟の会の「舟」30号をみる。後記の訃報欄をみると、「浮島」と名乗る歌人が三十二歳で夭折している。ああ、またここに一人若い人の命が消えた。遺作「水底弔歌」をみると、これは自分で自分に別れを告げている歌のように見える。ためらいを覚えるのだが、やっぱり引いてみることにする。ペンネーム浮島。歌は技術的に完璧である。惜しい才能だ。

 ごめんなさい私がいたらラジオからは雨音だけしか 聞こえない
 
 ある夜に彼女はしろい砂糖菓子に自分がなれないことに気付いた

 一冊の本になりたい図書室で光をさけて眠っていたい

 たくさんの娘らが並ぶ霧の海 真珠になれない、ごめんかあさん

 白い白いハチドリたちが降りつもる 海底にまるで雪みたいに

 おびただしいガラスの小瓶 あの人は天使をつかまえようとしていた


 私の知人の早坂類さんの詩に少し似ている。

前日の「毎日新聞」の「名作の現場」は梅崎春生の『幻化』について島田雅彦が書いていて、これは阿蘇の火口を二人連れの男のうちの一人が一周するのを、もう一人の似た者同士の男が望遠鏡でのぞきながら声援を送るという話だった。島田は書く。

「戦争は終戦とともにきれいさつぱり終わるのではなく、戦後も心的外傷との戦いは継続する。それを含めての戦争文学なのである。『幻化』が書かれた一九六五年は東京オリンピックの翌年であるが、元兵士の意識は依然として生死の微妙な境目に立っている。心が弱った者に阿蘇の火口ほど危険な場所はないが、二人は死に誘惑されるか、活力を補充して生還するか、際どい賭けをしている。実は私たちの誰もが一歩間違えると、戦争や狂気に押しやられる日常を過ごしており、阿蘇の火口に立つ二人と同じ立場にいるのである。」

 次に積み上げてある手元の雑書の山の中から何気なく一冊抜き出して読み始めたのが「短歌現代」1981年5月号である。特集「北原白秋『桐の花』の研究と背表紙にあるので買っておいた本だが、はじめから順にめくっていったら30ページと31ページに見開きで「松村英一追悼」として右のページに三浦武、左のページに御供平佶の文章が載っているではないか。そうして32ページに「松村英一の秀歌100」として千代国一の選が載っている。さっき御供平佶の歌について書いたばかりである。小半時のうちにこの一冊に手が伸びる、ということ自体が偶然とは言え、なかなかできすぎている。

 御供は、松村英一に「短歌は態度の文芸であると言われた。生活を大切にすることと、何事にも深く徹することを厳しく命じられた。」とある。「短歌は悲哀の文芸だと語りつづけた松村英一先生」ともある。

「書斎人の先生の知識欲は深く、三面記事的な事柄の多い鉄道公安の僕の日常を「ほうほう」と身を乗り出して聞かれ「その話書いとけ」と言われた。画商で店番をされた少年期に見た、袂の底を叩き袖口から飛び出す蝦蟇口を摑む掏摸の話を「今じゃこんな職人はおらんよ」と楽しそうに語られた。多くの悲惨に耐えた哀しみを忘れたかの眼差しであった。」と書いてもいる。短文ながら要を得ていて、かつ楽しい。

 ついでに右ページの三浦武の文章も紹介しておく。

「先生の話によると、六人の幼い子供を次々に亡くした虚無感から生きる気力を失い、投身をすべく奥様と二人で錦ヶ浦の崖の上に一日佇んでいたとのことであった。奥様のひとことで思いとどまったとのことで、終日見下ろしていたその日の冬の海の印象は今でも鮮明に覚えているといい、「歌が、国民文学があったのも死ねなかった原因の一つだよ」と感無量の言葉を継いでくださった。」

そんなつもりはなくて書きはじめたのだが、こんな文章になってしまった。
 


「美志」一九号 発刊

2017年05月18日 | 日記
「美志」の一九号が出た。一部は「葉ね文庫」で手に入るので、ほしい方は早めに。何しろ三百部しか作っていないので外に出すのは、ほんの一部だ。「葉ね文庫」は、やっている人が楽しそうでいいと思う。「三月書房」の社長さんが亡くなってしまって、さびしいとおもっていたら、こういう人が出て来ているのだと思った。これも文化の多様性に寄与する個人の経済活動のひとつかと思う。

