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つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

続・湖国での夏2023。

2023年08月15日 22時22分22秒 | 旅行
                        
<前回投稿の続篇>

一夜明けた2023年8月14日の朝、僕は大津市から北へハンドルを切った。
目指すは、滋賀県の南東部に位置する「東近江市(ひがしおうみし)」。
「滋賀県平和祈念館」が目的地である。



ここにお邪魔するのは2度目。
前回は、周辺をドライブ中に偶然同施設の看板を見つけてやって来たが、
今回は、ちょうど終戦記念日間近のタイミングでもあり、
実に10年ぶりの再訪となった。

「滋賀県平和祈念館」の芽吹きは、ある男性の体験と思い。
1960年5月、日本遺族会の戦地巡拝行事に後の滋賀県知事が遺族の一人として参加。
彼の父は、中部太平洋方面に派兵され、戦死していた。
その時の立ち寄り先の一つ、沖縄戦最後の激戦地で住民や兵士が自決した洞穴を訪問。
数多くの遺骨が残り、頭蓋骨はまるでこちらをぐっと見据えているかのように感じ、
帰りの船上では、海の底から戦死者の叫びが聞こえてくるように思えたとか。
父亡き後の母の苦労、息子を失った祖父の悲しみを傍で見聞きしていた彼は、
1998年から2期務めた知事時代、
「戦時の様子を正確に伝え、平和を祈念し続ける拠点が必要」と訴えた。
折からの財政難もあり任期中に実現はしなかったが、後を継いだ首長が継承。
東近江市役所の旧支所を再利用することで2012年、開館にこぎつけた。



館内では滋賀県内自治体別の戦没者、軍事施設、学童集団疎開などをパネルで紹介。
戦争体験者49人が語る映像も上映されている。
様々な展示がなされていて、すべてを紹介することは叶わない。
以下にほんの一端を取り上げてみようと思う。



信楽焼の陶製地雷と手りゅう弾。
戦時中、信楽の製陶業は危機に瀕していた。
火鉢や置物などの民生品は「不要不急」とされ、生産が中止されたのである。
そこで産業存続のため、軍部に金属探知機に反応しない陶製地雷を進言。
これが採用され、戦争末期に製造を開始。
物資不足を反映した手りゅう弾用陶製容器も手掛け、
沖縄や硫黄島などの激戦地でも使用されたという。



灯火管制マニュアル。
戦時中の夜、空襲の目標にならないようにと屋内の光を外にもらさない灯火管制が敷かれた。
真下だけ明るく照らすように塗料を塗った電球を使ったり、
黒い布で電灯の周りを囲んだり、電灯カバーをかぶせたり、窓に黒いカーテンを引いたりした。
しかし、米軍機にとって何ら支障はなかった。
灯火管制で真っ暗な市街地は、レーダーで丸見え。
夜間の空襲で膨大な犠牲者が出ていることはご存じの通り。
灯火管制は「戦争参加意識(戦意高揚)の演出」に過ぎなかった。



赤紙(召集令状)複製。
徴兵検査の結果現役兵とならなかった人や、除隊後に予備役になっていた人など、
在郷軍人に召集をかける際に発行された。
郵送ではなく、役場の兵事係が直接家まで届けるのが習わし。
「召集令状をもってまいりました。おめでとうございます」
紋切り型の口上と共に差し出された書類の受け取り拒否は許されない。
「おお、俺にも来たか。待っていたぞ」と意気込んでみせる人。
「これで肩身の狭い思いをしないですむ」と言い目を赤く腫らした父親。
「ご苦労さまでした」と言ったきりじっと赤紙を見つめた新妻。
縦15センチ、横23センチの薄紅色をした質の悪い紙は、
無数の物哀しいドラマを内包している。

他にも充実した展示が並ぶ「滋賀県平和祈念館」は、何と観覧無料。
素晴らしい。
更に、企画展も行っている。
第33回のそれは「滋賀県民が見た中国の戦場」。

<中国との長期にわたる戦争では、滋賀県からも多くの方が召集されて戦場に赴きました。
 昭和初期、中国(当時の満洲国を含む)で戦死された滋賀県民は、7千人以上にのぼります。
 また、慰問などのために中国戦線を訪ねられた滋賀県民もおられます。
 今回の展示では、当時の中国やその周辺地域において、
 滋賀県民が体験した戦争に関する記憶を、
 当館が長年にわたり収集してきた関係者の体験談や関連資料などで紹介します。>
(※<   >内「滋賀県民が見た中国の戦場」紹介文)



