ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

必要不可欠

2013-03-19 21:23:11 | Weblog
ありがとうという気持ちをこめて。

お父さんの命日が過ぎたら、何だかスッキリした。

ここ数日、高校時代に好きだった曲を聞くことが増え、
なんとまあ、かわいげのない女子高生だったことよ、と思いながら、
あの頃の、はやく大人になりたくてしょうがなかった気持ちを思い出した。

そう思うと、結構納得することがって、
むかし好きだったアニメや小説では、
ほとんどの場合が、否応なく大人の役割を背負う子どもが主人公だった。
ただ、主人公のことは、そんなに好きではない事が多く、
例えばガンダムの場合では、アムロはどちらかというと「ふん!」という気分で、
もっと前に大人になってたシャアのほうが好きだった。

ということで「萌え」には行かないし、
「大人だけど、かわいい」も全然ツボじゃないことに、改めて納得した。

朝からすごくスッキリした気分だったので、
今日は皮のジャケットに、スカートとブーツで会社に行ってやることにした。
案の定、会社に着くと、同僚の中国人から「す、か、あ、と、だ~っ!!!」という
中国語でのツッコミが入り、「これ、皮~???」と、なでなでされた。

日本から持ってきた、ちょっと「いいもの」を身につけていると、
どうやら同僚たちも、私が日本人だと気づくみたいだった。

どうも朝から7月という言葉が頭の中をまわる。
なんとなくだけど、7月頃には中国から退散させられるから、
そろそろ日本に復帰する準備をせよ、と、誰かに言われているような気がする。

だから、日本の服を着ることにしよう。
体型と所作を日本仕様に戻さないと、帰国してから困る。

でも、春だからだと思うけど、このところ日本では通り魔が多く、
私が思っている以上に、日本がおかしくなっているのではないか、という気がする。
帰っても居場所、なさそうだよなあ。

ただ、7月に退散になったら、日本じゃなくても西側諸国に行くことになるだろうし、
そしたら中国的な、肘で他人を押しのけるような「自己主張」ではなく、
「個性の表現」をしっかりとする国に行くわけだから、
洋服なんかも、そろそろ、ちゃんと選ばないとなあ。

坂口安吾の『オモチャ箱』を読んだ。
ある程度の不自由やプレッシャーがないと、いいものも生まれないという。
私にとっての必要不可欠なプレッシャーは、家庭なのかもしれない。
あまりにも重くて、ずっと逃げてきたけど。

7年

2013-03-18 23:25:57 | Weblog
昨晩遅く、時計を見てギョッとした。
そうだ。3月18日は父の命日だった。

7年前のあの夜も、気持ちがソワソワして寝付かれず、
ようやくウトウトした明け方、電話ですぐに起こされた。
あの日のように、寝付けなかった昨日。
7年前にそれから起きた事を思い出して、闇が無性に恐ろしくなった。

そんなことないと思っていたけど、
今日は一日中、日本の携帯電話を机の上に出していた。
7年前に使っていた携帯電話は、充電は切れたけれど、まだ日本の家に置いてある。
父からの着信履歴が消えてしまうのが悲しかったから、
あの後すぐに携帯電話を買い替えた。

もう7年か。
昨日まで会っていたような、もう何十年もずっと会っていないような。

今日は決してネガティブな気持ちにならないようにと思っていたのに、
会社から帰る間際に、中国人がやってくれたおかげで、怒ってしまった。

でもその前に、違う中国人の同僚たちが、
PILOTの消せるボールペンに大感激していた姿がかわいかったから、
まあ、プラマイ0という気分だな。
「わ~、すごい~」「間違っても消せるじゃん~」「上海でも売ってるの~?」

売ってます。
ぜひ買ってください。
日本ってすごいでしょう。

2013-03-17 14:32:46 | Weblog
少し前にベネズエラの大統領が亡くなったけど、
中南米の政治家が亡くなったり、政権交代のニュースに触れるたびに、いつも思う。

多くの国では、スペイン語が公用語とされ、
多くの人は、スペイン人と古くからその土地にいた人たちの混血。

小学生の頃、インカ帝国の歴史にハマって、
インカ帝国最後の皇帝アタワルパが話していたケチュア語はいったいどんなふうで、
当時のケチュア人はどんな人たちだったんだろう、と想像していた。

