最初はSAH

2000.11にくも膜下出血(SAH)発症。無事後遺症もなく生還。今興味あること:脳のこと,教育のこと,テニスのこと

高遠 駒ヶ根 名古屋の旅(1)

2017-10-07 15:47:02 | Weblog
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高遠城祉

絵島囲み屋敷

絵島の間

中:保科正直(保科正之養父)、右:諏訪御料人の墓(建福寺)

高遠そば
10月3日~5日、高遠、駒ヶ根、名古屋を旅行してきました。
先週末、秋晴れが続き、天気は悪くなりそうな予報だったので、
期待せずに出発しました。

3日朝、東京はまだ、雨がぱらぱらしていました。
でも、中央高速に乗るとどんどん天気がよくなり、
諏訪インターで下りて、高遠に着く頃にはすっかりいい天気になりました。

高遠は桜で有名ですが、歴史的に面白いところなので、
一度行ってみたいと思っていました。

この地は、古くから諏訪氏の勢力下でした。
しかし、戦国時代になり、武田信玄が強力になり、その旗下に属することになります。
信玄は諏訪氏の娘、諏訪御料人を側室にして、勝頼を生ませます。

勝頼は最初、諏訪勝頼と名乗って、高遠城に入っていたこともあります。
諏訪御料人は勝頼を産んで、わずか25歳で亡くなってしまうので、
勝頼は、高遠に母を葬ったと言われています(?)

その後、武田信玄が没して、高遠(仁科守信:勝頼弟が守っていた)に織田信忠軍が攻め入って高遠城は落とされ、
武田氏を継いでいた勝頼が自害して武田氏は滅亡。

ところがその後、またすぐに本能寺の変で織田信長、信忠が殺されて、この地は家康が支配します。

家康支配下になり家康に近かった保科氏が入ります。
保科氏は、二代将軍秀忠のただ一人の隠し子を養子にします(保科正之)。
秀忠、江の死後、三代将軍家光の計らいで保科氏は山形、会津へと大栄転。

その後、高遠城には関ヶ原前哨戦、伏見城の戦いにおいて、家康の命で、
血天井になるほど、猛烈に戦い、果てた鳥居元忠の孫、鳥居忠春が入りますが、
悪政のため、二代で所領没収改易。

さらにその後は、秀吉天下統一後、家康の江戸入りの際、先陣を務め、
関東八州庶務奉行から老中にまで出世しながら、
鷹狩りの何かで家康の怒りを買い、
閑職に追いやられた内藤新宿の内藤清成の子孫の内藤清枚が藩主に成り、
明治の時代まで藩主でいたということです。

内藤家が藩主の時代に絵島生島事件が大奥で起こり、老女頭絵島はこの地に流され、
30年もの年月を、狭い牢のある絵島屋敷で送り、没したそうです。

高遠で、大根のおろし汁に味噌を溶かしたたれで食べる「高遠そば」を食した後、
駒ヶ根にある、伊那食品の「かんてんぱぱガーデン」に行きました。

栗や紅葉生麩やサツマイモチップの入った秋風クリームあんみつを食べました。
紅葉も少し色づいています。

そして、1日目の宿、駒ヶ根リンクスリゾートホテル到着。

高原のきれいな空気を胸一杯吸い込みました。
コメント
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