今日はアルカサール(セビリヤ王宮)の写真を送ります。
この宮殿を模して数世紀後に作られたのがアルハンブラの宮殿だそう。
それにしてはこの宮殿のほうが色彩豊かな上庭園も開放的で、生き生きしている様に思えるのはたぶんたくさんの色タイルのせいかもしれない。色タイルは後に送ります。庭の鮮やかな花は南国の今まで見たことのない花で、11月でもこのあたりが暖かいことを証明している。またやしの木がいたるところに生え、南国情緒豊か、ここがスペインであることを忘れそうになる。
スペイン広場は直径170メーターの半円形で、憩いのための広場として考案されたもの。今ではここセビリアの貌である。建物を縁取る水路にはベネチア風の橋がかかり、華やかな欄干は陶器で作られている。
カーブをなした建物の基部にはタイルのベンチが並び、スペイン各県にちなむエピソードがタイルに描かれている。この広場は1929年のイベロアメリカ博覧会の中心になったところである。ここに見られる華麗な色彩は西洋文化特に英国にはに見られないものであり、イスラムの文化の影響が多大に伺われる。
これらのタイルはほとんどがアルカサールのイスラムのもので、色彩や幾何学的な模様などアラブの典型的なものである。これらのタイルは床や壁の腰に用いられ、天井は木工細工による幾何学模様である。私は以前からこのイスラムの幾何学模様やタイルに使われている強力な色彩に非常に興味があり、写真のコレクションをしている。
11月でもまだ暑いセビリアのキャンプサイトでは日中蝉がやかましく鳴いていた。夜になると周囲の草むらから高い虫の声がする。英国人には虫の音というのはどの音も風情のあるようには聞こえないらしい。
”この蝉は一晩中なくのかね?”と亭主。”蝉は夜鳴かないよ。これは蝉じゃなくてコオロギか何かだと思う”と言ったら、虫は全部蝉と呼ぶのかと思ったそうな。
さてこのFuzeta のキャンプサイトについて話してみたい。
ここの小さなサイトは英国人の定年退職者が多くいて、長いのは3年半もここに住み着いているという。彼らは大きなキャンパーやキャラバンにその横を付随のテントで居住面積を倍にして、テント内はリビングルームやサンルームにしている。そして周囲を花や木を植えて庭にしているので、まったく普通の家と変わらない。だから何年住んでいても不自由しないのだ。おまけに滞在が長ければ長いほどキャンプ料金は安くなる。又公共税金などは払わないし、ユーロ圏のおかげで医療費はただと笑いが止まらない。
このサイトに来てのんびり一週間近く楽しんでいたが、ここを去る2日前に下の写真の長さ10メーターくらいの豪華キャンパーが到着した。スコットランドからやってきた20代後半から30代前半の黒人男性と白人女性の組み合わせだった。キャンパーの中は4ベッドルームがあり車の後ろにミニカーを積んだガレージがついていた。
この若さで来年の春までここに滞在して、ミニカーであちこちを走り回るという。亭主に彼らは宝くじに当たったか、それともドラッグディーラーだろうかと話し合った。後にも先にもこんなに若くて長期にわたって豪華な旅のできるカップルに会ったことは無い。
私たちのキャンパーの隣にはこれまた何年も住み着いているオランダ人の40代の男女がいて、彼らのキャラバンの回りは大小のつぼがひしめいている。オランダ人はほとんどの人が何ヶ国語でも話せるのでこの男性との会話には全然困らなかった。この人はポルトガルやスペインのオリーヴ育成の農家から古いオリーヴを入れる壷を買い集め、一年に二回ほどオランダの骨董店へ売りに行くのだという。
このようにオイルと埃で汚れた壷だが、きれいに洗って汚れを落とすと、オランダでは売れないのだそうな。
彼の一番の自慢は泳いでいて海底で見つけた壷で(写真最下位)貝や藤壺のくっついたものでこれは自分の宝物売れないと言っていた。
セビリヤを去ってポルトガルへ向かい、途中で一泊して翌日国境を越えた。国境から40Km の海辺の小さな町 Da Fuzeta のキャンプサイトにたどり着いた。キャンプサイトはいっぱいでこの日、このサイトを去ったキャンパーと入れ違いでやっと駐車場を確保することができた。ここ南海岸は気候温暖で日中はTシャツ一枚でも暑いくらい。しかしいったん日がかげると急激に空気が冷たくなる。