中華国恥(こくち)掛図。
発行年が書かれていませんが1930年前後に中国で作られた地図と考えられます。
この当時、何種類もの国恥地図が発行されており、
欧米諸国や日本によって奪われた範囲を図示して、
国民教育に利用されたもののようです。
(※展示に添えた短いキャプションから引用)
北は満州全域~ロシア極東~樺太。
東は沖縄~南西諸島。
南は台湾~インドシナマレー半島~ボルネオ北部までをカバーしている。



満州国 国旗。
かつて現在の中国東北部にあった「満洲国」は、
戦前~戦中にかけ日本が莫大なカネと人を投じた政治的、経済的、軍事的な拠点。
その国旗は5つの色からなる。
黄色は満州の大地、王の仁徳。
赤は火と南方、熱情などの諸徳。
青は木と東方、青春・神聖を。
白は金と西方、平和・純真公儀を。
黒は水と北方、堅忍・不抜の諸徳を表す。
黄、紅、青、白、黒が、日・満・漢・朝・蒙の五族協和を象徴するという説もあり。
今回、初めて実物を目にした。

そして、初めて存在を知った過去の施設がある。
「八日市飛行場」だ。



大正3年(1914年)現・東近江市・沖野に日本初の民間飛行場が開設された。
大正11年(1922年)陸軍航空第三大隊が配備され軍用施設へ変貌を遂げ、
戦時中にも拡張が続き、終戦間際には特攻隊の中継基地として重要な役割を果たす。
八日市飛行場も米軍の爆撃を受けるようになると、
貴重な飛行機を守るためのシェルター「掩体壕(えんたいごう)」が築かれた。  
まだ、一部が残っているというではないか。
僕は現地へ向かった。



それは、旧八日市飛行場の南に位置する丘陵地、細い道沿いの藪の中ににあった。
立地が私有地のため、これ以上近付くことはできない。
やや離れた位置から観察し、シャッターを切った。
案内看板によると掩体の鉄筋は非常に少なく、コンクリートに沢山の石が混ざるなど、
物資不足の中で造られたことが分かる。
それは、当時の日本軍がいかに追い込まれていたかを示す無残なモノ。
同時に、それでも何とかしようとした先人達の努力の跡でもあるのだ。

ひっそり佇む出来損ないの施設は、僕の胸を打った。



--- さて、半日以上の観光を終え「びわこ競艇場」へ舞い戻る。
上空は前日(2023/08/13)とは打って変わり一面の厚い雲。
台風7号接近の影響だ。



主宰者は既に翌日の中止順延を発表。
帰りの道中を心配しながらもレース予想を楽しんだ。
まあまあ的中が多く、胸を撫で下ろす。
また、嬉しかったのはガラポン抽選。
この場での好物「ホルモンうどん」を食べたところ、抽選参加券を1枚もらう。
それを手に抽選機を回すと青い玉がポトリ。
景品は、現金3,000円。
いい旅の締めくくりになった。


                         
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湖国での夏2023。

2023年08月13日 23時41分41秒 | 旅行
                          
先日(2023/08/08)二十四節気の「立秋」を迎え、暦のうえでは秋が始まった。
暑さ厳しい中にも、そこはかとなく変化を感じる。
その一つが、暑熱が落ち着く夕暮れ時に雑木林などから聞こえてくる蜩(ひぐらし)の声。
二十四節気は元々大陸の季節カレンダー。
日本の実情に合わせ細分化した「七十二候(しちじゅうにこう)」に照らし合わせると、
今時分は「寒蝉鳴(ひぐらしなく)」と呼ぶ。
蜩は秋の季語でもある。

---とはいえ、日中は真夏の装い。
眩しい光の粒が地上で弾け一面に満ち溢れると、僕は見てみたくなる景色がある。



滋賀県・大津市「びわこ競艇場」にやって来た。
青い空、碧い水。
その奥に湧き立つ白い雲。
モーターが唸りをあげて疾走する競争水面の外には、
ヨットや、大津港を発着する遊覧船が行き交う。