山上たつひこのこと 雑記改題

2017年04月12日 | 日記
 少しでも身の回りの整理をしないでいると、だんだん封筒の切れ端のようなものが積み重なって行って、山のようになってしまう。セルフ・ネグレクトの生活、とでも言ったらいいか。いそがしいと、ついそうなる。それを片付けはじめると、半日はあっと言う間だ。みすみす休日の貴重な時間が奪われていく。せっかくの休日を空費して、気付いた時にはもう夕方の四時頃だ。

―八丈島の、きょん。

…なんて言っても、若い人は、わからないか。苦しい現実を破壊的で不条理なギャグでごまかそうとする、必死のユーモアが、「八丈島の、きょん」だったので、「猫パンチ」というのもあったかな。(山上たつひこの漫画です。)

猫パンチをくれてみたいのが、あのことだ。誰も命令をくだしていないのに大きな建物が建ったり、検査数値が百倍になったりならなかったり、もう何でもありの無責任体制。これを戯画とみて笑っている場合ではない。己の写し絵なわけだから。今後の日本社会の先行きを占うためにも、ここはけじめをつけておかなければならない。鉄面皮の代表のようなナンバーツーには、詰め腹を切らせたい。大将には、もう一度唐紙を破る勇気を起こして記憶を取り戻し、「男らしく」謝罪してもらいたいものである。

それにしても、空気を読むのに敏感なひとたちの右往左往する姿はどうだろう。こういう連中が、戦時中は先頭に立って旗を振ったのである。バスに乗り遅れるな、というやつである。だから、まったく信用ならない。と言うより、こういうドミノ倒しの「ドミノの駒」を信用してはならないのである。他人のふんどしで相撲をとるというのは、こういうひとたちのことを言う。

―八丈島の、きょん。

※追記 山上たつひこの『大阪弁の犬』という本が「フリースタイル」という出版元から2017.11.25日付で出た。藤沢のジュンク堂で漫画のコーナーに置いてあった。はじめわからなくて店員に訊ねてしまった。これは文藝棚にも置いてほしいと思う。格調の高い文章が集められたエッセイ集なのである。

いま、ふっと心づいたのだけれども、この本で語られている、山上たつひこの初期の自らの漫画の描法への違和感というのは、要するにナルシシズムへの警戒ということなのだろうと思う。

 『光る風』が学園紛争時代に政治的なメッセージをこめた漫画として世代的に支持されてしまうということがあって、それをあえて捨てて顧みない、絵のタッチまで変えないと気が済まなかった、というところに、自分の表現衝動に正直であろうとする作者の独特のこだわりがあったのだろうと思う。

 学園紛争自体が、端的に言うと若者たちのナルシシズムの爆発のようなところがあった。私は、長崎という人が、当時「造反無理」という落書があったことを報告している文章を読んだことがある。それはとてもみっともないことだから、あなたは(ぼくらは)こんなにみっともないんだよ、はずかしいんだよ、という漫画を、作者としては意地でも描く必要があったのだ。そこのところで諧謔のセンスがピカイチだったから、いまだに山上たつひこの名前と作品は忘れられないのである。
 
 ついでに書いておくと、私には企画の才能があるので書いてみると、ビートたけしの週刊誌連載の毒舌漫談は、全集にして、立派なキンキラキンの本にして刊行すべきである。一冊ごとに表紙は、一流のアーティストのデザインにして、表紙カバーの裏側は、多様な人物の顔写真やヌード写真などであるべきだ。そういう楽しい本を手にしたい。



恩田陸 「モーツァルトの上澄み」と「オグネ」

2017年01月23日 | 日記
 恩田陸さんが直木賞を受賞した。この人ぐらい豊富なイメージ記憶を駆使して物語を書ける人は稀である。たしか無類の短歌好きでもあったはずだ。
何か恩田さんにふれたものがないかと、探してみた。以下は「美志」3号(2012.3)の「雑感」全文。

1・聞こえてくる声
 古書を引っ繰り返してめくっていると、時々思わぬ美しい文言を見いだして驚くことがある。加藤楸邨の『奥の細道吟行・上』(昭和四九年二月刊)より。

 「…ひそかに思いかえしてみると、その歩きまわった中学生の頃のいろいろの印象の中に、ずっと私の中を伏流のように流れつづけている思いがあったように思う。一つは、はるかな遠くから一本のまがりくねった細い径が私の足許につづいているという思いである。(略)もう一つは、その頃の印象の中で暗い闇の中から、かならずといってよいくらいゆらめくようにきらきらするものが目に見えてくるということである。これは今でも古美術を見たり、古硯を見たり、書画を見たりするとき、かならず私の中に起ってくる心のうごきであって、目を細めたり、息を深くしたり、何かの障礙を乗り越えたりしないと、何も見えてこないという性癖のようなものがある。」