キャンプサイトのすぐ横に大きな河が流れていてすぐ広い河口になって海に流れ込んでいる。この河口はこの町の港で朝夕小型漁船が出入りしていた。
河の向こうは平坦なデルタ地帯で、塩田が広がり所々に荒塩の山が積み上げられている。冬の間は塩田は放置されていて、あちこちフラミンゴの群れやコウノトリの夫婦がえさを探しまわっていた。フラミンゴは頭を水面につけたままでも私たちがそーと近寄っていくのが判るらしい。同じ距離を保ったまま後ろへ下がってゆく。海岸に積み上げられているたくさんの壷は蛸壺で、地中海沿岸では昔から蛸やイカを食べている。英国人が蛸やイカを食べるようになったのはここ2-30年以内のことだ。外国へ若い頃から出ていた亭主は、イカも蛸も喜んで食べる。
河口の港の近くには毎日早朝から魚・野菜の市が立って新鮮な食料がとっても安く手に入る。小さな町を散歩してみるとほとんどがまっ白の壁に玄関の色タイルが素晴らしい。町には鉄道が通っているが観光客が集まるほどの見ものは無い。
整然と並んだ真っ白の墓は家族代々の墓地であろう。この様な墓地はカソリックの国に多く見られるようだ。スペインやポルトガルでもオレンジやオリーヴの畑が多く、なぜかこの国のオリーヴの収穫は家庭的な気がする。
早朝川渕のマーケットへ行って生きのよい鯖やあじを買って今夜の夕食は心配ない。それで電車で20分先に在るファーロへ行ってみることにした。
ファーロは英国から2-3時間、とっても安い飛行機が往復していて、気軽に行ける観光地だが、私たちは今回がはじめて。こんな田舎の町でも、電車の落書きがひどい。この落書きは一応とっても芸術的に見えるが、やはり落書きはあまり感心するものじゃない。
ファーロの街角で一番先に目に付いたものはこのフットボール型のユーロ2004年のサイン、2004年のヨーロッパサッカー試合はポルトガルで行われたのだ。
又街角の電話ボックスがこんなにもモダンで感心した。この町は古い伝統的な建築物にこのような新鮮なデコレーションや設備がうまく調和して、居心地のよい気持ちの良い町だ。
でもこの時期、観光客がほとんどいなくて人影もまばらな静かな街角だから言えるのかもしれない。
教会や、電柱の上にコウノトリが巣を作り、永久夫婦(彼らは生涯相手を変えない)が仲良く巣作りしているのが見える。
白い壁とテラコッタの屋根は地中海沿岸何処でも見られる風景だけれど、このテラコッタの屋根瓦は英国には無く形も色合いも素晴らしい。大きな壷も街角や庭に無造作に置かれているが、素敵な通りのデコレーションだと思う。
ファーロも海辺の町でこの海は地中海ではなく大西洋なのだけれど、11月のこの日空の青さは英国では見られない。南国の空や海は心から晴れ晴れしてしまう。
町の中心部の道路はモザイクタイルになっていて、ローマ時代からの伝統を受け継いでいるようだ。
Fuzetaのキャンプサイトですっかり仲良くなった長期滞在のキャロルや、オランダ人の隣人に別れを告げたのは一週間後で、海岸線に沿って西に向かった。
真夏のホリデータウンのアルガーヴを通り過ぎたアーマカウに町の入り口で大きなキャンプサイトを見つけ落ち着いてしまった。プールもバーベキューの設備も整ったとっても快適なサイトで3日以上滞在すると料金が半額になるという。
イギリス、ドイツ、オランダ人の年金退職者が多くて、各国ごとに小さなコミュニティができていた。着いて2日目には、この地長期滞在のイギリス人が訪ねてきて自己紹介、英国の家を売って、ポルトガルのキャンプサイトに2箇所キャンパーを置いて、交互に住んでいるそうな。年に何回かインドなどへホリデーに行くとのこと。英国よりも気候が良いのと、物価が安いので生涯この地で住むつもりだと言っていた。
私たちの隣人は大きなキャラバンに住むイギリス人のおじいさんで、数年ここに住んでいるらしいが、2年前に奥さんを癌で亡くし、今は一人だ。
キャンパーの周囲に植えられている大きな木の中に、ユーカリの白い花が満開でその下を通る度に素晴らしくいい香りがしてうっとりする。ユーカリの花は初めてで、寒い英国では花が咲かないのかもしれない。海岸近くの湿地帯にはここにもフラミンゴが小さな群れを作っていた。
暖かい南部は11月から12月がオレンジやミカンの収穫期で道端で安く売っている。マーケットで2Kgで40-50ペンスくらいだったから、毎日食べていた。右下の写真はコルクの樹皮。ポルトガルの名産品でこの干した皮を加工してワインボトルの栓にする。
