星を見ていた。

思っていることを、言葉にするのはむずかしい・・・。
良かったら読んでいってください。

シャンプー

2007-02-04 01:52:50 | 読みきり
 僕がこの床屋に通うようになってから、もうかれこれ数年が経つ。いやここは、床屋ではなくて、ヘアサロンとでも言うのだろうか。髭は剃ってくれないし、普通に女の客も来るのだから、美容院と言うのだろう。最初ここに来たのは、別れた妻と結婚した当初のことだった。彼女がもともとこの美容院に通っていた。僕はいつも、髪を整え綺麗になった彼女を、車で迎えに来ていた。店の前の駐車場で、彼女が髪を切ったりパーマをかけ終わったりするのを待っていた。ガラスの扉の向こうから、店員に見送られた彼女が出てきて、それをバックミラー越しに確認すると、僕は一瞬、どきっとさせられるのだった。彼女はいつも、大胆に髪型を変えた。僕のイメージにある彼女と、ちょっと違う彼女がいつも出てきた。彼女は助手席に乗り、僕は平静を装って、静かに車をスタートさせる。ややしばらく経って、彼女は、どう、と髪の毛に軽く手を当てながら、訊ねる。いいんじゃないか、と僕はひとこと答える。けれど正直少し似合わないと思うときもある。しかし彼女は、男の好みに合わせて髪型を変えるタイプの、女ではないのだ。だから僕は、いつもそんな曖昧な返事をする。

 僕が彼女と初めて会ったとき、彼女の髪はすごく短くて、僕は瞬時に、ジーン・セバークを思い出した。すこし癖のある、真っ黒ではないが濃い茶色の、耳が見える程短い髪は、それだけでとてもセンスのいい女の子に見えた。耳には小さな、プラチナのピアスが光っていた。後で聞いて分かることだが、彼女は僕と出会う直前、男に振られ、それでそれまであった長い髪を、ばっさりと切ったばかりだったのだ。そんなことを僕は、随分と後になってから、そのヘアサロンの店長から、聞いた。

 初めて彼女がその美容院にやって来た時、彼女の髪の毛は肩よりもうんと長かったそうだ。やや癖がある柔らかい彼女の髪は、緩やかなパーマを掛けたような感じだった。小さな顔に、そのふわふわとした感じは、とてもよく似合っていただろう。僕には容易に、想像がつく。店に入って店長が「どうしましょうか。」と訊ねると、即答で「すごく短くしてください。」と彼女はきっぱりと言った。あまりにも表情が固く、話し掛けるタイミングを見出せなかった店長は、無言でハサミを動かし続けた。静かな音楽の流れる店内に、ハサミを動かす音だけが、妙に大きく響いた。ミラー越しに長さの確認をしながら、店長がカットを続けていると、彼女の瞳から、涙が、はらはらと落ちてきた。そんな客を過去にも何人か知っている店長は、その光景がまったく目に入っていないかのように、散髪の作業を続けた。彼女は、落ちてくる涙を拭いもせず、焦点をどこか遠くに合わせたまま、微動だにしなかった。
 
 カットが終わり、シャンプーも終わると、彼女はまるで、さっき涙を流した人物とは別の人のように、鏡の前に座っていた。泣いた後の瞼は少し腫れ、瞳は潤んでいた。そのせいでもともと大きい瞳が、他の顔のパーツよりも余計に目だって見えた。彼女は鏡に映った店長に向かって、にっこりと微笑み、ああ、すっきりした、とひとこと言った。
「いかがですか。随分と雰囲気変わりましたね。お似合いですよ。」
 店長は、やっと会話の糸口を見つけたとばかりに、声を掛けた。
「実はわたし、きのう彼に振られてしまったんです。それで、それで気分をさっぱりさせるために、髪を切ってやろうと思って、ここに来たんです。」
 店長は穏やかな笑みを続けながら、「そうですか。」と静かに答えた。そう言うしかないように思われた。
「すごくすっきりした。本当に、どうもありがとう。」
言いながら彼女は、自分で髪の毛の感触を確認するように、耳の上の辺りの、今までとはだいぶ長さの違う髪を、手ですくって見せた。
「シャンプーも楽ですよ。ピアスもよく映えますね。」
「そうですか。」「本当にすっきりしたわ。」
 満足そうな顔で、彼女は席を立った。それからずっと、彼女はこの店に通っている。