 人は、自分が青春の頃に培った生の感覚、美についての感受性のようなものを、手放さないで生きてゆくものなのだ、と言っているようにも思えるし、また、中学生の頃に感じた幽遠な寂しさと、何物か、遠い無限なものとのつながりの感じを体の中に残していて、その感覚を蘇らせるために古美術などに接することを必要とするのだと言っているようでもある。

 これと同じような心の動きについて、もっとわかりやすく書いている文章を見つけた。恩田陸の小説で、『六月の夜と昼のあわいに』(二〇〇九年)所収の「恋はみずいろ」という短編だ。
 語り手が幼い頃から、美しいものや、心をひかれものに接すると、かならずある声が聞こえて来たのだった。それを語り手は、「あの人の声」と呼んでいた。

 「モーツァルトの上澄み。
 東京駅で演奏を聴いた瞬間から、私はそのことについて考えていました。
 明快なメロディが高い天井をさざなみのように駆け抜けた時、私は確かにあの人の声を聞いたのですから。」

 老境に入って故郷に戻った語り手が、山里と田園の地を歩いていると、しばらく聞こえなかったその声が、再び聞こえて来るのである。
 私は知人と恩田陸のことを話題にしたことがない。たぶん主な読者たちと私とでは、世代がずれているのだ。つづけてこの小説には次のような一節がある。

 「オグネというのは、東北の平野にある屋敷林のことをそう称しています。」

 「稲穂の海は多島海です。黄金色の波に沢山のオグネが浮かんでいます。」

「教科書で西脇順三郎の詩を読んだ時、私はこのひともオグネの浮かぶ海に立ったことがあるに違いないと思いました。」

 オグネのように陽が当たり、風のそよぐ場所。人生においても、さまざまな移動や、旅のさなかにおいても、われわれはそれに出会う。それは、移ろいやすいわれわれの経験の核のようなものとして、われわれの注意と関心のまととなり、時には哀惜の対象ともなるものだ。
 それらはいつも超越的なものである必要はない。生の感覚の愉楽と結びつきながら、すぐには見えたり聞こえたりしないけれども、同時に案外なつかしくて近しいものなのだ。そうしたもの、「あの人の声」について語る能力を、われわれは取り戻さなくてはならない。それが、詩歌の仕事であったはずである。

  あくがるる心は野べのいとゆふのつなぎもとめぬ花にみだれて 
                      三条西実隆『雪玉集』

 2・後期の西脇順三郎

 このごろ西脇順三郎という名前は、ある種の詩歌人の間でひそかに符牒のように流通している。何年か前に、全歌集を出した岡井隆のために催された会で、パネラーをしていた穂村弘が、西脇順三郎の名を口にするのを聞いたことがあるし、岡井隆自身も頻繁に西脇の名を口にしている。

 私なりに整理してみると、大岡信に代表される戦後詩人の幾人かが、中期以降の西脇詩を厳しく否定したことが、長い間西脇詩の評価をにぶらせて来た。でも西脇の愛読者は、そんなことを気にしないで、中期以降の作品を愛読して来た。その評価の高まりと、新編の岩波文庫詩集に中期以降の作品が多く収録されていることは関係があるかもしれない。

 何年か前に、私は西脇の詩について歌誌「未来」に連載した「読みへの通路」というエッセイに書いたことがある。私はそこで近年著作集の第一巻が出た言語学の奥田靖雄の論文を利用して、西脇詩における説明の「のだ文」の使用と、「私性」の関係について書いた。その後同じテーマで西脇詩の研究者が、著書にまとめたものを発見したので、ここに取り上げることにしたい。

芋生裕信著『西脇順三郎の研究』(新典社二〇〇〇年刊)から紹介してみよう。
 「例えば、『近代の寓話』以降の西脇詩の文体を決定づけている大きな要素に、「だ」「のだ」を伴った文末表現があるが、この「だ」「のだ」体が、(改作詩集)『あむばるわりあ』の中ですでに試用されているからである。」(同書一五一ページ)

 この「だ」「のだ」表現は、「(昭和)二六年に至って「僕はようやく詩の方法がわかってきたような気がする…これをどんどん進めていこう」と作者自身が語ったと言われるように、文末表現として定着することになる。」(同書一五三ページ)

 同書によれば、西脇は『近代の寓話』では、十一行に一回のペースでこの「だ」「のだ」表現を用いている。それ以後の詩集では十行から二十行に一回のペースを保って行く。
 次に私が以前書いた文章を引用したい。
 
