つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

近代の闇に蠢く。

2023年09月13日 10時10分10秒 | 手すさびにて候。
                       
今投稿の10日後(2023/09/22~24)、
福島県・会津若松市に於いて「会津まつり」が催行予定。
3日間に亘るお祭りのメインイベントは、総勢500名超の参加者による歴史絵巻---
「会津藩公行列」である。

会津若松のシンボル、鶴ヶ城での出陣式の後、
藩政期の殿様、お姫様、武者などに扮した行列が街中を練り歩き、
時折、殺陣などのパフォーマンスなども披露。
パレードには「新選組」や「白虎隊」が加わり沿道の耳目を集める。
そして、頭に白鉢巻を締め、刀や薙刀で武装した勇ましい女性たちも欠かせない要素だ。

ほんの手すさび 手慰み。
不定期イラスト連載 第二百二十九弾「会津娘子隊(じょうしたい)」。



カン!カン!カン!
カン!カン!カン!
突然、けたたましい半鐘の音が朝の空気を切り裂く。
最大限の警戒を促す報せ。
敵がいよいよ会津の内懐に喰らい付いてきたのだ。
慶応4年(1868年)8月23日の事である。

それは僅か15年前から始まった。
遥か水平線に太平洋を横断してきた黒船の威容が現れた時、人々は悟る。
もはや井の中の蛙ではいられないと。
鎖国継続か、開国か、世論は二分し沢山の血と涙が流れた。
大政は奉還され、王政復古が宣言され、江戸は東京に。
趨勢は明らかだが歴史はまだ満足しない。
次なる生贄を求めていた。

徳川幕府に引導を渡した新政府軍(官軍)は、残る旧勢力に狙いを定める。
即ち東北の雄、庄内と会津。
--- 特に会津攻めは、目の色が違ったとか。
幕末、会津藩主が京都守護職に就いていた当時、
「新選組」らを使い討幕派を粛清した経緯から憎悪を募らせていたのだ。

錦の御旗を押し立て、雪崩を打って攻め入る官軍。
街は混乱を極めた。
諦めて死を選ぶ者、避難する者、決戦地・鶴ヶ城を目指す者もいる。
そこに武器を手にした女性たちの姿があった。
後に「娘子隊」と呼ばれる義勇兵は6名。
程なく20余名が志を同じくした。
年齢は10代~40代と幅広い。
皆、先に逝った夫や父、兄弟の無念を晴らす意思を固めていたのである。

だが、家老に従軍を願い出るも相手にされなかった。
『婦女子まで駆り出したかと笑われては会津藩士の名折れ!』

それでも決死の覚悟で食い下がった。
『願いを聞き届けてもらえぬなら、この場で自決します!』

許しを得た「娘子隊」は、8月25日夕刻、
会津と新潟を結ぶ越後街道の川にかかる橋上で、ついに仇敵と遭遇。
官軍は、女性が交ざっている事に気付き生け捕ろうとしたが、
渾身の太刀を受け、慌てて銃を構えた。
激しい戦闘を繰り広げて生き残った5名は城に戻り、
負傷者の手当てや炊き出しなどに尽力。
また、有名な「新島(旧姓/山本)八重」とライフルを並べて戦った。

およそ1ヶ月に及ぶ攻防の末、籠城側が降伏。
「落城」ではない。
鶴ヶ城は最期まで耐え抜いたのだ。
しかし、明治7年(1874年)、政府の命により石垣を残して取り壊される。
荒れ果てた、難攻不落の「名城」を題材に作詞されたのが、
日本音楽史上に名を刻む「名曲」なのは、有名なハナシだ。



--- さて、この内戦で藩を挙げ抵抗した会津側の戦死者は三千あまり。
武士階級以外、農夫や婦女なども含めると犠牲者は数倍に上ったとの説もある。
主戦場となった会津若松城下一帯は、火の海と化した。
戊辰戦争に於いて、ここまで殲滅・破壊の限りを尽くした都市は他にない。
更に、戦後の待遇も苛烈だった。

領地を没収され故郷を追われた人々は、下北半島の「斗南(となみ)藩」へ移住。
石高は28万石から3万石に激減。
土地はやせ、作物は育たず、障子に張る紙すらないあばら家で草の根を噛み、
零下20度に達する冬を耐えねばならなかった。

『会津は大勢の仲間を殺し、天子様に弓引く朝敵。打ち滅ぼして礎とせよ!』
『薩長の仕打ちに負けるな。国辱をそそぐまでここは戦場(いくさば)ぞ!』

互いの正義・信念に基づき刃を交えた者同士である。
どちらも拭えない恨み・痛み・哀しみを抱えていた。

ところが、やがて国際社会と向き合うようになった途端、歴史は掌を返す。
禍根を断てと言う。
もう官軍も賊軍もないと言う。
薩摩でも長州でも会津でもない「日本人」とやらが、新国家のため協力し合えと言う。
まるでそうするのが当然であるかのように--- 。

殖産興業、富国強兵。
文明開化、立憲君主。
近代の夜明けを告げる維新の眩い光が落とした影には、
たっぷり生き血を吸った「士魂」という蟲が蠢いていた。

<後 記>

既に拙ブログで数回書いた通り、僕のルーツは会津である。
祖父は明治のある日、会津の片田舎に生まれた。
おそらく士族の出ではないが、彼の親世代は戊辰戦争と無縁でいられなかっただろう。
いち会津人として激しいジレンマに陥り、トラウマに悩んだとしても不思議ではない。

僕は2度、彼の地に足を運んでいる。
最初は、まだ子供だった頃。
「白虎隊」が命を散らした飯盛山(いいもりやま)、鶴ヶ城を訪れた。
次は、今から30年近く前。
裏磐梯の五色沼(ごしきぬま)湖沼群の美しさが印象に残っている。
遠くない将来、3度目の旅に出たい。
そう考えている。
                                

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