「こんにちは。」
 僕が店のガラス戸を開けると、アシスタントの女の子が静かに声を掛けてきた。店の道路側は一面ガラスになっていて、中の様子は丸見えだった。そして中からは、店にやって来る客がよく見える。彼女は少し遠くから、僕のことに気がついて微笑んでいた。
「今日はどうなさいますか?」
 店の会員カードと、上着を受け取りながら彼女は言う。店長は他の客のカットをしていた。
「いつもので。」
 バーで飲み物を注文するように、僕は答える。彼女は上着をハンガーに掛けると、洗髪台の方へ僕を誘導する。彼女の後ろを歩きながら、僕は彼女の、うなじの辺りを見ている。

 洗髪台に腰掛けて、椅子の動きに沿ってゆっくり仰向けになると、体の力が少し抜けるような感覚がした。アシスタントの彼女が、戸棚から薄いガーゼのハンカチを出して、顔に掛ける。ガーゼが顔にかかる間の数秒だけ、少し緊張する。ガーゼの下で目を瞑りながら、シャワーから出る水音を心地よく感じ、僕は眠ってしまいそうになる。
彼女は丁寧に、僕の髪の毛を洗う。今まで色々な床屋で、髪を洗ってもらったことがあるけれど、彼女のように洗う人はいなかった。あくまでも優しく、そっと地肌を刺激する。彼女に洗髪してもらうようになってから、女性がエステなどに行ってやみつきになる気持が、わからなくもないと思ったりするのだった。僕は半分眠っているかのような感覚になる。

 洗髪が終わり椅子が元に戻されると、僕は少し正気に戻る。
「お疲れ様でした。」
 言いながら彼女は、タオルで僕の髪の毛を、そっと拭く。それから、「こちらへどうぞ。」と言って、カットの台の左の席へ座るよう、僕を促す。
僕が椅子に座ると、彼女はカットの道具を、用意し始める。僕は椅子の周りを行ったりきたりする彼女の様子を、何気ない様子で眺めていた。彼女はなんというか、美容師という感じがしない。いや、若い、まだ見習いの美容師、という感じがしない。最近の若い女はみな痩せていて、僕の好みから言ったら、異様な痩せようだけれど、彼女は多分、今の若い子の平均的な基準から言ったら、大分ふっくらしている。いや、ふっくらと言うよりは太っていると言ったほうがいいだろう。美容業界という、ファッションセンスを問われ、常に流行の最先端を意識しなければならない業界であると思うのに、彼女はそういった、私は美容業界なんです、と言いたげな、肩肘張ったぎすぎすとしたような感じが、まったく感じられない。美容師であるのに、ちっとも荒れていない、彼女の指先を見ながらそう思う。ふっくらとした手の甲は、間接にくぼみがあって、昔あったキューピー人形を思い出す。かといってセンスがまったく無さそうという訳でもないと思う。僕は若い女の子の流行なんて、よく分からないが、動きやすいパンツ姿で、足元も常にスニーカーという出で立ちだけれど、なんとなくお洒落な感じがする。突飛な格好をしている訳でなく、なんてことない格好なのだけれども、彼女の周りからは清潔感が漂っている。髪の毛は、とんでもない色に染めている訳でも、前衛的なカットをしている訳でもない。つやのある茶色の髪を、うしろに束ねていたり、上だけ結んでいたりする。何気ない、という言葉がぴったりくるような気がする。彼女の髪は誰が切るのだろう。美容師同士で練習の為に切ったりするのだろうか。でも、この店には、店長と彼女の、ふたりしかいない。美容師は自分で自分の髪の毛を切れるものなのだろうか。