岩波文庫の『西脇順三郎詩集』を例にとる。「私」を主語として「~のだ」で結ぶ典型的な〈解説〉文は、著名な第一詩集『ambarvaliaあむばるわりあ』(昭和八年刊)にほとんど出て来ない。ひとつ引用してみよう。
  ※   ※
     雨
 南風は柔い女神をもたらした。
 青銅をぬらした、噴水をぬらした、
 ツバメの羽と黄金の毛をぬらした、
 潮をぬらし、砂をぬらし、魚をぬらした。
 静かに寺院と風呂場と劇場をぬらした、
 この静かな柔い女神の行列が
 私の舌をぬらした。

 この詩集の特徴は、右のような詩にあるということになっている。文末が「~た」からなる〈描写〉文の詩である。高校でまず教わるのが、冒頭の次の詩である。

    天気
 (覆された宝石)のやうな朝
 何人か戸口にて誰かとさゝやく
 それは神の生誕の日。

 これは、若い人に詩についての先入見を与えるという意味では、なかなか影響が大きい詩なのだ。しかし、これを模範として詩を作るのは難しい。
本格的に西欧語を習得した作者が、客観的な〈描写〉文を基本として詩を構成することは、自然ななりゆきである。この詩集には、難解な「失楽園」など、後年の作者の萌芽が見える詩が収められているのだが、そこに出てくる主語の「おれ」は、戦後の述懐の話法(おのれ語り)をもって書かれた詩と地続きである。

それとて、後年の仮名のタイトルの『あむばるわりあ』(昭和二二年刊)の改作では、作者は「おれ」を取り去ってしまったかたちで整理したりしているから、この詩人にとっても、語りの主体のありようは、大きな課題だったことがわかる。しかし、その詩人が、第二詩集『旅人かへらず』を経て、『近代の寓話』以降、「私」を主語とした「~のだ」を多用する詩境に移って行った、ということのなかに、私は日本語の生理のようなものについての作者の自覚の深まりがあると思う。

    無常
 バルコニーの手すりによりかかる
 この悲しい歴史
 水仙の咲くこの目黒の山
 笹やぶの生えた赤土のくずれ。
 この真白い斜塔から眺めるのだ
 枯れ果てた庭園の芝生のプールの中に
 蓮華のような夕陽が濡れている。
 (略)
 饗宴は開かれ諸々の夫人の間に
 はさまれて博士たちは恋人のように
 しやがんで何事かしやべつていた。
 (略)
 やがてもうろうとなり
 女神の苦痛がやつて来たジッと
 していると吐きそうになる
 酒を呪う。
 (略)
 客はもう大方去つていた。
 とりのこされた今宵の運命と
 かすかにをどるとは
 無常を感ずるのだ
 いちはつのような女と
 (以下略)

 五行目の「この真白い斜塔から眺める」主体が、作者・「私」であることを読者は疑わないだろう。その結びは「~のだ」である。酒の女神と踊ることに「無常を感ずるのだ」という私語りとしてせり出してくるのが、日本語の〈解説〉文なのである。」
   ※   ※

 ここで、もう少し芋生裕信の「のだ」についての説明を引いてみよう。

 「「のだ」の語りかけは、作者から読者への一方的なものではなく、表現主体の中に話し手と聞き手の関係があり、その関係全体を読者が受け止めるという構造で理解すべきではないだろうか。」(略)対話の関係として生きて動く詩人の内面が「のだ」によって露わになるということは、文法論で説明される「二重判断」に関わっていると考えられる。」

 「「『のだ』はいわゆる文相当の表現に付いてそれを素材化」(鈴木英夫)すると言われる。このことを敷延すれば、第一次判断の主体を旧主体として素材化して、新主体が現れ、そこに自己素材化による自己更新的な動性をとらえることができる。」 これ続けて著者は、昭和三十年前後に連詩をやっている知人に対して、西脇が「自分が一人でやっていることを、君達は二人でやっている。」と語ったという証言を紹介している。

 私は、この考え方を岡井隆の連作の解釈などにも応用できるのではないかと思う。つまり岡井の短歌は、一首一首が「のだ」文のような形で成立している詩の型式であると言うことができるだろう。つまり、短歌の連作を自己内対話の展開する動的なものとしてとらえるわけである。むろんその場合には、対話を促す積極的な詩的な契機が、作者自身によって模索され、とらえられているものでなければならないということは言えるのだけれども。

 3・永田耕衣の俳句について

 朝日文庫の「現代俳句の世界」全十六巻が出そろったのは、昭和六十年。これは若いころ本屋に注文して全部そろえた覚えがあるが、書架のあちこちに散ってしまっていて、それを私は時々掘り出す。カバー挿画は、宇佐美圭司で、シャボン玉のような球体のなかを歩く人の形が、簡潔にスケッチされている。一時代のスタイルを作った絵柄だから、見覚えのある人が多いのではないだろうか。第十三巻は、永田耕衣、秋元不死男、平畑静塔の選集である。いま目に入ったのは、

