先日ネット上にこんな投稿がありました。添えられている写真は、スエット上下かと思えるような楽な服を着た若い女性(顔が一応隠されているので、投稿者によれば、若い女性とのこと。)が、乗客がほとんどいないと思われるガラガラに空いた電車の座席で、左膝はあぐらのように折り曲げ、右脚は立膝にして座っています。靴はしっかり脱いでいます。右手にはスマホを持ち、何やら熱心に見ているか打ち込んでいる様子。彼女の両側には全く人の姿も気配もありません。
投稿者は自分がスマホで撮影したこの写真を添えて、この女性についてひどく腹を立てています。こんな行儀の悪い座り方で良いのかと、全国民に向かって訴えんばかりの勢いです。これに続く皆さんのコメントも、育ちが悪い、家の躾がなっていない、日本人ではないのではないか?誰も注意しないのか?日教組のせいだ・・・・。
もし私の目の前にこの光景が繰り広げられたとしても、まあ、随分リラックスしちゃって・・・という程度で、取り立てて腹も立たないし、家に帰るころにはそんなことはきれいに忘れてしまって、家人に話すことすらないと思います。少なくとも私にとっては取るに足らぬ光景でした。しかし、この後延々と彼女に対するののしりのコメントが続いたのです。
更に数日後、今度は一人の老人が同じ状況で、皆さんの攻撃にさらされていました。今度は顔すら隠されていません。写真のお爺さんは、誰もいない席で、横向きに座り、靴がシートに触れないように足首から先は外に出しながら、右足を伸ばして座席の上に載せています。要は先ほどの女性の例に加えて、年寄りだってこんな悪い奴がいる、と言いたい投稿なのです。
私がこの写真を見て真っ先に感じたのは、「お爺さん、右足が疲れてるんだな。」ただそれだけです。少しの同情心が湧くだけで、この老人を責め立てようなどという気持ちは微塵も起きては来ませんでした。しかし、次々と寄せられるコメントはこのお爺さんを手厳しく非難、もしくはののしるものばかり。これがまたしばらくの間、延々と続いたのです。
最近ネット上ではこのように、実質的に迷惑にもなってはいない他人の些細な落ち度を取り上げて、やり玉に挙げる例が増えているように思います。そこには少々屈折した心理を感じてしまうのですが、間違った受け止め方でしょうか。なんだか、正義の名をかりた、個人の鬱憤晴らしのような気がしてならないのです。私の目には、とてもみみっちい、恥ずべき行為に見えます。
この話には続きがありますが、長くなるので本日は全編だけに留めさせていただきます。とにかく皆さんの心に余裕がなさ過ぎる、というのが前編の結論です。
投稿者は自分がスマホで撮影したこの写真を添えて、この女性についてひどく腹を立てています。こんな行儀の悪い座り方で良いのかと、全国民に向かって訴えんばかりの勢いです。これに続く皆さんのコメントも、育ちが悪い、家の躾がなっていない、日本人ではないのではないか?誰も注意しないのか?日教組のせいだ・・・・。
もし私の目の前にこの光景が繰り広げられたとしても、まあ、随分リラックスしちゃって・・・という程度で、取り立てて腹も立たないし、家に帰るころにはそんなことはきれいに忘れてしまって、家人に話すことすらないと思います。少なくとも私にとっては取るに足らぬ光景でした。しかし、この後延々と彼女に対するののしりのコメントが続いたのです。
更に数日後、今度は一人の老人が同じ状況で、皆さんの攻撃にさらされていました。今度は顔すら隠されていません。写真のお爺さんは、誰もいない席で、横向きに座り、靴がシートに触れないように足首から先は外に出しながら、右足を伸ばして座席の上に載せています。要は先ほどの女性の例に加えて、年寄りだってこんな悪い奴がいる、と言いたい投稿なのです。
私がこの写真を見て真っ先に感じたのは、「お爺さん、右足が疲れてるんだな。」ただそれだけです。少しの同情心が湧くだけで、この老人を責め立てようなどという気持ちは微塵も起きては来ませんでした。しかし、次々と寄せられるコメントはこのお爺さんを手厳しく非難、もしくはののしるものばかり。これがまたしばらくの間、延々と続いたのです。
最近ネット上ではこのように、実質的に迷惑にもなってはいない他人の些細な落ち度を取り上げて、やり玉に挙げる例が増えているように思います。そこには少々屈折した心理を感じてしまうのですが、間違った受け止め方でしょうか。なんだか、正義の名をかりた、個人の鬱憤晴らしのような気がしてならないのです。私の目には、とてもみみっちい、恥ずべき行為に見えます。
この話には続きがありますが、長くなるので本日は全編だけに留めさせていただきます。とにかく皆さんの心に余裕がなさ過ぎる、というのが前編の結論です。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます