津幡町に「川尻(かわしり)」と呼ばれるところがある。
河北潟(かほくがた)(※)へ注ぐ津幡川の河口、
“川の尻”にあたる地点から付いた地名だ。
(※今は川尻から河北潟までの距離は離れている。
江戸~昭和と埋立/干拓が行われため遠くなった。
往時の湖は現在の5倍強の大きさだった)
その川尻には「井上(いのうえ)」を冠する場所が少なくない。
公立の学び舎は「井上小学校」。
新興住宅街が「井上の荘」。
公民館は「井上コミュニティプラザ」等々。
これは、昭和の大合併で津幡町に統合される以前「井上村」だった名残だと思う。
かつての自主独立の気運を反映してか「井上地区」は、
地域の歴史検証や独自の取組が盛んだ。
現在「いのうえスタンプラリー」を開催中。
井上地区の寺社や歴史文化遺産を巡り、各所の立て看板に設置した判を押し、
スタンプ12個集めたら「井上公民館の鉛筆(2B)」贈呈。
24 個集めたら「井上公民館の鉛筆(2B)とノート」を贈呈。
郷土史ファンのレクレーションや、
小学校の授業などで活用するにはピッタリの企画だと思う。
僕も散歩がてら幾つか巡ってみることにした。
ラリー6番目地点「医師(くすし)神社の縁起伝説」。
今から400年ほど昔、疫病が流行して村人が次々と死んでいた。
そんなパンデミックのさ中、信心深い「徳右衛門」が田をおこしていると、
鍬の先に血がついていた。
不思議に思って鍬のあたった所を掘り起こすと、
木コロの化石が現れ、鍬のあたった所から血が流れているではないか。
驚いた「徳右衛門」は、その木を持ち帰り、村人とともに朝夕礼拝したところ、
疫病がたちまち治まったという。
地区の中心に小さな祠を建て「病よけの神様」として祀るようになり、
社号を「医師神社」とした。
ご神体が生々しく血を流す「木コロ」--- 球状の木片で、
農作業中に土中から発見された。
いかにも日本(の田舎)的なアニミズムの香りが漂う起源のエピソードだ。
ともあれ、社殿前の立て札には確かにボトルがぶら下がる。
なるほど、コイツから判子を出して用紙に記録していけばいいのか。
様式を確認し「井上公民館」前へ。
駐車場の一角で2本の石碑と立て札を発見した。
画像向かって左、ラリー2番目地点「洞庭善兵衛(どうにわ・ぜんべえ)の碑」。
「善兵衛」氏は村長や県会議員を歴任し、
川尻新道改修工事など地域に貢献した業績は枚挙にいとまがない。
その功績を讃え、大正十三年に建立した。
画像向かって右、3番目地点の「真田吉左衛門(さなだ・きちざえもん)の碑」。
「吉左衛門」は明治7年の生まれである。
俳句の宗匠(そうしょう)で号は蕉翠(しょうすい)と称した。
氏は、明治四十年~大正四年まで郡会議員を務め、郡会議長の重責も果たしている。
各要職に就き、数多くの業績を残したが、
とりわけ川尻地内の耕地整備事業や川尻水門建設工事の功績は大きい。
いわゆる地元の名士の記念碑である。
そして、その背後には民草の記念碑も建つ。
この地に生まれ育ち、日清~日露~日中~太平洋戦争まで、
明治以降、近代の戦いに赴き死んだ人たちの「忠魂碑」だ。
説話上の人物や名士だけではない。
スタンプラリーのポイントにはなっていないが、
多くの人々の歴史の上に「今」が在る。
改めてそんな感慨を抱いた散歩だった。