 彼女が「お願いします。」と言うと、店長がやってくる。
「いつものようにで、いいんですよね。」
「はい。お願いします。」
 店長は時々ミラーを見ながら、僕の髪をカットしだす。営業トークを、あまりしない。最初の頃は、少々こちらの出方をうかがっていたような感じがあったが、僕があまり世間話にのってこないのを理解すると、最小限の確認事項しか話しかけてこなくなった。けれども僕がなにかの話に反応すると、少しその話題について会話をやりとりするときもある。アシスタントの彼女もだけれども、この店のふたりは、ちょうどいい感じで僕を放っておいてくれる。そこに好感が持てる。

 あっという間にカットが終了する。やや頭が、軽くなった感じがする。彼女にもう一度、シャンプー台に案内される。「どうぞこちらへ。」
僕はやっぱり、前に立っている彼女の、肉付きのいいウエストのあたりをぼんやりと見ている。別れた妻のウエストを思い出し、もしかしたら2倍近くあるのではないかと、ふと思う。2倍はありすぎだろうが、両手で腰をつかむと、それで終わってしまうくらいな感じの元妻のウエストとは、かなり違うな、と思う。
先ほどの洗髪と違って、カットしたあとのシャンプーは、あっという間に終了する。もう一度カットの席に戻り、今度は彼女が、僕にドライヤーを当てる。
「今日はお休みなんですか。」
 鏡に映った僕に向かって、彼女が話し掛ける。彼女の二重になった顎を見ながら、「そうだね。」と一言答える。妻と別れた直後、僕がカットをしにここへ来たとき、同じ質問を彼女がしたことがあった。僕が同じように、そうだね、と答えると、じゃあこれから奥様とどこかへお出かけですか、と彼女は聞いてきた。「妻とはこの間、離婚したんだ。」僕がそう言うと、彼女はそれ以上何も言わなくなった。妻と僕の私的なことは、何も美容師に言うことではないだろうけれど、いちいちその後の質問を、はぐらかしたり嘘を言ったりするのが、面倒なだけだったのだ。僕は土曜や日曜には、絶対にここに来ない。彼女の休みである週末は、万が一鉢合わせするかもしれないから、やめておく。幸い僕は、平日休みが多いので、こうして普通の日の昼間に、ここにやってくる。

 鏡に映った自分の髪形を見ていると、彼女と視線がぶつかる。ほとんど笑っていないように、彼女は少しだけ微笑する。洗髪と同じような丁寧さで、彼女はあくまでも優しく、僕の髪をブローする。僕も、ほとんど分からないくらいの微笑をして、また視線をどこかに逸らす。


********


 この間髪を切ってから、2ヶ月近くが経っている。だいたい一ヶ月に一度散発しているのだが、このところ仕事が忙しく、休みがとれなかったのだ。会社の帰り、駅前からバスに乗ると、いつものヘアサロンの前を通る。たった二人でやっているこの店は、7時を過ぎると閉まっていることもある。信号が赤になると、バスはちょうど店の前に止まった。今日はまだ店は閉まっておらず、ガラス張りの店内は、蛍光灯の明かりが煌煌としていた。店長は、おそらく今日最後の客を前に、ドライヤーをあてていた。彼女の姿は見えない。信号が青になり、バスが発車しようとするとき、ふとガラスに張ってある張り紙が目についた。スタッフ募集中。詳細は店長まで。僕はよく見えるはずの店内に、彼女の姿をもう一度探した。バスが動き出した。彼女はやはり、見えなかった。今度休みが取れたら、髪を切りに行こうと思う。だがなんとなく、彼女はいないような気がする。あの店に、アシスタントは二人もいらないだろうから。僕はそんなことを思いながら、バスの外に目を向けた。

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