無風老人の日記

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パレスチナ・イスラエル問題・・・その1

2016年08月01日 | Weblog
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ウィキペディアより

歴史[編集]
詳細は「エルサレムの歴史」を参照
初期[編集]
紀元前30世紀頃、カナンと呼ばれていた土地において古代セム系民族がオフェルの丘に集落を築いたのが起源とされている。エルサレムの地名は古代エジプトの記録(アマルナ文書)などにまず見られる。紀元前1000年頃にヘブライ王国が成立すると、2代目のダビデ王によって都と定められた。その後、3代目のソロモン王によって王国は絶頂期を迎え、エルサレム神殿(第一神殿)が建設されたが、その死後の紀元前930年ごろに王国は南北に分裂、エルサレムはユダ王国の都となった。
その後、エルサレムは300年以上ユダ王国の都として存続したものの、王国は紀元前607年に新バビロニア王国の支配下に入り、新バビロニア王ネブカドネザル2世によってエルサレムの住民約3000人がバビロンへと連行された。ついで紀元前607年7月11日、ユダ王国は完全に滅ぼされ、エルサレムの神殿ならびに都市も破壊され、住民はすべてバビロンへと連行された。バビロン捕囚である。
再建と再破壊[編集]


考古学を元に再現された1世紀のエルサレム
紀元前539年に新バビロニアがアケメネス朝ペルシアに滅ぼされると、ペルシア王キュロス2世はユダヤ人のエルサレムへの帰還を認め、エルサレムは再建された。紀元前515年にエルサレム神殿も再建(第二神殿)された。その後はアレクサンドロス帝国、セレウコス朝シリアなどの支配を受けた。紀元前140年頃にはユダヤ人がハスモン朝を建てて自立したものの、ローマ帝国の影響が強まり、紀元前37年にはローマの宗主権のもと、ヘロデ大王によってヘロデ朝が創始され、ローマの支配下におかれた。ヘロデは第二神殿をほぼ完全に改築し、ヘロデ神殿と呼ばれる巨大な神殿を建設した。
この後は6年にユダヤ属州が創設され、州都はカイサリアに置かれたが、エルサレムは宗教の中心として栄え続けた。この頃、イエス・キリストがエルサレムに現れ、30年ごろに属州総督ポンティウス・ピラトゥスによって処刑されたとされる。
しかし、66年にはユダヤ戦争が勃発し、ユダヤ人はエルサレムに拠って抵抗したものの、エルサレム攻囲戦 (70年) によってエルサレムは陥落した。これ以後、それまでユダヤ人への配慮からカイサリアに置かれていたローマ軍団がエルサレムへと駐屯するようになり、エルサレムにはユダヤ人の居住は禁止された。ハドリアヌスの治世になるとエルサレムの再建が計画されたものの、ユダヤ神殿の跡にユーピテルの神殿を築き、都市名をアエリア・カピトリナと改名することを知ったユダヤ人は激怒し、132年にバル・コクバの乱を起こしたが鎮圧された。エルサレムはローマ植民市アエリア・カピトリナとして再建された。
その結果、エルサレムを追われ、離散(ディアスポラ)することになったユダヤ人たちは、エルサレム神殿での祭祀に代り、律法の学習を拠り所とするようになった。
キリスト教とイスラム教の聖地化[編集]


聖墳墓教会
313年にはローマ帝国がミラノ勅令によってキリスト教を公認し、320年ごろにコンスタンティヌス1世の母太后である聖ヘレナが巡礼を行ったことで、エルサレムはキリスト教の聖地化した。市名は再びエルサレムに戻され、聖墳墓教会が立てられた。ユリアヌス帝の時代には、ユダヤ人のエルサレムへの居住が許可されるようになった。
638年、アラブ軍による征服でエルサレムはイスラーム勢力の統治下におかれた。イスラームはエルサレムを第三の聖地としており、7世紀末に岩のドームが建設された。970年より、シーア派を掲げるファーティマ朝の支配下に入った。しかし、11世紀後半に大飢饉などによりファーティマ朝が弱体化すると、この地をスンナ派のセルジューク朝が占領した。この征服を率いた軍人アトスズは、占領時に略奪や異教徒を含む住民の虐殺などを禁止しており、エルサレムの平安は維持されていた。
十字軍[編集]