日本最大の湖・琵琶湖を望むパノラマは、夏こそベストシーズン。
レース予想をしながらも、見惚れてしまったりすることもしばしば。
実に風光明媚と思っている。
そして競艇場周辺に見どころも多い。



琵琶湖西岸、比叡山延暦寺の門前町・坂本には、
戦国期の石工集団・穴太衆(あのうしゅう)が築いた石垣が残されている。
穴太衆による石垣は「石の声を聞け」という口伝に象徴されるように、
加工していない自然石を巧みに組み合わせる「穴太衆積み」(野面)が特徴。



城壁にも用いられたそれは、ゆうに4~500年の風雪に耐え、
今も美しい景観を作り出しているのだ。
技術の高さは推して知るべし。
特にコーナーの整理された美しさと堅固さは圧巻と考える。



石垣の他に大津市・坂本ならではの町並みをつくっている要素が、
点在する「里坊(さとぼう)」。
里坊は延暦寺の僧侶の隠居所だ。
その一つ「旧竹林院」にお邪魔した。







主屋の1階と2階に置かれた座卓で「リフレクション撮影」(※)を試みる。
(※水面やガラスなどの表面に反射した被写体を写すこと)
座卓にスマホを乗せ、カメラのシャッターを切っただけなのだが、
機材の性能と僕の撮影テクニックがお粗末なため、出来はよろしくない。
また夕方近くで日の差し込む時間帯も災いした。
正直、上手く撮る自信はないが、新緑の頃に再訪してリベンジしたいと考えている。

<次回へ続く>
                  
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夏、昭和の残照②

2023年08月06日 11時11分11秒 | これは昭和と言えるだろう。
                   
わが津幡町に「池ケ原(いけがはら)」と呼ばれる地域がある。
山懐に抱かれたそこは、僕の祖母と所縁が深い。



大正時代初期、池ケ原の近くに生まれ、東京で髪結いをしていた彼女は、
福島県出身の大工・祖父と結婚。
3人の子宝に恵まれた。
残念ながら長男と三男は若くして病没。
生き残った次男坊が、僕の父親である。

時は太平洋戦争真っ只中。
日本の敗色が濃くなるにつれ、帝都上空に銀翼を煌めかせた大型戦略爆撃機が飛来。
“超空の要塞”B29から降り注ぐ火の雨を避け、
一家は祖母の親戚筋が暮らす池ケ原へ身を寄せた。
戦後、そのまま津幡町に根を下ろし現在に至る。
つまり池ケ原は、僕個人にとっても馴染みの地。
子供の頃は、よく遊びに来ていた。

疎開先になった家は、雑木林に囲まれた農家。
広い土間を備えていて、一歩足を踏み入れると仄かに土の匂いがした。
裏には井戸があり、周りに地衣類が繁茂する池はいつも湿潤で、
アカハライモリやアカガエルが生息していた。
ユニークな両生類を観察したり、井戸で冷やした西瓜を食べたり、
灯りに引き寄せられてきた甲虫や蛾を捕まえたりして夏を過ごした。
母屋の外、離れの五右衛門風呂に浸かっていると聞こえてくるキジの鳴き声。
家の中からはネズミを追う飼い猫の物音もする。

--- 生家にはない「wonder」に満ちた池ケ原が大好きだった。

さて、この日訪れてみたのは「池ケ原分校」跡。
集落の峠の頂点に位置し、少し開けた敷地の奥には、かつて、小さな校舎が建っていた。
それはもう僕の記憶の中ににしかない過去の風景と知っていたが、
何か往時の面影を見つけることが出来たら幸いと思っていた。





今そこにあるのは「農事組合法人 池ケ原ファーム」の事務所と倉庫。
農薬・化学肥料を5割以下で育てる「特別栽培米」に取り組む団体である。
偶然、一日の作業を終えた関係者の方にお目にかかり、少し立ち話。
過疎化が進む池ケ原の存続を期して、日々汗を流していらっしゃるとの事。
手入れの行き届いた美しい棚田は、努力と思いの賜。
先月(2023/07)の大雨を乗り越え、やがて秋には美味しい新米が実る。
もしご興味があれば、ご購入くださいませ。
詳しくはこちらにメール、またはお電話でお問い合わせを





