東インド会社は、ジャワの経営が赤字であることが明らかになると、再びオランダに返還した。1818年、ラッフルズはスマトラにあったイギリス東インド会社の植民地ベンクレーンに準知事として赴任。
彼の次なる使命は、ジャワの代わりとなる新たな拠点を作ることであった。
ペナン~マラッカにつながる貿易港として、マラッカ海峡の東の入口付近、マレー半島先端にある一群の島を探索していたラッフルズは、当時無名に近い漁村、シンガポール島に目をつけ、すぐにシンガポールへ向かった。
1819年1月29日、シンガポール川の河口付近にある‘カンポン’という小さな集落に上陸した(画像左上の川がシンガポール川。現在この上陸地点にはラッフルズの銅像が立っている)。
彼は、当時この地を支配するジョホール・リアウ王国の後継者争いを巧みに利用し、1819年2月6日、なかば強引に条約を結び、シンガポール島の一部をイギリス領とすることに成功、1824年には英蘭協約を結び、シンガポール全島がイギリスの植民地となった。
ラッフルズは、シンガポールを自由貿易港にすることを宣言し、奴隷貿易の廃止、賭博、阿片の一掃など、理想の港町を目指した。
シンガポールの初代駐在官に、ラッフルズと共に上陸した、ウィリアム・ファークアールを任命し、彼はシンガポールを離れた。
シンガポールを支配下に置いたイギリスは、1826年にペナン、ムラカ、シンガポールの3都市を合わせて海峡植民地とし、1832年にシンガポールは首都となる。
ラッフルズの名は現代のシンガポールでも、道路の名前やラッフルズ・プレイスなどの地名、ホテルの名前などあちこちで見ることができる。