 生涯を独活まで来たる思いかな  
               ※「独活」に「うど」と振り仮名。

 昭和五三年作 永田耕衣『殺祖』より

 年譜を見ると耕衣七十八歳の時の句。独活は、禅で言う大愚だろう。これは語感から受ける感じが強い句だ。でも、独活を食べる時には、土の持っているみずみずしい力を季節からそのままいただくような気がする。一句の含みとして、作者には老いても独活のような質朴ないのちがある、ということなのか。独活の収穫は、テレビで見たことがあるが、地下の穴蔵のようなところにもぐってするのである。この句そのものは、冷えていて、熱くない。〈生涯〉は、ここでは認識としてあるのだろう。だから、独活に比せられるものは、別に生涯である必要はないとも言える。書いてみてわかったが、あまり好きになれない句だ。有名な

 近海に鯛睦み居る涅槃像

にしても、右に私が指摘したような冷えたところがある。エロティックだが、つまり生の根源に触れていながら、同時に生に向かう正のエネルギーを滅却している。この句が共感を呼ぶとしたら、人は(生きているものは)必ず老いるという事実があるからだ。そのかなしみに触れるように、鯛はお互いの体を寄せ合っている。そこだけ周囲の水があたたかい。この句は涅槃会を連想して、春の季感を先に受け取って読むと印象がやわらぐけれども、ここでは句に内在する観念の刃の方に注意をむけてみた。

 死螢に照らしをかける螢かな  
墓の意のままに動きて墓参人
   昭和三〇年
 母の忌に亡父讃めらる梅の花       ※「讃」に「ほ」と振り仮名。
               昭和三一年  

 われわれの生というもののなかで、死は常に一定の地歩を占めている。それを作者は句のかたちにして突き出してみせる。ただ、死と死者のたしかな実在感は、もっとあたたかくうたうこともできるはずだ。でもこの作者はそうしない。

 老人やみみず両断されともに跳ね
          昭和三五年『悪霊』

こんな残忍な句は、そうあるものではない。年譜を見ると六〇歳の時の句である。この詩精神は若々しいとも言える。どうしてこんな句を作るのか。少し謎解きをしたくなって来た。

 白桃やニヒリズム即ヒュウマニズム
         昭和四七年『冷位』

 こういう哲学に突き当たるのか、と思う。まさか、サルトルではなかろうと思う。これが俳句でなかったら、「ニヒリズム即ヒュウマニズム」ということは、あり得ない。両者は別物である。その程度には、思想というのは厳密なものである。でなければ、ただの感傷的な思想にすぎない。何なら「白桃やテロリズム即ヒュウマニズム 」とでも言い換えてみたらわかる。絶対矛盾だ。もう少しまともな解はないのか。ヒュウマニズム批判とすると、「白桃やニヒリズム即アメリカ式ヒュウマニズム」というようなことになるが、これだと随分浅く感じられる。この場合は、ベトナム戦争、最近ではイラク戦争をしたアメリカ批判だ。

 しかし、やはりこの句は、作者の作句上の覚悟を語るものなのだろう。詩型の生理というのは、それを長年続けていると、体に染み入って来る。俳句が生きているのか、本人が生きているのか、区別がつかなくなってくる。そういうところで作者はこの白桃の句を吐き出したのだろう。根底にニヒリズムがあって、そこでようやく成立するヒュウマニズム。そのような俳句、俳句的認識。先程から私が指摘している、なまなましい生の現実を言葉でつかみながら、同時に冷えているという作者の特徴は、これに由来するのだ。

 ここで作者の散文集『陸沈絛絛』を取り出してみる。私は同じ著者の『名句入門』を以前愛読したことがあるので、いつか読もうと思って買って持っていた。めくってみると、禅と俳句の詩法に関するとてつもないことがたくさん書いてあって、かえってこちらが落ち着いて作品に向き合うことを邪魔する。私は自分の頭を動かしたいので、永田耕衣の作品をよりよく理解するために、いまここで『陸沈絛絛』の自注の文章などを引く必要はないだろうとは思ったのだが、一カ所だけ、やはり引いておきたいと思う。禅へ傾斜する精神的な傾向は、この人の初期からのものだが、それを加速したのが、特高警察による新興俳句弾圧と戦争だったというのである。