港が無い砂浜の海岸は漁船を直接砂浜に引き上げ,獲った魚は近くのマーケットで売られていた。漁師が塩さばを漬けているのを写真に写させてもらった。
この町は夏のホリディ地・アルガーヴの郊外住宅地にあたり、真っ白のアパートや・モダンな高級住宅地などが広がっていて非常に静かだ。
毎日良い天気が続いて、洗濯物も数時間で乾く。この日はサンドイッチをもってAlbufeiraの町まで海岸線を10Kmも歩いた。街中も歩き回ったからこの日はトータル16Kmほども歩いた。
町の近くでまるで御伽噺に出てきそうなカラフルな町が現れ、今までの真っ白な建築物との違いに大いに感激してしまった。まだ真新しく売り家のサインがいたるところに立っていて、人影はほとんど見えない。
街中は伝統的なポルトガルのホリデータウンで狭い通りやいたるところに教会があり街角にはセイント(聖人)のタイル絵などがはめ込まれている。辺りは丘や谷間にびっしり白亜の家家が並んでいて坂道の多いしたがって大変疲れる町だった。
ここも夏には人口が何倍にも膨れ上がって活況を示すのだろうが、11月半ばでは観光客はほとんど見えず、静かだった。観光案内所へ行ってみたが、閉まっていて特に見るものもないようだった。夕日が辺りに黄金の光を投げ始めた5時過ぎ(英国ならこの時期3時半で暗くなる)ローカルのバスに乗ってキャンプサイトまで帰ってきた。
キャンプサイトから西へ向かうと険しいがけの切り立った海岸線に歩道が何処までも続いている。キャンプサイトにいるほとんどの人たちが一度は歩いているらしい。
私たちもこのサイトに泊まっっていた2週間の間に、何度もこの海岸線の散歩道へでかけた。ここの崖は砂岩から成っているため、冬の嵐や、激しい波に洗われて、海岸がどんどん侵食されている。たぶん一年の間に散歩道も様子が変わってしまうと思われる。
アーマカウの町からこの散歩道を10Kmくらい行ったところの岬に小さな教会が建っていた。このSura Da Rocha の教会はこの地域の一番の見所らしく、絵葉書が売られていた。
その岬のレストラン(ビストロと呼ばれる)でポルトガルの名物・いわしの塩焼きを食べた。新鮮な魚は私たちには一番うれしい食べものだ。
海岸の一部の岩は帆立貝の化石がびっしり埋め込まれていてこの高いがけも昔は海底にあったようだ。あちこちの崖の上から、釣りをしている人たちが見えるが、崖の高さが最低でも10メーターはあり、あんなに高所からの釣り人は見たことが無い。下6枚目の写真には釣り人が写っているが写真が小さくて見えないかも知れない。
一日に歩ける距離は限られるので、20Kmも歩いて夕方に最終的にたどり着いた村から、へとへとになってバスで帰ってきた。
ポルトガルからスペイン中央山岳地帯を通った。深い山並みは雨雲が覆って数日前の夏に近いような天気が嘘のように思える。マドリッドに後300Kmの盆地の高速道路わきにCamping Restaurantを見つけて一泊した。私たち一台だったが、サイトを開けてくれ、素晴らしい設備で感激した。
翌朝寝坊してしまい、大急ぎで10時頃に出発し高速道路をトレドへ向けて走った。途中の山にさしかかると霧が出てきて、トレド近くから又雨が降り出した。
トレドのキャンプサイトへはお昼過ぎに着いた。トイレ・シャワーがきれいだけど一泊23.36ユーロと安くない。
昼食後雨の中をレインコートと傘をさして、トレドの町へ歩いていった。トレドの町は丘の頂上に城と大聖堂がありその丘をびっしりと中世の町が取り巻いている。その外側を大きな河が抱くように流れているので、河を渡らなければ町へ行くことはできない。
狭い石畳の坂道を登って大聖堂へ行った。この周りが一番の観光地で日本人団体が3組も出たり入ったり雨の中行きかっていた。大聖堂は半分工事修復中で、写真を数枚写したところで写真禁止と言われがっかりして出てきてしまった。
サンタ・クルッズ博物館はたくさんのローマ時代からの壷やスペインがイスラム支配化にあったときのタイルなどが展示されていたけれど、元教会だったらしい博物館の建物が素晴らしかった。
