スノーマン見聞録

ジャンルも内容も気の向くまま~“素浪人”スノーマンの見聞録

戦後 (パートⅠ)

2014年01月13日 | 雑感
戦後(パートⅠ)~(パートⅢ)迄少し長くなります。 恐縮で~す。

(北海道新聞朝刊)
昨日は『尖閣・竹島』の領土を中高教科書指針に明記すると文部科学省検討、、、。
今日は『秘密保護法』への廃止を訴える投稿(映画監督・山田洋二)、、、。


などなど、アジアをめぐるきな臭い問題が連日のようにニュースとなっている。
戦後70年にもなる今もである。

昨日テレビで も安部首相・靖国神社参拝問題が議論されていた。

西尾 幹二氏(『国民の歴史』を書いた右派論客)がこんなことを話していた。

”日本人はたとえ戦犯であっても死ねば皆神仏として祭られる。でもある国は墓場を掘り起こしてでも
傷めつける”
この文化の違いは大きい、、、と。


秋尾沙戸子著『ワシントンハイツ』(副題ーGHQが東京に刻んだ戦後ー)という本がある。
(ノンフィクション作家・日本エッセイイストクラブ賞受賞)

今の原宿界隈、明治神宮そばにあったGHQ後の米軍とその家族たちの街。フェンスに囲まれたそのエリア(ワシントンハイツと呼ばれた)から日本人のアメリカ化の波が広がったという。

その米軍家族の生活、闇市、諜報実態、など占領後の日本についてが詳細にドキュメンタリータッチで描かれている。

東京大空襲の様子も描かれておりました。


1944年(昭和19年)以降に130回もの空襲で、死者10万人以上とされる。
B29による夜間無差別爆撃で、東京市街地の約半数が猛火に覆われたという。


火事場突風が風速50メートル以上にも達し熱風の為目を焼かれ行動の自由を失い、、等など。

我が日本は被災に備え「バケツリレー」の訓練などをしていたというではないか。 痛々しい限り。

この米陸軍空軍を指揮し日本への大空襲を実現した張本人カーティス・ルメイの話が記されていた。

”無差別爆撃に先に手を染めたのは日本軍だ。 中国の重慶を爆撃しているではないか”
”フィリピンでの米軍捕虜の扱いに見られるように、日本兵は残酷で極悪非道だから報復されても仕方ない”
、、と公式の場でも語っているという。

不思議なことにこのカーティス・ルメイに対し終戦から19年後、日本から「勲一等旭日大綬章」が贈られているという。
(経緯は明らかではない)

米によるこの空爆、成功以降世界戦争の形態を大きく変え、アフガン・イラクでも戦争は航空戦が主体となっていった。


直接銃口を向けない空爆として、、、罪の意識が薄れ、人の命を軽んじるようになっていく、、、。

戦後 (パートⅡ)

2014年01月13日 | 雑感
大東亜戦争(太平洋戦争)に至るまでの経緯を列記してみます。

1931年 当時の関東軍が南満州鉄道の線路を爆破。 中国軍の仕業として爆破を合図に関東軍は奉天を占領。いわゆる満州事変である。

この辺からきな臭い匂いが、1936年2・26事件が起こり鎮圧はされたが、陸軍は逆に政治に口出しするようになり、政治家はさらに委縮。 陸軍が操り易い内閣をつくり日中戦争・大東亜戦争(米は太平洋戦争と呼ぶ)へと進んでいった。

日中戦争は1937年から1945年まで、大日本帝国と中華民国(蒋介石政権)および中国共産党との間で行われた戦争である。大日本帝国政府は、勃発当時は支那事変としたが、1941年12月の対米英蘭の太平洋戦争開戦に伴い支那事変から対英米戦までを「大東亜戦争」とした。

ドイツはソ連を仮想敵国としたが、米英にまで拡大するよう日本に働きかけ、日本陸軍はそれに一時は応じようとしたが、米英には勝てないとみた山本五十六らが阻止。

いったんこの三国同盟は消滅したが、ドイツがポーランドに侵攻し第二次世界大戦に突入。ふたたび陸軍中心に三国同盟が現実実をおび締結にすすんでいった。

ドイツがソ連に侵攻。ここでも米英が背後にいた。当時の松岡外相がソ連との開戦を主張。

米は日本人の在米資産凍結し、石油の全面輸出禁止を決定、、石油がなければ軍艦も飛行機も動かない。日本の石油備蓄はあと二年分しかなかったのである。

日本は米に譲歩して中国や仏印から軍を撤退させるか、さもなければ米英と戦うかしか道はなくなっていた。

日米交渉は、日本が譲らない限り妥結の見込みはなかった。 当時の近衛内閣は東條陸相に中国からの撤退を求めたが、答えは非。万策尽き果てた近衛内閣は総辞職。

後継には以外にも東條が、、。陸軍抑え込むには東條しかいないとの理由で。 天皇も『虎穴に入らずんば虎児を得ずということだね』として同意したという。

米・ハル国務長官はすべてを満州事変前に戻すことを要求、いわゆる『ハル・ノート』。日本はこれを最後通牒と受け止め、12月1日の御前会議で、対米英蘭との開戦を決定した。

