スノーマン見聞録

ジャンルも内容も気の向くまま~“素浪人”スノーマンの見聞録

コーラン パートⅠ(聖なる書物 コーラン)

2015年01月11日 | 雑感
パート①~⑤までに かなり長くなってしまいました。 悪い癖です。 正月からすみません。 

コーラン(クルアーン)は聖なる書物であり、56章(出来事の章)メッカ啓示 79節に 、、、。
 ≪浄められた者 だけしかふれることの かなわぬもの≫ と書かれている。


所詮 穢れた私が読むなぞ 恐れ多い。

勿論日本語訳本であるが、これも本来アラビア語でなくてはならないとも。
もともとは神聖なアラビア語を他の言葉に翻訳することは、神を冒涜する行為として禁止されていたようだ。

あるイスラム研究者は言う。
 『非ラビア語はアラビア語ではない。 よってそれはコーランではない。
  しかるにもし聖典の翻訳書がコーランでないのならば、それにふれることを制限する必要はなくなる』


この解釈に納得し、少し気が楽になり読むことにした。 これも本来読むのではなく誦むのだそうだ。

(ちなみに日本で知られだしたのは明治時代になってから。 コーランが英訳本に基づき翻訳されたのは大正9年。
 アラビア語原典からは昭和32年に刊行されたのが初めてという)

さて早速本題にはいる。 コーランはご存じのように預言者・ムハンマドが神(アッラー)から直接啓示を受けたと信じる
言葉を記録・編纂したものである。
 

ムハンマドはアラビア半島南西部・商業の町メッカで、紀元570年頃メッカ支配していたクライシュ部族ハーシム家に生れた。

この部族は東ローマ帝国とササン朝ベルシアとの戦争のさなか、物資を運ぶ国際的中継貿易を独占していたようだ。
早くから孤児となり叔父に育てられたという。

610年ムハンマドが神の啓示を受け、クライシュ部族が富と権力のみを求め、個人・利己主義に陥り助け合いの精神を
忘れ墜落するを鋭く突き、社会主義を訴え出現したのが40歳の時。


しかし、マフズーム家やアブド・シャムス家など他の指導者たちから迫害を受け、宗教争いにまで発展。
その根底にはメッカの指導権を獲得しようとする政治的狙いにあったという。 

結局 メッカから北方480キロほどのところメディナへ移住することになる。

コーランの目次に メッカ啓示とメディナ啓示とあるが、二つの町で啓示されたものだ。

   

コーランは114の章(スーラ)があり、各章はいくつかの節(アーヤ)から成り立っている。
その編纂の方法はというと、章の長さによって配列されている為、啓示が下った時期が無視されている。

メディナの啓示の章も、長いのは前半に短いのは後半にあるので、メッカの啓示の途中に配列されていたりして、
かつ年代も明らかな歴史事実に言及されている節も少なく、非常に解りづらいといった印象を受ける。


次のパートⅡ(ムハンマドの時代背景)では、メッカからメディナへ移住したマホメットの時代背景をまとめてみた。

コーラン パートⅡ(ムハンマドの時代背景)

2015年01月11日 | 雑感
メディナに移住した預言者・ムハンマドは、この地にイスラム教徒の教団国家建設を計画すべく
メッカの隊商を襲撃し戦利品を獲得するなどして、徐々に経済基盤を強めていく。


同時に同じ一神教であるユダヤ教やキリスト教なら自分を預言者として認めてくれるだろうと、特にユダヤ教に対し
友好的な態度を示し経済援助も期待した。が逆に拒まれ、偽預言者と呼ばわりされ対立していくことになる。


(この時、礼拝の方向をエルサレムと決めたり、ユダヤ教徒が行っていた断食制度を取り入れたり、礼拝の仕方まで
 採用するなど、、現在のイスラムの形に繋がるのは、この時代のユダヤ教への友好な態度の名残りともいえる)


その後ムハンマドは、624年のパドルの戦いや625年ウフドの戦いなどでメッカのクライシュ族の大軍に勝利するなどを経て
自信を深め、ユダヤ教徒との対決をも決意する。メディナでのユダヤ教徒の追放も果たし、ついにはメッカをも征服し
(無血征服とも言われるが)イスラムの教えを拡めていった。

これらの出来事は千数百年前のこと、しかもムハンマドの生きた数十年を簡単にまとめるなど所詮は無理。
ではあるが<戦いの時代>であったことは、まぎれもない事実のようだ。


以前当ブログでも、いかに世界は途切れなく愚かなる戦争を繰り返されてきたかということを
<過去1000年間戦争勃発地域をビジュアル>で紹介したことがありますが、それ以前も同様だったのですね。
過去1000年の戦争ビジュアル(クリック)