 「さて話は私が「鶴」同人に推された昭和十五年十月直後頃のことに戻る。某日をきつかけに小野蕪子から「仮面を脱ぎ給へ」「弾圧の手が伸びている、庇護すべきや否や」といつた苛酷な文面のハガキが、二日置き位に数回にわたつて舞ひ込んできた。全く突如とした悪魔的なわけの分からぬ文面であつた。小心者の私は事の容易ならぬ状態に戦慄し、何が何だか分らぬまま「ヒゴタノム」の電報を打つた。時恰も新興俳句陣の面々が次々と検挙された十五年二月から十六年二月に至る期間の後期に当つてゐた。」
 「私は昭和十六年四月以降ぷつりと俳句をやめてしまつた。然し、何のイワレで好きな俳句を止めなければならぬのかといふ反問が直ぐ湧いてきた。」それで十二月には復活したが、「強制さるる感のままに戦争への迎合的態度を、半ば保身の術と心得て露呈しないわけにはゆかなかつた。一方私は益々禅に凝り、人間存在の根源に触れようと努力した。それは権力への屈従感に自ら反抗し、自主性を挽回するの心理操作に大いに役立つた。」
  
 この人は戦争中の自分について、自分の弱さと妥協した面について、それから弾圧された経験と、それでも抵抗しようと試みた部分について、正直に語っている。こういう人物は、ほとんど稀であり、たとえば平野謙の戦時中の履歴隠しなどとくらべたら、本当にさわやかである。これは山中恒が言っていたが、児童文学者の浜田裕介などは、戦後古書店を虱潰しに回って、戦時中に自分が戦意高揚のために書いた著書の隠滅につとめたそうだ。

 4・河野愛子の歌について

 細川布久子著『わたしの開高健』という本を書店で手にとって、あとがきを見ると、「旅立ちの時が近づいている。」という言葉が目に飛び込んで来て、ああ、これは買わないといけない本だ、と思ったのだった。著者は、開高健担当の編集者の一人だった。その本がおしまいに近づいて、東京からフランスの著者に作家の訃報を知らせる電話が届く。そこのくだりに、河野愛子の歌が一首差し挟まれていたのを見て、私ははっとしたのだった。

  ししむらゆ沁みいづる如き悲しみを黙りて人に見せをりにけり  河野愛子
 
 この「人」が誰なのか、なくなった人は作者とどういう関係にあった人なのか、この一首からだけではわからない。

私は斎藤茂吉の

「オリーヴのあぶらの如き悲しみを彼の使徒もつねに持ちてゐたりや」

という歌をなぜかここで連想する。河野は「アララギ」育ちで、むろんこの歌を熟知していた。本歌と思って読んでいいのではないかと思う。「ししむらゆ沁みいづる如き悲しみ」という句からは、皮膚に流れる汗のように、じわじわと体に湧いて来る「あぶら」のイメージが、私には喚起される。皮膚の表面を流れるあぶらである。悲しみのあまり身をよじり、体のなかの「あぶら」が皮膚にしぼり出されて来る。この連想には、生々しく触覚的な感じが伴っていて、それは「ししむらゆ沁みいづる如き」という言葉の持っている喚起力と不可分ではない。茂吉にあっては想念の飛翔であったものが、女性の現実の肉体の位置に引き戻されているところに、河野の歌の衝撃はある。

 そうして、河野の最後まで残ってしまう自意識というものが、下句には感じられる。子細に見ていると、「黙りて人に見せをりにけり」の「黙りて」が、少し気になって来る。「人」は誰なのか。もしかしたら夫ではないか、と私は疑う。この歌の失われた人は、男だろうか、女だろうか。もしや作者がひそかに思いを寄せていた異性ではないか、と疑う。もとの歌集のどこにこの歌があったかを、私はすでに忘れている。 最近、鈴木竹志が『孤独なる歌人』という評論集を出して、その中で河野愛子に多くのページを割いていたのを思い出して、取り出してみる。右の歌は引かれていないが、次の歌が引かれていた。

  みづからの脂に燃ゆる魚ひとつ寂しさや或ひは柩のなかも

 かなり直接的な歌で、思い切ったところのある歌だ。これは、焼かれるのが自分の肉体である、ということを押さえて読む必要がある。河野愛子は、時に残酷な観察もよくするリアリズムの徒でもあった。そう言えば正岡子規には、「死後」という随筆があった。あの文章では、棺桶の上に土がかぶせられて重いだろうし、苦しくていかん、というような口調に漫文の要素があった。この歌には、そういうユーモアはない。しかし、右の歌の存在からも河野がいかに「脂」にこだわっていたかは、理解できるのである。