いまでもケチュア語はペルー等で公用語とされているけれど、
スペインと共存している間に、多くが変化しただろう。

私たちの使う日本語の中にも、たくさんの外来語がある。
そして中国語の中には、日本が戦前に使っていた名詞を
そのまま中国語として取り入れたものもある。

新しい文化に接した時、それを名を付けて、自分たちの一部とする。
言葉が、モノやコトに、ありかを与える。

日本がアメリカに負けたとき、米語を押し付けられなくてよかった。
中国では、少数民族の言葉がどんどん忘れられている。
忘れられるというよりも、使える場所が減り、生きるために使わなくなっている、というべきか。
そして500年も経つと、いまの中南米が公用語をスペイン語としているように、
共産党による一党独裁がくずれたあとも、
ユーラシアの東半分では中国語が公用語とされるのだろうか。
そのとき、日本語は残っているんだろうか。

でもきっと、クスコの建物の基礎やサクサイワマンの城壁がインカ時代の名残をとどめるように、
そこに息づく文化の土台として、名を失いかけながら遺されて行く。

私は、ある時まで、アメリカに反旗を翻す国なり勢力は「悪」と信じ込んでいた。
これには左翼教師も一役買っていたと思う部分があって、
彼らが戦前の日本を批判すればするほど、アメリカへの反抗は悪だという公式に
親和性をもってしまう。戦後教育のなかでは。

でも、中南米の政治家たちが、
自分たちの先祖が多くの血を流し、せっかく勝ち取った独立を守るために、
いま新たにアメリカに意見を述べるとき、
その意志をスペイン語で伝えるなんて、なんという悲しみだろうと思う。

母が元気で、私が高校生だった頃は、こんな話をよく2人でしていた。
当時、私に同世代の友人が少なかったのは、母との会話が楽しすぎたからだろう。
いまも、そんなに友人は多くないけど、行動範囲が広がったおかげで、かなり楽になった。

誇り

2013-03-17 01:20:10 | Weblog
たまにiTunes Storeなどをのぞきたくなり、
たまたま中国からのアクセスもよかったりすると、
これは罠だ!陰謀だ!と言いたくなる。

最近は、むかしのアルバムもどんどんダウンロード販売が始まっていて、
高校時代、つまり25年くらい前に好きだった曲に再開できたりする。

当時は、友人からCDを借りて、カセットテープにダビングしていたから、
すでに失われた音も多く、再開するとついつい購入してしまう。

クレジット決済できる魅力は強く、そして、手元から日本円が減っていくじゃないか。
本日の衝動買いはジョージ・マイケルのアルバム「Faith」(1987年)。
「Monkey」から「Kissing a Fool」という曲の繋がりが高校のとき大好きだった。

あの頃、英語を毎日勉強していたはずだけど、
今のほうが歌詞を聞き取れるのは、
毎日、中国語に接しているおかげで
外国語アンテナの感度がよくなったからなのだろう。

そして、今日のJリーグの結果を見ていたら、写真に釘付け。
横浜FMにドゥトラが復帰している!
私と生年が一緒だったはずだから、もう横浜FMに復帰することはないと思ってた。

若かったころ、歴史は一方通行で、未来に向かって進んで行くと思っていた。

でも今は、
むかしやったことをもう一度やったり、
やり残したことを取り返したり、
同じ失敗を繰り返したり、
幾重にも重なっていくのが歴史だと思えてきた。

そう。考古学と同じ。
土は幾重にも重なり、その上に今の生活がある。

サマルカンドに行ったときのことを思い出す。
いまのサマルカンドではなく、チンギス・ハンが攻めたサマルカンド。
芥子の花が咲き、ヤブ蚊が飛び、
土の下からは美しいタイルの破片が出てくる。
ゾロアスターの祭壇があって、
ソグド人を描いた壁画からは、遠く血がつながっているような気がする。

高校時代、日本はバブルだった。
そして大学を卒業するときバブルは終わっていた。
バブルにはバブルのよさがある。
あの頃の音楽や映画にふれるとそう思う。

無駄を抱え込めること。
それがなかったら、何も生まれない。
それを一握りの豪族ではなく、日本という社会全体でできたのなら、
これは世界に対して胸をはれること。

中国なんて、バブルの恩恵を受けている人は、ほんの一握り。
でも、日本は、日本という国全体でその気分を味わった。

これってすごいことだ。
バブルがあったことを誇りに思おう。
たとえそれを実感していなかったとしても、
実生活に還元された実感がなかったとしても、
そういった日本を、日本の歴史を、誇りに思おう。

