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晩秋の北海道を飛ぶ (44) - 稚内市

2009-12-18 | 北海道

「成功の形たゝぬうちは死を誓って帰るまじ。若し難行の節は、我一人たりとも蝦夷地にに残り、夷地の土となるか、夷人となるであろう。再会期しがたし。」(『山崎半蔵日記』より)

今から200年前のある日、男は友人にこう言い残し、小さな帆船で樺太を目指した。

決死の覚悟で海に出た男の名は、間宮林蔵。

目に涙を浮かべた友人は、津軽藩士宗谷詰所に勤務していた山崎半蔵。

文化5年(1808年)、幕府は間宮林蔵と松田伝十郎の2人に樺太探検を命じた。
文化5年4月13日、林蔵は伊能忠敬から譲られた測量用の羅針盤を手に、伝十郎とともに宗谷から出発した。

このときは北緯52度近くのラッカまで行き、樺太は島であると判断したが、過酷な自然を前にそれ以上北上して確認してくることはできなかった。

やむなく宗谷に戻った林蔵は、幕府より"樺太東岸の奥を見極めよ"と申し渡され、同年の7月13日、単独でアイヌ船に乗り込み、宗谷の地を再び後にした。この時、彼は郷里(筑波郡上平柳村・現つくばみらい市)から持ってきた墓石を海岸に建てて探検への覚悟の程を示したという。

林蔵は厳しい寒さに耐え、文化6年5月、ヨーロッパ人がいまだ調査をしたことのない水域を突破し、樺太北端に近いナニオー(現在のプロワ)に到達し、樺太が島であること、つまり「間宮海峡」を発見した。
林蔵29歳であった。

後に、シーボルトによって「Str. Mamia seto 1808(間宮之瀬戸)」と紹介され、世界地図に唯一日本人名が刻まれることになる。



稚内および宗谷は、北海道がまだ蝦夷と呼ばれていた時代から、海峡・国境のまちとしての特異な歴史を有していた。北方警備の要衝地であり、同時に蝦夷以北を探る出発の地でもあった。

後、稚内は樺太(サハリン)との貿易拠点として栄えてきた。ノシャップと宗谷という2つの岬に囲まれて、稚内湾が北に向かって口を開けている。

稚内とはアイヌ語のヤムワッカナイ(yamwakkanay)からきており、「冷たい水の流れる沢」という意味。


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