 次に中川佐和子の『河野愛子論』を取り出してみる。花の歌をとりあげた章では、「死というのは、河野愛子にとって一貫した主題であって(略)本質的に、死と結びつく花の把握もかなり固有な視点である。」と書かれている。まったくその通りで、そこに河野の癖のようなものがあったと言えるし、今だから言えることだが、それはまた河野の歌の世界の狭さでもあったかもしれない。「河野」は「アララギ」のあとは近藤芳美の「未来」に活動の中心を移した人で、初期「未来」の歌人は、生真面目なピューリタン的な人々という印象が私にはある。河野はいつも真剣で悲劇的である。いま渡辺良さんが遺歌集に取り組んでいるが、金井秋彦のことが、私はずっと気になっている。彼も同じような雰囲気を持っている歌人だ。

 5・雑記
〇 『折り折りの人』Ⅰ、Ⅱ(昭和四二年朝日新聞社)。Ⅰ巻に土屋文明の人物をめぐる回想記が入っている。永井龍男の中原中也回想の小文もある。中川一政が岸田劉生のことを書いた文章もいい。

〇 飯島耕一・加藤郁乎共著『江戸俳諧にしひがし』(二〇〇二年みすず書房)。この本は秀句がたくさん引かれていて目移りがしてしまう。買ってから十年も放ってあったが、いい本だ。二人して、我らは芭蕉ではなくて其角を推す、というのである。

  から鮭の口はむすばぬをならひかな   加舎白雄

〇 ふだん微温的な作品が多い近世和歌を読んでいると、比較して「七部集」の味わいが実に鮮烈に感じられたりするのだが、この縁で岩波新書の堀切直人著『芭蕉の門人たち』も読み出したが、読みやすく有益な本だった。

  くろみ立沖の時雨や幾所   丈艸

 先日は岩波文庫の『七部集』の後半を切り離して持ち歩いた。これは、おしまいの方を見ていて目にとまった句。

〇続けて柴田宵曲著『蕉門の人々』(岩波文庫)を毎日の通勤電車のなかの楽しみとしたが、これは名著。一粒食べて百倍おいしいキャラメルのような本。

  重なるや雪のある山たヾの山      加生

  石も木も眼に光るあつさかな      去来

  山がらは花見もどりかまくらもと  丈艸

〇 依田仁美著『正十七角形な長城のわたくし』(二〇一〇年北冬舎)。同歌集『異端陣』(二〇〇五年文芸社)。会えば武道を行き方の根幹に据えている人らしく、痛快な人柄だった。第一歌集『骨一式』の

  個人史を溯るため水を飲む水が耳よりあふれ出るまで

が私はいいと思う。

〇 中井正義著『短歌と小説の周辺』(平成八年沖積社)。千代國一や村松英一をはじめ「国民文学」の未知の歌人のよい歌を紹介している。

  穏やかにこの健太郎がうかびつつ流れゆく見ゆ南無阿弥陀仏
  
            井上健太郎歌集『烏そして街』より。  

権力と富とが奪ひ去りしあとの塵のごときをわづかに食へり

            大塚泰治歌集『恵我野』より。

〇 菊池孝彦歌集『星霜』。高瀬一誌を師と仰いだ人らしい作品が見える。

  非常口開けて出づればなんとせう「外界」がそらつとぼけてゐたり
                              菊池孝彦

 ラカン派の精神科医だということは、「短歌人」の記念会に出なければ知らないままだっただろう。顔を見に行ってよかった。

〇 池澤夏樹『バビロンに行きて歌え』(新潮文庫平成五年刊)。以前読んだらしいのだが、まったく記憶がない。たしかに自分のものらしい栞がはさんでるページがあった。

「誰も人がいない世界で歌われる歌に共感できる者とできない者がいる。大波の中に身を隠してでも、その声を避けたいと思う者がいる。人のいない世界から聞こえてくる声に陶酔する者と、その声の聞こえないところまでひたすら走る者がいる。」

 この歌を歌っている小説の主人公は、レバノンから国外脱出して来たアラブ人の元コマンドだ。それに対して、私が日々接している文学、俳諧や和歌は、人恋しい世界だ。

坂を登る夢

2016年06月09日 | 日記
転居した知人に手紙を出したいのだが、名簿も住所録もどこかにもぐってしまっていて見当たらない。弱ったな、と思ううちに日はどんどん過ぎて行ってしまい、そのせいか知らないが、こんな夢を見た。

私は車を運転していて、ずいぶん急な坂だなと思いながら懸命にアクセルを踏んでいる。坂はどんどん急になっていって、これは駄目かもしれない、どうしよう、と思ったところで目が覚めた。加えてその坂には、どんぐりのようなものがいっぱい落ちていて、それを踏みつぶしながら上がっていくのであるが、初めのうちはずるずるすべる感じがあった。