トレドの名産は刃物類といわれ、町のお土産店ならずとも大小の刃物店が上手にナイフや飾りの剣を展示していた。又黒地に金色で模様をつけた金属のお皿はここトレドの名産であるらしい。通りのほとんどがお土産店のようだった。右下の陶器の人形はドン・キホーテとサンチョのコミカル像だった。ドン・キホーテはスペインの一番有名な物語である。
11月ももう終わりのこの日は朝から冷たい雨が降ってとうとうポルトガルの冬を経験することになった。この10週間で初めて一日中絶え間なく雨に降られた。2週間のんびり楽しんだアーマカウのキャンプサイトから北へ向かった。
Evoraのキャンプサイトしか開いていなかったからだが、このサイトに着いて町の案内図をもらって初めてこの町が、世界遺産に登録されていることを知った。
エヴォラの町は高い城壁に囲まれた比較的平坦な中世の町で、ローマの遺跡が有る。
城砦の外から長い立派な水道橋が町の中心に伸びていて、城内の橋の足元には住宅や倉庫が作られていた。これを見るといつもこの水道橋を造ったローマ人が気の毒に思える。
町の中心にはローマのテンプルが保存されていて、ここで初めて全員傘をさした日本人団体客を見かけた。こんな田舎までやってくる団体は日本人しか居ないだろう。サスガーだと思った。
夕方まであちこち歩き回ったけれど、雨の中で歩き回っても大して楽しいわけではない。クリスマスのデコレーションが雨にぬれて寂しげだ。
翌朝は雨がやんだものの雲が低くて、なんとなくもう一度エヴォラの町へ繰り出す気持ちが無くなってスペインへ向かうことにした。スペインまでの街道では通り過ぎるほとんどの町の丘の上に立派な城砦がそびえていた。それぞれの町がいろいろ波乱にとんだ歴史を持っているのであろう。
スペインへの国境近くの町エルヴェス(Elves)で素晴らしい水道橋にめぐり合った。停車して写真を撮り、この町で泊まりたいと思ったがキャンプサイトが無くあきらめてスペイン中央部へ向かった。
12月の入ってスペイン中央部は冬に入った。古都のトレドは2日間にわたって歩き回ったが、ここ首都マドリッドにはかなわない。たぶん一週間居てもすべてを見ることはできないけれど、今回は3回に分けて町の散策と、プラド美術館、そして王宮へ行ったことを書いてみたい。
今日は12月のマドリッドの町とクリスマスのデコレーションを書いてみよう。町のメイン道路は真ん中に細長くグリーン地帯がありその両側に上下2-3車線の車道、それから幅広い歩道がある。だからマドリッドの町は歩いても狭い感じがしないし、これで晴天なら言うことなし。あいにく初日は雨にたたられた。グリーンには銀杏並木が黄色のじゅうたんを広げたようでまだ落葉は終わってなかった。もう何処を見てもクリスマスの飾りでいっぱい。
Plaza Mayor(メーヨー広場)へ紛れ込んだところ、広場全体がクリスマスの飾りや食べ物を売る屋台でいっぱい、周囲のお店もちょっと英国では見られないおいしそうな食べ物が並んでいる。これらはタパスの材料で実際お昼にトラトリアへ入ってみたら廉くておいしいハムやソーセージの盛り合わせそれに大きな鱒の塩焼き、パエヤなどまったく笑いが止まらない。
街路樹にかかっているクリスマスの飾りに多国語でPeace 平和と書いてあるが、漢字を知らないこの国のこと和が完全にのぎ偏と口にわかれてしまっている。
ヨーロッパのどんな国でも銅像と噴水はつき物、ここマドリッドも例外なく行くところあちこちに凝った噴水が見られる。
マドリッドのキャンプサイトから町の中心へはバスと地下鉄を乗り継がなければならない。やっと雨の上がったこの日、スペイン王室の居城だったPalacio Realを見物に行くのに歩いていたら、大きな建物のドアから多くの若い人たちが出てきた。その建物をぐるっと回ったところにはたくさんの人が行列をついていた。これはたまたまスペインの国会議事堂(Senado)の一般公開の日でこれはチャンスとばかりに私たちもスペインの人々に混じり行列についた。一回の入場が50人づつくらいで、しばらく待ってすぐに中に案内された。
全然スペイン語はわからないが、大小の立派な会議場や素晴らしく大きなタペストリーのかかった大広間など見ているだけで楽しめた。
タペストリーにアルハンブラを明け渡すモーロ人の若い王ボアブディルと馬に乗って入城してくるイザベル王女の素晴らしい絵があった。この二人は実際には出会っていないであろうが、歴史的に見ても最大の出来事で有っただろうから、あらゆる芸術家の想像を掻き立てることであろう。