対米戦は避けるべきと主張していた山本五十六も組織人なるがゆえか、いざ開戦となるやハワイオアフ島の真珠湾攻撃の奇襲を発案。 1941年太平洋戦争勃発に至ったのである。

太平洋戦争が勃発したときすでに日中戦争が始まってから4年以上、中国を背後から支援していた米英こそが憎むべき相手、鬼畜米英をスローガンに、、、との雰囲気が日本国内に蔓延していった。


歴史は事実を知ることが大切ですが、勝者の論理・敗者の論理でも大きく異なります。

敗戦から70年、今は豊かになった日本の富をアメリカに献上するシステムができあがりつつあるのかも知れません。 TPPなどもその流れなのでしょうか、、、。



戦後 (パートⅢ)

2014年01月13日 | 雑感
渡部昇一著『東條英機歴史の証言』(副題ー東京裁判宣誓供述書を読みとく)を読んでみた。

安部政権になってから憲法論議や靖国問題論議がさかんです。

上記の本は、A級戦犯として東京裁判により死刑(縛り首)執行された東條英機の「東京裁判での宣誓供述書」の復刊でもあり、それを要約し歴史的説明を加えたものです。

555ページにもわたる本ですが、東條英機の「東京裁判での宣誓供述書」本文全文(156ページ)掲載しており、
「日本はどうして戦争に突入していったか」を読みとく貴重な資料としても一読を薦めます。

東條英機は供述書でこう主張。

 ”1941年12月8日に発生した戦争なるものは、米国を欧州戦争に導入する為の連合国側の挑発に原因し、
  我国の関する限りに於いては自衛戦として回避することを得ざりし戦争なることを確信するものであります”

 ”侵略でも搾取でもありませんでした”
 
 ”私は最後までこの戦争は自衛戦であり現時承認せられる国際法には違反せぬ戦争なりと主張します”

 ”敗戦の責任については、当時総理大臣たりし私の責任であります”


 、、と戦争責任と敗戦責任は別である、、との考えをもっていたようです。

もちろん国際法上やっていい戦争があっていいか、などとの考えもいかがなものか、とも平和ボケした私なんぞには思われるのですが、勝者が敗者を裁く、、このこともおかしな話ではないでしょうか。

東京裁判では、フィリッピンの判事は全員死刑の意見を、インドのハル判事は全員無罪を、それぞれ主張しています。

ハル判事の全員無罪については被告たちの行為が正しかったというのではなく、「国際社会がいまだ国内社会のような強制手段を加えうるほどには発達していないという悲観ゆえであり、そうした状態で敗れし者だけを処罰するという勝者の方法に反対したからであった」(水島吉隆著『日本の近代100年史』より抜粋)


考えてみれば今も昔も資源の分捕り合戦が続いている。

当時日本もそうであったように、米英も大東亜地域に進出、領土を獲得に躍起となっていた。

当時、インドネシアの石油はオランダが占領。 マレーシアのゴム・タイの米はイギリスが、、、。
日本が連合国側に鉄鋼や石油などを禁輸させられ、にっちもさっちもいかない状況にあったことは事実のようです。

終戦の2年半後(1951年5月3日)マッカーサー元帥は、アメリカ上院の軍事外交合同委員会という公式の場で次のように語って証言しているという。

 ”日本は絹産業(蚕)以外には固有の産物はほとんどないのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、
  石油の産出が無い、錫(すず)が無い、ゴムが無い。その他に多くの原料が欠如している。
  そしてそれらの一切のものがアジアの海域には存在していたのです。
  もしそれらの原料の供給を断ち切られたら一千万から一千二百万の失業者が発生するで
  あろうことを彼らは恐れていました。


  したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障上の必要に迫られて
  のことだったのです ”

(Their(The japanese people's) purpose, theretore, in going to war largely dictated by security.)

歴史は繰り返すという。 安全神話は崩れかけている。 要注意。