 私の夢のなかの車道には、さまざまなバリエーションがあって、ぜんぜん見覚えのない道の場合もあるし、幼い頃に親しんだ親戚の家の裏山の坂が原型になっている場合もある。たいていあまり人はいなくて、一人で道を歩いていることが多いようだ。

 というわけで、これが手紙の返事が遅い言い訳になるかどうかわからないけれども、気にしてはいるのです。だいたい私は自分のうまくない手紙の字をみるのがいやで、メールの返事はするけれども、手紙に関しては筆不精と言っていいのである。世の中には、メールの返事が一週間ぐらい来ないという人もいて、パソコンのメールだと三日も開かないことは私もあるから、仕事以外の私的な場面では、そういう反応の遅さは許されてもいいのではないかと私は思っているのだが、通常はなかなかそうもいかないようだ。三時半に目が覚めてこれを書き始めて、合間にメールの返事を一通出した。少し頭痛がするので、もう一度寝る。

 



モームの新訳から思い出話 

2016年01月19日 | 日記
 最近はサマセット・モームの小説の新訳が、文庫本で出ている。私はかれこれ四十年も前のことになるが、高校二年の時に文芸部の「群季」という雑誌に、モームの小説のおもしろさについて書いた文章を投稿して載せたことがあるから、自分にとってはなじみの深い小説家なのだ。紺色とモスグリーンの印象的な表紙デザインで新潮文庫からたくさん本が出ていた。家の本棚に父が古書店で売却しなかった河出書房の世界文学全集のモームの巻が残されていて、それには『劇場』と『月と六ペンス』が収録されていた。ヘッセの『知と愛』などもあった。いずれも官能的な描写が、中学生にはひどく刺激的だった。別にそういう描写の部分だけ読んでいたわけではないが、未知の性の香りがする文章に酔った。
 同じ頃に川端康成の文庫本はほぼ全部読破して、『禽獣』や『みずうみ』や『眠れる美女』のような、変なものをみんな読んでしまっていた。高校に入る頃に小学館の『GORO』という雑誌が出て、篠山紀信の「激写」シリーズが始まっていた、と言えば同世代の男性諸君にはわかるだろう。赤瀬川原平の絵が毎号ページの真ん中に載っていた。文学系の女子は倉橋由美子や辻邦夫を読んでいた時代だと思う。それは私も多少は読んだけれども、あまり趣味に合わなかった。高校三年の時に、白水社の「小説のシュルレアリスム」のシリーズが出始めて、唐十郎が「月下の一群」などという雑誌を創刊した。文庫本で「全集戦後の詩」が確か五巻本で出て、それも何冊か買った。その中の渋澤孝輔の詩にいかれた。受験勉強のかたわら幻想小説を書いていた。志望していた法学部はみんな落ちて、ひとつだけおまけに受けた大学の文学部が受かっていたので、そこに入学した。おかげでいまの自分がいる。もっともいまだに語学は駄目である。あの時期に、もっとちゃんとやっておけば良かったと思うが、仕方がない。
 最近はどこも英語重視で、英語のできる学生の方が偏差値上位校に受かりやすいようだ。でも、私は作家の水村美苗の英語教育論の賛同者なので、英語は得意な人にまかせて、別の方面に得意なもののある人は、そっちに精力を集中した方が、社会全体としては生産的だと思う。負け惜しみのように聞こえるだろうから、この話はこれでやめる。さてそれで、そもそも何の話だったかというと、サマセット・モームの新訳が出たという話だった。モームはイギリスの作家だ。新訳は『渚にて』というタイトルだったかな。最近は読んでも本の名前をすぐに忘れてしまう。いま調べたら、『片隅の人生』(ちくま文庫)だった。モーム、魂の肩を揉まれるような気がする小説家だ、なんて駄洒落は、だめか。そう言えば、一昨年の十一月に出た岡井隆と曽野綾子の対談集『響き合う対話』のなかでモームの話をして、盛り上がっていた。曽野綾子は、モームが好きなのだそうだ。曽野綾子が、長い間アフリカで苦しんでいる人たちのために支援活動をして来たということを、私はこの本ではじめて知った。

※しばらく消してあったが、2018五月十二日に復活させた。

さいかち亭 ブログ開設

2015年12月28日 | 日記
 短歌についての文章を中心にしたブログを開設することにしました。

 昨年は二日おきに書いていました。同様なものを読みたいという読者
の要望があるので、ペースを三分の一ぐらいにして継続してみようと思
います。よろしくお願いします。