イスラム教徒は異教徒との戦いを、いわゆる聖戦・≪ジハード≫と称している。これも戦いの時代の名残りとして哀しいかな 現代でも消えていない、、、否 益々。 

メディナ初期くらいまでは、このジハードは重要な義務でもあったのですが、ウマイア王朝が成立すると共に
(メディナ後期)武力による征服も落ち着き、その必要性も薄れていったという。


その証拠に後世の(7世紀後半)イスラム教徒の重要な務めに≪五柱≫というのがあるが、この≪五柱≫に
ジハードは含まれていないのである。
(五柱とは<信仰告白(シャハーダ)・礼拝あ(サラート)・喜捨(ザカート)・断食(サウム)・巡礼(ハツジ>をいう)

この五柱が確立された頃には、ジハードそのものの重要性が失われていたとの事情が反映されていたようです。

しかし21世紀の現代でも≪ ジハード = イスラム ≫というレッテルがまかり通り、一部で更に過激化されている。

本来のイスラムは決して過激ではないのにかかわらずだ。 

このジハードについて次のブログ・パートⅢ(ジハード)で、コーランからその文言を列挙し、考えてみたいと思います。


コーラン パートⅢ(ジハード)

2015年01月11日 | 雑感
異教徒との戦い・聖戦と言われるジハードは本来は < イスラムの道を歩むための努力 > のことを指すという。

ではなぜ。 戦いが戦いを生むのか。 人間の業なのか。

 『神の道のために、おまえたちに敵するものと戦え』
 『しかし、度を超して挑んではならない』  
  

 『おまえたちの出あったところで彼らを殺せ』             
 『敵のほうからしかけないかぎり聖なる礼拝堂のあたりで戦ってはならない』


 『迫害がなくなるまで、宗教が神のものになるまで、彼らと戦え』
 『しかし、彼らがやめたならば無法者にたいしては別として、敵意は無用である』


                           第2章(雌牛の章)メディナ啓示 190節・191節・193節

 『正当な理由がないかぎり、人を殺してはならない。それは神が禁じたもうたこと。不当に殺された者は、
  その相続人にわれらは権利を認めておいた。しかし、殺害を濫用してはならない。かならずお加護がある。』


                           第7章(夜の旅の章)メッカ啓示 33節に

神の道のために 戦え 殺せ とコーランはいう。

殺すな 度を超すな 敵意は無用 殺害を濫用するな ともコーランはいう。

コーランの一貫した根本精神は 人命尊重 だという。 コーランで人を殺してもよいとするのは、不信者・異教徒
に対してだけで、それも相手がしかけてきた場合のみ 彼らが戦いをやめたならば こちらもやめよと命ずる。

寛容も感じるが厳格・危険性もあわせもつ。 非常に難しい解釈を強いられる不思議な書物だ。  

第5章(食卓の章)メディナ啓示 45節にこんなのがある。

 『われらはあの中で「命には命 目には目 鼻には鼻 耳には耳 歯には歯 受けた傷は同じ仕返しを」
  と規定しておいた。 これをみずから棄権する者には それは 贖罪となる』


被害以上の報復を禁止している さらに、、。
報復の権利を行使するより、むしろその権利を放棄するを勧め、それが贖罪行為であるとさえ言っている。


コーランに記されている啓示は戦いの背景が大きく反映されていて、その時代の産物と思わずにはいられない。

ですが、イスラム教徒にとってのそれは時代の産物では決してない。
断固として神からの啓示・絶対的な聖典であり、一字一句が神の言葉そのものなのである。

信じることとは、宗教とは、、、。
以前当ブログでも記したことがありますが、そのことを見事に現している節がある。

 『信ずる人々よ、いろいろなことを尋ねてはならない。はっきりわかればかえってためにならないものだ。
  しかし、コーランが下されているときにものを尋ねるなら、おまえたちにはっきりさせてくだされるであろう』
                                            
                                  第5章(食卓の章)メディナ啓示 91節

ジハードで戦死した者は必ず神の赦しを得て天国に行くことができるともいう。

頭がぐらついてきた。 次のパートⅣでは、お酒の話でも少し取り上げることとする。



コーラン パートⅣ(お酒)

2015年01月11日 | 雑感
パートⅣはあなたの好きな≪お酒≫の話でいきましょう。

   『頭痛がしないうま酒が天国のよさを示すもの・・』        第4章(女人の章)メッカ啓示 19節

   『彼らは封印を施した酒をそそいでもらう』        第83章(減量者どもの章)メッカ啓示25節

   『酒に混ぜたものはタスニームの水である』   (タスニームとは天国にある泉のひとつだそうです)  
                                                       同 27節

