「ついに、その時が来てしまったか」
今朝の訃報に接し、きっと多くのファンはそう思ったに違いない。
元プロレスラーで元参院議員の「アントニオ猪木(本名・猪木寛至)」氏が、
本日(2022/10/01)、都内の自宅で亡くなった。
79歳だった。
故人はおよそ2年前、難病に侵された事を公表して以降、
ご自身のyoutubeチャンネルで闘病の様子を発信してきた。
そこに映っていたのは「変わり果てた姿」だった。
かつて、眩いスポットライトと大歓声を浴びていた彼ではない。
かつて、全身からエゴイズムの妖気を発散して仁王立ちしていた彼ではない。
かつて、満場の観客全員を虜にした色気の塊のような彼ではない。
かつて、僕が憧れを抱いたギリシャ彫刻のような肉体ではない。
自力では歩くことすらできない「アントニオ猪木」の今が映っていた。
賛否両論はあったと思うが、僕は観ていた。
人生の一時期「英雄視」していた“燃える闘魂”が、
病魔と相対する姿から目を逸らす気にならなかったのだ。
その病み衰えた状態から、終わりは遠くない未来だろうと覚悟していた。
今日、ついにその時が来てしまった。
リングの巨人の一生は波乱万丈だ。
見方・捉え方によって「功」も「罪」も、「清」も「濁」もある。
ここで故人の歩みについて語るのは、控えたい。
既に、様々な報道がなされているから、そちらへ譲ろうと思う。
代わって、僕の些細な思い出を紹介したい。
僕が中学~高校生だった頃、
「新日本プロレスリング」が石川県に来るのは年に1回のみ。
夏巡業「サマーファイト・シリーズ」の一環だった。
会場は、金沢市の「卯辰山(うたつやま)相撲場」が主。
土俵を囲んですり鉢型の観客席があり、屋根や小さな照明も常設。
会場設営費が抑えられる利点があったから選ばれていたと推測する。
ある年の「金沢大会」を観に出かけた僕は、随分早く会場に着いてしまい、
相撲場の隅に座って、ひたすら試合開始のゴングを待っていた。
やがて機材を積んだトラックが到着し、リングの組み立てが始まった。
その工程を眺めていると、背後から声がかかった。
『アンちゃん、プロレス観に来たんか?』
声の主は、石川県出身のレスラー「永源遥(えいげん・はるか)」氏。
更に、こう続けた。
『ヒマなら、リング作るの手伝ってみるか』
異論などあるはずもない。
僕は、若手選手と一緒に嬉々としてリングに敷く板などを運んだ。
汗だくになったギャラはもらえなかったが、
「永源」氏は金銭以上の素晴らしいご褒美をくれた。
『社長、今日はこのアンちゃんに手伝ってもらいました』
『ああそう。キミ、ありがとう』
何と控室替わりのテントの中で「アントニオ猪木」氏と握手させてくれたのだ。
緊張し固まってしまった僕は、言葉が出ない。
目の前に差し出された彼の手を、ただ無言で握り返した。
掌は、大きくて、分厚くて、温かくて、意外と柔らかだった---。
結びに万感を込めてひと言。
「アントン、ありがとう。さようなら」
今頃 永源選手と再会している事でしょう。
年回りとは言え 昭和が徐々に遠のき 寂しい限りの昨今ですね。
はい、とても貴重な体験でした。
とてもいい思い出です。
コンプライアンスとやらにうるさい今では、
もう味わえないだろう意味でも、
遠のいた昭和を懐かしく感じます。
猪木さん、永源さんや馬場さんリキさん達と、
雲の上で楽しく過ごしていたらいいな。
そう思います。
では、また。
安全教育もぜずに現場でいきなり作業をさせて
万が一、怪我でもされた日には・・
考えただけでも恐ろしいです!!^^;
今では絶対あり得ない
本当に昭和の良き思い出ですね
羨ましい(*^^*)
昭和はユルかった。
今とは時代が違うエピソードですが、
あの頃は、似たハナシが沢山ありました。
良くも悪くも大らかですね。
ま、お陰で猪木さんと握手もできたし、
永源さんには感謝してます。
ある意味、ファンサービスと言えるかしれません。
では、また。
やせ衰えた姿をファンに見せれば、リングの英雄・アントニオ猪木のイメージを毀損することになるでしょう。でも、自力で歩くことさえできなくなっても、諦めることなく、病魔と闘い続ける姿をさらけ出すことこそ、真の闘魂だと僕は感動しました。素晴らしい生きざまだと思います。
では、また。
「アントニオ猪木 最後の闘魂チャンネル」は、
壮絶な生き様の記録でした。
ギラギラと眩しい全盛期を知るファンとしては、
見る度に余りの落差に胸が痛むこともしばしば。
おそらく彼が闘ってきた強敵たち---
規格外の大巨人や、ボクシング王者、
柔道金メダリスト、熊殺しの空手家ら以上の難敵。
完治する見込みの薄い病と知りながら、
立ち向かう姿には、ある種の「覚悟」が
表れていたように思います。
レスラーとしては引退していた猪木さんですが、
「闘う公人」としては死ぬまで現役だった。
そう考えています。
今投稿で描いた「握手の時の笑顔」が、
忘れられません。
小さくない喪失感と共に、昭和の終幕を実感。
寂しい限りです。
では、また。
当日会場にいた若者に声をかけ、手伝わせていた、
と聞いたことがあります。
やはり賃金などはなく、報酬として、
ポスターや入場テーマ曲のテープを渡したとか。
永源のスカウトとはいえ、リングの設営を経験し、
猪木にも会えたなんて、うらやましいです。
あと、石川県のプロレス会場といえば、
石川産業展示館が真っ先に頭に浮かぶのですが、
文中の卯辰山相撲場という会場でも、
過去にはブッチャーvsテリーのシングルなど、
ビッグマッチが実施されていたんですね。
最近のプロレスは興味がない私ですが、
燃える闘魂・アントニオ猪木の功績は、
今後も語り継ぎたいと思っております。合掌。
今投稿は1970年代末の思い出。
当時は「卯辰山」がメイン会場でした。
程なく「産展」へと移る直前の頃、
古いハナシです。
おっしゃる通り、
平成になってからもインディー団体などは、
興行後に場内MCで撤収ボランティアを
呼びかけていました。
報酬はTシャツやポスターだったと記憶してます。
ここ20年近くプロレス観戦には出かけておらず、
同様のことが行われているのか否かは不明。
時代的には難しいのかなと考えます。
それだけに設営の手伝いや猪木さんとの邂逅は、
大変な幸運だったと感じています。
では、また。
温かい馬場さんと熱い猪木さんで、二人は常に対称的だったんですが、私は日本プロレス時代の馬場さんとタッグを組んでた時の猪木さんが大好きでした。
最後は難病で苦しみ、往年の姿とは程遠くにも感じましたが、猪木さんらしい最後だと思いました。
本編内でも、他のコメント返しでも書いていますが
僕にとって猪木さんの死は、
かなり大きな喪失感となって、
今も心にしこりが残っています。
おっしゃる通り、昭和の終わりを実感。
温かい馬場さんと、熱い猪木さんのBIタッグ。
確かにあれは名コンビでした。
では、また。