やっぱり、日本ってすごいよ。

ローカルな散歩

2013-03-16 17:56:29 | Weblog
先日、中国人の同僚と刀削麺を食べに行った。
同僚が選んだのは、豚足トッピングのうどんだった。



すごくスレンダーな一児の母。
昼から豚足にかぶりつく。

かなわん。

今日は仕事の資料集めで、南京路から少し北側に散歩。
夜になるときんきらきんのネオンで有名で、年中、国内外の観光客でごった返す南京路も、
一本裏に入れば、そこは上海ローカル。
つまり、カオス。

とはいえ、トロリーバスのぶっとい電線を見ると「中国に来たな~」という気分になる。



郷愁というやつだ。
むかしトロリーバスだらけだったときは、こんなに空気が汚くなかった。

そして、むかしは自転車で集めにきたゴミ箱。



それにしても、すいぶんゴミ箱がカラフルだ。

ファミマは上海の街の一部になった。



そして南京路まで戻ってきた。
相変わらずの人ごみ。



子どもにそこらへんでトイレさせる親。
ぶっ飛ばしたくなる。

原状回復

2013-03-15 21:38:37 | Weblog
隣の会社が出て行った。
原状回復して。



おいおい。これが原状回復なのか。
は、廃墟じゃん。あり得ん。

私たちが普通に日本人してたら、日本人はみんなが雷鋒になってしまうよ。
なんでこうなんだろうなあ。中国人は。

昨晩は、友人の飲み会に飛び入り参加して、誕生日ケーキをご馳走してもらった。
みんな初対面なのに、やさしい。
上海で会う日本人は、変な人もたくさんいるけれど、
基本的には日本でのしがらみを離れ、1人の人間として付き合ってくれるのがいい。

そして、いい気分になると、上海の街が美しく見えてくる。



でも、うっかりしていると、足下をすくわれる。
気をつけて歩かないと。



なんだかいい色だ。

 

さて今日は祖父の命日だ。

祖父は、私の誕生日が過ぎるのを待っていてくれたんだなあ。

プレゼント

2013-03-15 01:37:20 | Weblog
3月14日は私の誕生日で、いろんな人から、いろんなかたちのプレゼントをもらった。

一日前の昨日の夕方、中国人の同僚が「いま忙しい~?」と言いながら寄って来た。
いわく「来週のプレゼン資料の日本語がどうもおかしい気がする。見てくれない?」と。

パワポで40ページある資料だ。
当日までに用意すればいいか、と思っていたら、
けっこう笑ってしまう日本語が満載で、真面目にやりだすと時間がない。

今日の昼間、プレゼンする部署の中国人のリーダーが近くを通ったので、
「これ、たいへんだよ~。今度おごってよね~」と言ったら、
「あ~、来週、はじめて日本語でプレゼンするから~」とのこと。
配布資料ではなく、それをもとに中国人スタッフがプレゼンすることを知り、
プレゼン資料としての最低限のレベルと、そのスタッフがリハをする時間が必要だということを
初めて理解した。

結構、たいへんじゃん。

そこから気合いを入れて、中国語のプレゼン資料を読んで、
何を言いたいのかを理解した上で日本語を直し、
終業時間が少し過ぎたくらいの時間に、渡しに行った。

私「昨日までの資料は、日本語が上手な中国人スタッフがいるんだな、という資料だったけど、
 とりあえず、日本人がチェックしたんだな、という感じにしておいたから、安心して」
プレゼンする同僚「わかった~、ありがと~」
私「たぶん、日本人的な言い回しがたくさんあって、意味がわからないところがあるから、
 もし困ったらいつでも声をかけてね。
 私も1回しか見てないから完璧とは言えないけど,最低限の恥をかかないレベルはあると思う。
 これから一緒にもっとよくしていこう」

と言ったところで、私が「おごって」とおねだりした中国人のリーダーが口をはさんだ。
「あなたは、雷鋒を知ってるか?」と。
私が「ああ、有名な人でしょ」と言ったら、
彼は「あなたは雷鋒だよ」と言うので「褒め過ぎだよ」と言ったら、
「いや、本当だよ」と言ってくれた。

