渡部昇一著『東條英機歴史の証言』(副題ー東京裁判宣誓供述書を読みとく)を読んでみた。
安部政権になってから憲法論議や靖国問題論議がさかんです。
上記の本は、A級戦犯として東京裁判により死刑(縛り首)執行された東條英機の「東京裁判での宣誓供述書」の復刊でもあり、それを要約し歴史的説明を加えたものです。
555ページにもわたる本ですが、東條英機の「東京裁判での宣誓供述書」本文全文(156ページ)掲載しており、
「日本はどうして戦争に突入していったか」を読みとく貴重な資料としても一読を薦めます。
東條英機は供述書でこう主張。
”1941年12月8日に発生した戦争なるものは、米国を欧州戦争に導入する為の連合国側の挑発に原因し、
我国の関する限りに於いては自衛戦として回避することを得ざりし戦争なることを確信するものであります”
”侵略でも搾取でもありませんでした”
”私は最後までこの戦争は自衛戦であり現時承認せられる国際法には違反せぬ戦争なりと主張します”
”敗戦の責任については、当時総理大臣たりし私の責任であります”
、、と戦争責任と敗戦責任は別である、、との考えをもっていたようです。
もちろん国際法上やっていい戦争があっていいか、などとの考えもいかがなものか、とも平和ボケした私なんぞには思われるのですが、勝者が敗者を裁く、、このこともおかしな話ではないでしょうか。
東京裁判では、フィリッピンの判事は全員死刑の意見を、インドのハル判事は全員無罪を、それぞれ主張しています。
ハル判事の全員無罪については被告たちの行為が正しかったというのではなく、「国際社会がいまだ国内社会のような強制手段を加えうるほどには発達していないという悲観ゆえであり、そうした状態で敗れし者だけを処罰するという勝者の方法に反対したからであった」(水島吉隆著『日本の近代100年史』より抜粋)
考えてみれば今も昔も資源の分捕り合戦が続いている。
当時日本もそうであったように、米英も大東亜地域に進出、領土を獲得に躍起となっていた。
当時、インドネシアの石油はオランダが占領。 マレーシアのゴム・タイの米はイギリスが、、、。
日本が連合国側に鉄鋼や石油などを禁輸させられ、にっちもさっちもいかない状況にあったことは事実のようです。
終戦の2年半後(1951年5月3日)マッカーサー元帥は、アメリカ上院の軍事外交合同委員会という公式の場で次のように語って証言しているという。
”日本は絹産業(蚕)以外には固有の産物はほとんどないのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、
石油の産出が無い、錫(すず)が無い、ゴムが無い。その他に多くの原料が欠如している。
そしてそれらの一切のものがアジアの海域には存在していたのです。
もしそれらの原料の供給を断ち切られたら一千万から一千二百万の失業者が発生するで
あろうことを彼らは恐れていました。
したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障上の必要に迫られて
のことだったのです ”
(Their(The japanese people's) purpose, theretore, in going to war largely dictated by security.)
歴史は繰り返すという。 安全神話は崩れかけている。 要注意。
安部政権になってから憲法論議や靖国問題論議がさかんです。
上記の本は、A級戦犯として東京裁判により死刑(縛り首)執行された東條英機の「東京裁判での宣誓供述書」の復刊でもあり、それを要約し歴史的説明を加えたものです。
555ページにもわたる本ですが、東條英機の「東京裁判での宣誓供述書」本文全文(156ページ)掲載しており、
「日本はどうして戦争に突入していったか」を読みとく貴重な資料としても一読を薦めます。
東條英機は供述書でこう主張。
”1941年12月8日に発生した戦争なるものは、米国を欧州戦争に導入する為の連合国側の挑発に原因し、
我国の関する限りに於いては自衛戦として回避することを得ざりし戦争なることを確信するものであります”
”侵略でも搾取でもありませんでした”
”私は最後までこの戦争は自衛戦であり現時承認せられる国際法には違反せぬ戦争なりと主張します”
”敗戦の責任については、当時総理大臣たりし私の責任であります”
、、と戦争責任と敗戦責任は別である、、との考えをもっていたようです。
もちろん国際法上やっていい戦争があっていいか、などとの考えもいかがなものか、とも平和ボケした私なんぞには思われるのですが、勝者が敗者を裁く、、このこともおかしな話ではないでしょうか。
東京裁判では、フィリッピンの判事は全員死刑の意見を、インドのハル判事は全員無罪を、それぞれ主張しています。
ハル判事の全員無罪については被告たちの行為が正しかったというのではなく、「国際社会がいまだ国内社会のような強制手段を加えうるほどには発達していないという悲観ゆえであり、そうした状態で敗れし者だけを処罰するという勝者の方法に反対したからであった」(水島吉隆著『日本の近代100年史』より抜粋)
考えてみれば今も昔も資源の分捕り合戦が続いている。
当時日本もそうであったように、米英も大東亜地域に進出、領土を獲得に躍起となっていた。
当時、インドネシアの石油はオランダが占領。 マレーシアのゴム・タイの米はイギリスが、、、。
日本が連合国側に鉄鋼や石油などを禁輸させられ、にっちもさっちもいかない状況にあったことは事実のようです。
終戦の2年半後(1951年5月3日)マッカーサー元帥は、アメリカ上院の軍事外交合同委員会という公式の場で次のように語って証言しているという。
”日本は絹産業(蚕)以外には固有の産物はほとんどないのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、
石油の産出が無い、錫(すず)が無い、ゴムが無い。その他に多くの原料が欠如している。
そしてそれらの一切のものがアジアの海域には存在していたのです。
もしそれらの原料の供給を断ち切られたら一千万から一千二百万の失業者が発生するで
あろうことを彼らは恐れていました。
したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障上の必要に迫られて
のことだったのです ”
(Their(The japanese people's) purpose, theretore, in going to war largely dictated by security.)
歴史は繰り返すという。 安全神話は崩れかけている。 要注意。
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