Tenkuu Cafe - a view from above

ようこそ『天空の喫茶室』へ。

-空から見るからこそ見えてくるものがある-

晩秋の北海道を飛ぶ (18) - 根釧台地

2009-11-21 | 北海道
1871(明治4)年、ホーレス・ケプロン(Horace Capron)は当時アメリカの農務局総裁で70歳近い高齢だったが、開拓使次官の黒田清隆に乞われ、政府の大臣以上という高給で迎えられた。3年10ヶ月在日し、北海道の開拓政策に大きな影響を与えた。平野部の広大な森林地帯の開拓にあたっては、大規模な防風林を残すという方針を示したのは、ケプロンである。

ケプロンの防風林設置の方針に基づき、明治29年には「殖民地選定及び区画施設規程」が公布され、農地の区画は1戸分は5ha(180m×270m)であること、この区画に合わせて180m幅の防風林を3240mごとに設置することが定められた。これによって根室・釧路・十勝・北見地方では、大規模な防風林が網目状に配置されることになる。

根釧地方では、1914(大正3)年に帯広営林局が標津事業区でトドマツを植栽したのに始まり、大正末期から昭和初期にかけて格子状防風林の造林が本格的に着手された。

1933(昭和8)年1月、現中標津町の養老牛尋常小学校と開陽尋常小学校の児童六人が猛吹雪に襲われて凍死するという痛ましい事故が起こった。下校途中、危険を感じて学校へ引き返したが、学校の玄関前で力尽きて息絶えた児童や自宅にたどり着きながら積雪のため家には入れずに死亡した児童、吹雪の中で妹を自分のマントにくるんで温めて救い、自分は凍死した小学4年生の女児などのエピソードが町史に書き残されている。

一方、戦後復興期に農地を拡大するために、防風林の伐採が北海道で相次いだ。
根釧台地の防風林は、厳しい気候から農作物を守る効果や、吹雪のときに進行の目印になるといった価値が見出されていたために、農地拡大の対象にならずに形状が残った。
他の開拓地域では、農地の拡大や「日陰の発生による作物への影響や土壌凍結層の融解の遅れ」「耕地内への根の進入」等の農業にとってのマイナス要因が取り沙汰されて伐採が進み、縮小や消滅する防風林が相次いだ。

中標津の防風林は、農業や生活に必要不可欠な存在であったことが、現在の形状を留めている要因となっている。




最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。