ハナシは「池ケ原分校」跡に戻る。
時間も78年前に遡る。

昭和20年8月2日未明。
後に僕の父親になる少年が、校舎横の松の木に登り息を呑んで彼方を凝視していた。
自分の真上は星が瞬く深い闇。
だが、真夜中を過ぎても、西の空は夕暮れの色のまま。
---「富山大空襲」である。
サイパンからやってきた174機のB29が、50万発を超える焼夷弾を投下。
市街地の殆ど全てを焼き尽くそうとしていた。
その燃え盛る炎が、池ケ原の山の稜線をくっきりと浮かび上がらせる。



爆音が奏でる悪魔の葬送曲が、彼の耳を打つ。
硬い松の表皮に爪を立てた手が、小刻みに震えていた。
                        
コメント (2)
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夏、昭和の残照①

2023年08月04日 21時00分00秒 | これは昭和と言えるだろう。
                         
少し以前のことになるが、北陸に例年より早い梅雨明け宣言が出た2日後。
2023年7月23日に、僕は石川県・野々市市(ののいちし)へ車を走らせた。
目的地は「にぎわいの里ののいち カミーノ」。
野々市市の公民館・市民活動センター・観光PR拠点などを併せた複合施設である。



ここで当日行われた「石川県民大学校」講座の一環、
「北陸満友会」の語り部を聴講した。

「北陸満友会」の概要は、同会会則を基に記すと以下の具合。

<東旧満州地区等からの引き揚げ者の経験を後世に引き継ぐ会>
<石川・富山・福井、北陸3県に在住している旧満州地区等からの引き揚げ者、
 その子・孫縁戚者及び関心ある研究者など、会の目的に賛同する人たちの組織>
<北陸以外、他県に在住している人でも希望により受け入れる>
<会費は徴収せず、必要経費は親睦会・募金等で賄う>
(※<   >内、会則より引用編集)

第二次大戦後、大陸から日本へ引き揚げてきた方々が中心となり、
手弁当で年間10回程度の語り部活動を行い、
創立から10年の間に80回近くを重ねてきた。
高齢化が進む中、反戦平和の願いを込め自身の体験を伝えようとマイクを握っている。



僕がその存在を知ったのはごく最近。
知り合いが「北陸満友会」に関わるようになり、
今回「演劇」を披露するから見に来ないかとお誘いを受け、初めて臨席した。

演目は「満州国に暮らした日本人少年のエピソード」。
同会会長の体験をモチーフに、引き揚げ者・研究者へのインタビュー、
各種資料を参照して構成した二人芝居。
演じるのは「野々市市民劇団 N劇」のメンバーである。





― 背景:「満洲国」について ―

位置:現在のロシアと国境を接する中国東北部。
面積:およそ130万平方キロメートル(日本の3倍強)。
首都:新京(現:吉林省・長春)。
民族:漢民族・満洲民族・蒙古民族・朝鮮民族・日本民族に加え、
   白系ロシア人やユダヤ人も居住していた。
言語:満洲語、モンゴル語、日本語、ロシア語。
皇帝:“ラストエンペラー”「愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)」。
建国:昭和7年(1932年)早春。
滅亡:昭和20年(1945年)晩夏。

明治維新以降、日本が莫大な血とカネを注ぎ込んできたそこには、
200万を超える数の邦人が在留していたが、敗戦によって消滅。
多くの悲劇を生んだのはご存じの通り。

さて、劇の主な舞台は旧満洲でも最北端となる街・黒河(こくが)。
世界8位の長さを誇る「黒龍江(アムール河)」沿いに開け、
対岸はソビエト連邦(当時)である。
物語は、南満州鉄道の鉄路を往く列車の音を効果的に織り交ぜながら進行してゆく。

主人公の少年の視点で---
平和だった頃の満州での暮らし、
他民族との交流と軋轢、
敗戦間際にソ連軍が侵攻してきた時の恐怖、
命からがら引き揚げ船に乗るまでの道中、
---などを、2人の役者が好演。



〽ここはお國を何百里 離れてとほき滿洲の 
 赤い夕日にてらされて 友は野末の石の下
 思へばかなし昨日まで 眞先かけて突進し 
 敵を散々懲らしたる 勇士はここに眠れるか

壇上の2人が力いっぱい腕を振りながらアカペラで軍歌「戦友」を唄うシーンは、
胸に迫るものがあった。
準備は大変だろうが、叶うなら続篇を期待したい。

北陸満友会(リンク)
                          
コメント (4)
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