ラッフルズが、1819年にシンガポールをジョホール.リアウ王国(現マレーシア)から譲り受けたとき、シンガポールは「ライオンの町」(マレー語の発音スィンガプラは、この地原産のネコの種類名シンガプーラの由来となっている)と呼ばれる、漁民200人ほどが住む島であった。
ラッフルズが上陸してからのこの島の開発発展はめざましく、港や都市が整備され貿易中継地点として急速に発展していく。 労働を求めて中国の広東、福建かから、また当時インドの植民地下におかれていたインド人たちが移民し、多民族国家としてますます繁栄していった。
1941年、太平洋戦争が勃発。日本が参戦を決めると、イギリスのアジアにおける拠点であるシンガポールは日本軍によって攻められ、1942年2月15日、日本軍によって占領されたシンガポールは、「昭南島」と名付けられた。
日本軍による軍国主義政策のもと、日本語教育などされ、マレー人、インド人を優遇したため、中国人たちの間で反発が広がっていった。
そのため日本軍は中国人を反日分子として拘束、拷問などを行い中国系住民を殺害し、その犠牲者は、現地では4万人から5万人ともいわれている。