雷鋒は、Wikiによるとすごい人だ。
雷鋒(らいほう、1940年12月18日 - 1962年8月15日)は、中国人民解放軍における模範兵士とされる人物。
湖南省長沙出身。児童団や少年先鋒隊に入り活動。1957年には中国共産主義青年団に入り、
中国各地の農場や工場で作業するなどの奉仕活動を続けた。
1960年(1959年)、人民解放軍に入隊。輸送隊に配属された。
1962年8月15日、遼寧省撫順で殉職。
電柱を輸送中のトラックを立て直す作業中、頭を強く打ち死亡した。22歳であった。
死後、毛沢東などの共産党指導者の言葉を引用した日記が「発見」され、
彼は軍人の思想的モデルとして大きく取り上げられるようになった。
1963年3月5日に毛沢東によって、「向雷鋒同志学習(雷鋒同志に学ぼう)」運動が始められた。
このスローガンは文化大革命中、各種新聞や学校教科書で盛んに用いられ、
彼は模範兵士として、無私の象徴として偶像に祭り上げられた。
その後も今日に至るまで政府のキャンペーンで何度も用いられており、
3月5日は「雷鋒に学ぶ日」として学生たちが公園や街路などの掃除をする日となっている。
また出身地の長沙と殉職地の撫順では「雷鋒紀念館」が開設されている。

中国の若い人が、私のことを
日本人の私のことを、革命の模範兵士と同じと言ってくれるなんて。

もちろんお世辞なんだろうけど、
それでも、そうそう言わない褒め言葉だとも思う。

すごい1日だった。

上海マダム曰く

2013-03-12 23:00:12 | Weblog
今朝はバスの中で寺田寅彦の『学問の自由』を読んだ。
何でもいい自由にしろと言われるよりも、
ある程度は環境的にハンディがあるほうが学問としていい結果が出たり、
そうはいっても欧米では研究者に対して、研究の自由がもっと認められていたりと、
何十年も前の文章とは思われぬほど、いまの日本にも通じる話。

人間はそう簡単には変わらないと思う。
ということで、「今の若い者は」とか「10歳若いと話が通じない」と
私も言うようになってきたけれど、
興味の対象が若い人とは違ったとしても、
本質的な考え方や性格、美意識等は、100年ぐらいじゃそう変わるものじゃないと思ってる。

そうでも考えなきゃ、
日本人と中国人の、どうしようもない「違い」は言い表せないと思う。
人は、こんなにも親や社会の影響を受ける。
そして言語がもつ心。
中国人は、本質的に、うるさい。

でも、私が高校時代に日本で会った中国からの留学生たちは、
みんなすごく文化的で、もの静かだったんだけどなあ。

いま中国人の友人くんは、家族が手術を受けるためにてんてこ舞いなんだけど、
もしかして外省人のせいだからかと思い、
上海人に「なんでこんなに病院が不便なの。国は解決しないの?」と聞いたら、
すごい勢いで答えが返ってきた。

・上海の医療技術は世界でもトップクラスだから、上海人だけじゃなくて
 外省の人もたくさん押し寄せるので、常に病院には人が並んでる。
・国は医療の格差をなくすために、外省の人が上海で医療を受けた場合でも、
 故郷に帰ってから補助金が出るようにしちゃったから、みんな来ちゃう。
・地方の医療はまだ遅れてるから、進んでる上海に来たがるのはしょうがないし、
 上海はこのままトップを走るわけだから、永遠にこれは解決できない。

そして、こんなことも言っていた。
・うちの親戚の子どもは医者になったけれど、ほとんど家に帰れないし、
 患者は要求ばかりひどくて、心神喪失状態になる。
 中には暴力を振るわれる人もいる。(中国人の暴力は日本人の想像を超えている)
・医者や看護婦の離職率がものすごく高くて、常に人員不足。
・いま親は、子どもに医者になれとは言わない。あまりにも過酷だから。

で、
・上海人だって、外省人に混じって並ぶ。
 自分たちの土地なのに、他の土地の人たちと権利を分け合わなければならない。大変よ。
と、言う。

そこで、
「え、あなたも並ぶの? 病気になったり、年をとったりするの不安じゃない?」
と、聞いたら、
「あら、私はコネクションがあるから、そんなのは関係ないわ。
 電話一本で、並ばないでも一番に医療が受けられるわ」との返事。

さすが上海のマダムは言うことが違う。
ま、そういうことなんだよな。中国は。

電子書籍

2013-03-11 23:31:01 | Weblog
やはり便利だと思う。電子書籍。

日本の単行本はもちろん芸術品だと思うし、
コンパクトな文庫も、紙は柔らかくて手にすっぽりと収まるから大好きなんだけど、
上海の公共の場で広げて読んでいると、やはり目立つ。
いまは目立った反日の気配はないけれど、
どこにどんな人がいるかわからないし、覚えられたくないなと思う。
ということで、スマホにするっと入る電子書籍は、やっぱり便利だ。