イスラムはハルム(khmn)を禁止している。  (ハルムは元来ぶどう酒を意味するがアルコール性飲料と解釈)
しかしハルムは天国の楽しみの一つに数えられており、上記のようにメッカ時代の啓示をみればムハンマドが
最初から飲酒を禁止していたとは考えられないようだ。


だが、メディナ時代の啓示になると、、、。

   『酒に酔って礼拝に参加してはならない』            第4章(女人の章)メディナ啓示 43節

   『信ずる人々よ、酒・賭矢・偶像・矢占いは、どれもいとうべきものであり、サタンのわざである。
    それゆえ、これを避けよ。そうすれば、おまえたちはおそらく栄えるであろう』

                                                     同  90節

などと、どうもお酒が礼拝などに妨げになるなどの様相を呈してくる。

酒を飲んで礼拝に参加する人々もきっといたのでしょう。 その教えが飲酒の禁止に迄及んでいったと推察。 


日本の仏教では、最澄という高僧が『 酒を飲む者は山を去れ 』と飲酒を断じているのですが、
それに対し空海はその著書・二十五箇条遺告で『 塩酒一杯これを許す 』と高野山の厳冬を凌ぐ
保温の為との策として赦している。

そこはさすが軟弱な日本人。 いいように解釈して<般若湯>(はんにゃとう)とか妙な理屈をつけて。

春夏秋冬 寒くても 暑くても関係なく、一杯どころか 何杯も呑んでいる始末。

話が逸れてしましました。

コーランではこのお酒の話もそうですが、礼拝についても朝夕二回であったり、正午も含め三回であったり
四回であったり、結構どう解釈していいか解らないところが多々あるんですね。


 『・・・主の栄光を日の出前と日没前に讃えてまつれ』            第50章39節
 『定めの礼拝を、そして真中の礼拝を遵守せよ・・・』             第2章238節
 『昼間の初めと終わりに、そして宵の口にかならず礼拝を守れ』      第11章14節

 『自発的な勤行として夜の目も寝ずに礼拝にいそしめ』           第17章79節  

などなど自発的だからあえてしなくてもよい、、とか伝統派は一日五回とか、いや近代社会においては
それは無理があるから一日三回、いや二回に減らすべきとか、イスラムの中でもいろんな解釈があるようです。




コーラン パートⅤ(素浪人のひとりごと)

2015年01月11日 | 雑感
正月早々フランスで乱射テロで12人死亡とのニュースがあり、またその容疑者3名が射殺されたとのニュース。

預言者ムハンマド風刺画や昨年のイスラム国へのフランス軍による空爆に対する報復といわれている。

いくら風刺画文化のあるフランスでもこの問題はやり過ぎですよ。いくら表現の自由といえども、そう思う。

それにしてもイスラムというと、過激な情報ばかりが我々の耳に眼に入ってくる。

原理主義といった欧米が勝手に作った言葉に洗脳され、原理主義・イシラム・暴力・テロ・イコール あぁ恐ろしい
との先入観でイスラムを見ている、そんな気がします。  勿論私もそのうちの一人です。


殆どの信仰は、自他の正義と平和を説くために生れたとは思いますが、必ず負の側面が隠れているようです。

  コーラン・第2章256節 に 『宗教に無理強いがあってはならない』 とあります。

  第5章48節 にも 『アッラーさえその気になり給えば、汝ら(ユダヤ教徒・キリスト教徒、およびイスラム教徒の三者)
              をただ一つの統一体にすることもおできになったはず。
              だが、汝らに別々の啓示を授けてそれで試みて見ようとの御心なのだ。
              されば汝ら、互いに争って善行に励まねばならぬ・・・・・・。』


イスラムの真髄はここにあると私なぞは思うのですが、なかなかそうもいかない様です。


勿論、テロは憎むべきである。
でも今回の風刺画は<自由にも謙虚さ>が必要だということではないでしょうか。

フランスには、人口の7%・450万人のイスラム教徒が住んでいるが、差別や迫害、貧困などが潜むともいわれる。

西欧過激派とイスラム過激派の対立。この件で迷惑するのは多くの西欧の人々であり、多くのイスラムの人々だ。

もう各地域で報復の連鎖が始まっているとのこと。 

欧米に洗脳されないためにも、過激派や好戦的な人々・偽政者に悪用されないためにも、イスラムをもっと
知る必要がある。 コーランを読んで、そしてこれらのニュースを知り、そんな気がしました。