この国会議事堂を出るときには立派な国会の説明書つきノートブックとCDが入ったお土産まで頂いた。残念ながらスペイン語が読めなくて宝の持ち腐れになってしまったが・・・・
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Palaceはよく手入れの行き届いた庭を見て周った後正面のゲートを見て英国のバッキンガム宮殿よりずっと宮殿らしいPalacio Realに感激、フラッシュなしで撮影可もあり400枚も写してしまった。
18世紀はヨーロッパ一体で東洋趣味がもてはやされたため、何処の宮殿でも必ず中華装飾の部屋がある。
宮殿の窓から見えるマドリッドは、はるか眼下に広がっている。
宮殿を出たのは4時半過ぎ、夕暮れが迫ってきてすごい群れの鳥が飛んでいた。
プラド美術館の入り口近くの大きな絵の看板ではこの時期の特別展グレコからピカソまでの案内だったが、特別展は有料でたいした金額ではなかったが今覚えていない。
常設の絵はフラッシュなしならば写真を写しても良いとのことで舞い上がってしまった。
スペインでは一番有名なゴヤは宮廷のお抱え画家で、大きくて素晴らしいスペイン王室の肖像画が一番先に目に付いた。次に目立つのは裸のマヤと着衣のマヤこの2枚を知らない人は居ないだろう。フーンこれが有名な・・・・というのが私の感想。
特別展は写真を撮っちゃいけないとは知らなくてじゃんじゃん写した後で、係りの人があわてて停めに来た。イヤー申し訳ないと謝ったけど、下2枚の若い娘の絵がとっても気に入った。色彩がすばらしい。
ラファエロの絵は宗教画が多くて、下の絵はよく見たことのある聖母子画、でもどうも宗教画は苦手だなー。ロンドンのナショナルギャラリーにもたくさんあるから。右下の絵は何かのストーリーを絵にしたものらしい。寝ている男の首を切り取ったおどろおどろしい絵だがとっても興味を引かれた。こんなときスペイン語がわかればと残念に思った。英語の併訳が全然ない。北欧やドイツでは必ず英語も書かれてあるのに・・・・。
黒の大理石のテーブルにきれいな色石をはめ込んで模様にしたもので、素晴らしい芸術作品同時に工芸品だと思う。
彫刻も多くローマの皇帝の像がたくさんあって、左下は初代皇帝オウガスタスの像。オウガスタスは18歳くらいから82歳でなくなるまで広大なローマを支配したが、若い時の像をたくさん作って領土のあちこちに贈ったとのこと。これは後の肖像画と同じ役割だったという。したがってこの同じような像がヨーロッパ各地の博物館で見られる。
左下はシーザーの像,塩野七生さんのローマ人の物語に彼女が惚れ抜いた男の物語として書いているからこの像を見ると”やあお久しぶり”と声をかけたくなる。
マドリッドで3泊した後、北西90Km地点のセゴビアを目指した。マドリッドとセゴビアの間には山脈が横たわっていて、キャンプサイトで知り合ったイギリス人夫妻に拠ればセゴビアから直接北へ抜ける道は非常な悪路だという。セゴビアにはキャンプサイトが無いから又マドリッドのサイトへ帰るか、マドリッドの環状線まで戻って北進するかで、とうとう後者をとることにした。郊外の山は真っ白でセゴビアへの山越えも辺りが霧か雲に覆われ、道路際まで雪が積もっていた。
セゴビア近くなると大聖堂の尖塔が天を突き刺すように延びて、この町の何の情報も無いまま駐車、町の中心地へ行って驚いた。こんなに立派なローマの上水道が通っている、ローマ時代からの古都なのだ。
街角の像に男の子と大きな魚の組み合わせ、これぞまさしく坂田の金時、日本の御伽噺そのままではないか。
12時過ぎセゴビアの町を去るに城壁外周道路を走っていて、この立派なお城を見つけた。残念、もう少し時間が有ったらあの城を見てきたのにと愚痴りながら、今夜の予定地Burgos へ向かった。
スペイン中央部から北には砂漠の不毛地帯が広がり、夏は耐えられない高温になるそうだ。平地には時々村や町が現れ、スペインの街道筋に立っている真っ黒の牛の立て看板も何度も見た。さよなら雄牛君。又来るからね。
Burgos のサイトは郊外3Kmにあり気温も3度、夕方着いて一泊後すぐに国境へ向かった。