少し回りくどいんだけど、
名探偵コナン劇場版 世紀末の魔術師(中国語字幕付き、海賊版)を見て、
→ ネットでニコライ2世について調べ、
→ 2年前に行ったサンクトペテルブルクで素晴らしいと思った血の上の救世主教会が
 皇帝一家が銃殺されたことがきっかけになって建立されたと知り、改めて写真を眺め、
→ さらにネットサーフィンをして、夢野久作が『死後の恋』を書いたと知り、
→ Amazonでkindle版を0円で購入し、
→ するりとダウンロードして、さくっと読めた。

夢野久作は『ドグラ・マグラ』しか読んだことがなかったけど、
『死後の恋』もなかなか面白かった。
夢野久作がこの作品を書いた頃は皇帝一家の遺体は見つかっていなかった。
義経のように、逃げ延びて生きてたらいいという気持ちと、
王女が生き延びても、そんなに簡単に生きては行けないだろうという
戦後を生きた人ならではの現実を見る目。

そして、一緒に『悪魔祈祷書』をタイトルから惹かれてダウンロード。
なんと、『悪魔祈祷書』の舞台は上海だった。
上海で古本屋か~、この設定、あこがれるなあ。

夢野久作の場合は、著作権が切れているので、0円で青空文庫版がダウンロードできる。
そうだ!と思って江戸川乱歩もダウンロードしようとしたけど、
まだ没後50年が経ってなかった。
ま、買えばいいんだけど、
せっかくだから、読もうと思って読まなかった本を0円で読んでみよう。
ということで、明日用に坂口安吾をいくつかダウンロードした。

ただ、家で読むならやはり紙がいい。
紙の手触りとめくるときの音、これに癒される。

3月10日

2013-03-10 23:57:20 | Weblog
これも私の世代が最後かもしれないと思う。

小さいとき、都心のほうに行くと、ターミナル駅に傷痍軍人さんたちがいて、
物乞いをしていた。
母は「本当に戦争で負傷した軍人さんなら、国が年金を払ってるはずだから、
きっと偽物も多いはず」と言っていたけど、
私はいつも傷痍軍人のそばを通るとき、何とも言えない熱さを感じた。

東京大空襲や広島・長崎の原爆のお話、
私にとっての戦争は、いつも灼熱地獄のイメージだった。

その後、南方戦線の話も聞いたり本で読んだりして、
それにジャングルの暑さが加わった。

私にはどうしても、日中戦争と太平洋戦争が別々のものに思えるのだけど、
それは昭和のあの同じ時にあったことなんだ。
中国で感じる日中戦争の記憶、
そして初めてパラオに行ったときに見た南洋の景色、
おなじ零戦が飛んだところなのに、あまりにも違った。

そして、戦争に行ったのは、私のおじいさんたちだった。
最も、私の祖父は、1人は学徒動員で実戦に入る前に終戦。
もう1人は「アカ」だったので監獄に入っていたらしく、
ついでに会ったこともないので、そういう意味では戦争はやはり遠い。

ただ、ひいおじいさんくらいになると、もう実感がわかないし、
それにおじいさん世代のもっていた、なんとも言えない凄みも、
今の日本人には持つことがない空気だろうと思う。
ほんの少し前のことなのに、物語の中でしか知らない記憶だ。

でも知りたいんだ。あの戦争のこと。
どうして、あんなに多くの人が死ななければならなかったのかを。
日本人は、教育程度も高いし、相手のことを慮るし、こんなにも素晴らしいのに、
組織を作ったとたんに、上に立つ人は驕り、戦略は思いつきになり、
ミスを恐れるばかりに決断は遅くなり、若い人が切り捨てられる。
この構造、まったく変わっていないような気がする。
しかも最近は、変な能力主義のせいで、またまたもっとおかしくなった気がする。

産業革命のあとの大量生と、第一次大戦の大量死のあと、
ヨーロッパは哲学的に大きくあがいたけれど、
日本は戦後の資本主義の発展も、欧米の「大量死」の流れとは
少し違うような気がする。

今日は、『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』(ジル・ドゥルーズ)の
下巻をようやく読み終わり、
その後、『永遠のゼロ』(百田尚樹著)を読んだ。
旧海軍パイロットのお話だ。

むかし「ゼロ戦」と言ったら、すごく目上の人に、「ゼロじゃない、零だ」と言われたっけ。
ついでに「太平洋戦争じゃなくて、大東亜戦争だ」とも。
あれは誰だったか・・・。

そして、3月10日は東京大空襲の日。
小学生の頃に焼夷弾が降ってくる映像をテレビで見た。
本当に怖かった。