十字軍のエルサレム攻略
1098年にファーティマ朝が再びエルサレムを奪回する。しかし、翌年には第一次十字軍の軍勢がエルサレムになだれ込み、多くのムスリムやユダヤ教徒の住民を虐殺した(エルサレム攻囲戦)。そして、1099年にエルサレム王国を成立させた。ムスリムやユダヤ人はエルサレムへの居住を禁止され、エルサレムはキリスト教徒の町となった。しかし、12世紀後半にアイユーブ朝のスルタンであるサラーフッディーンがエルサレムを奪回し、再びイスラーム勢力の支配下に入った。このときカトリックは追放されたものの、正教会やユダヤ人の居住は許可された。1229年、当時のイスラーム側における内部対立にも助けられ、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は、アイユーブ朝スルタンのアル=カーミルとの交渉によってエルサレムの譲渡を認めさせた。しかし、1239年にはアッバース朝の第34代カリフであるナースィルによってエルサレムが奪回されたため、その統治は短期的なものに終わった。
それ以後はマムルーク朝やオスマン帝国の支配下に置かれた。
シオニズム[編集]
19世紀後半に入るとヨーロッパに住むユダヤ人の間でシオニズムが高まりを見せ、パレスチナへのユダヤ人の移住が急増した。中でも特に移住者が多かったのは聖都エルサレムであり、19世紀後半にはエルサレムではユダヤ人が多数派を占めるようになっていた。1892年には地中海沿岸から鉄道が開通し、人口はさらに増加した。第一次世界大戦でオスマン帝国が敗れると、この地方は国際連盟によってイギリス委任統治領パレスチナとなり、エルサレムにその首都が置かれた。このことでエルサレムの政治的重要性がさらに増す一方で、委任統治領政府はエルサレムの近代化に力を入れ、1925年にはヘブライ大学も開学した。
イスラエル建国[編集]
第二次世界大戦後の1947年に国際連合のパレスチナ分割決議において、パレスチナの56.5%の土地をユダヤ国家、43.5%の土地をアラブ国家とし、エルサレムを国連の永久信託統治とする案が決議された。この決議を元にイスラエルが独立宣言をするが、直後に第一次中東戦争が勃発。1949年の休戦協定により西エルサレムはイスラエルが、旧市街を含め東エルサレムをヨルダンが統治することになり、エルサレムは東西に分断された。1967年6月の第三次中東戦争(六日間戦争)を経て、ヨルダンが統治していた東エルサレムは現在までイスラエルの実効支配にある。イスラエルは東エルサレムの統合を主張しており、また、第三次中東戦争による「再統合」を祝う「エルサレムの日」を設けている(ユダヤ暦からの換算になるため、グレゴリオ暦では毎年変動がある。2010年は5月12日が「エルサレムの日」であった)。
イスラエルは東エルサレムの実効支配を既成事実化するため、ユダヤ人入植[4] を精力的に進めており、2010年時点で入植者は20万人を超える。イスラエルは今後の数年間で、先の1600戸を合わせ5万戸の入植を計画している[5]。一方、エルサレム市当局は、パレスチナ人の住居が無許可であるとの理由で、しばしばその住居を破壊している[6]。
宗教とエルサレム[編集]


嘆きの壁


岩のドーム
エルサレムは単に地理的に要所であるのではなく、アブラハムの宗教全ての聖地であることが最大の問題である。このことがエルサレムの帰属をめぐる紛争の火種となっており、パレスチナ問題の解決を一層困難にしている。
• ユダヤ教にとっては、エルサレムはその信仰を集めていたエルサレム神殿が置かれていた聖地であり、ユダ王国の首都であった場所でもある。現在でも幾つかの神聖とされる場所が残っている。中でも嘆きの壁は有名で、これは70年にローマ帝国がエルサレム神殿を破壊した時に外壁の一部が残されたものである。
• キリスト教にとっては、エルサレムはイエス・キリストが教えを述べ、そして処刑され、埋葬され、復活したとされる場所である。それらの場所には、現在はそれぞれ教会が建っている。ゼカリヤ書12章では「地のすべての国々はエルサレムに集まって来る」とある。
• イスラム教にとっては、エルサレムはムハンマドが一夜のうちに昇天する旅を体験した場所とされる。コーランは、メディナに居住していた時代のムハンマドが、神の意志により「聖なるモスク」すなわちメッカのカアバ神殿から一夜のうちに「遠隔の礼拝堂」すなわちエルサレム神殿までの旅をしたと語っている(17章1節)。伝承によると、このときムハンマドはエルサレムの神殿上の岩から天馬に乗って昇天し、神の御前に至ったのだという。この伝承は、ムハンマドの死後から早い時期には既にイスラム教徒の間では事実とみなされており、神殿の丘におけるムハンマドが昇天したとされる場所にはウマイヤ朝の時代に岩のドームが築かれた。また、丘の上には「遠隔の礼拝堂」を記念するアル=アクサー・モスクが建設され、聖なる場所と見なされている。しかし、エルサレムは、メッカ及びメディナと同格の聖地ではない。なぜならメッカとメディナは「禁域」とされ、異教徒の立ち入りや、樹木の伐採や狩猟などが禁止されているからである。一方、エルサレムは、ムハンマドの時代には東ローマ帝国の支配下にあり、「禁域」とならなかった。第2代のカリフであるウマルの時代に征服された後も、キリスト教徒とユダヤ教徒、ムスリムが共存する異教徒禁制とは無縁な国際的な宗教都市であり続けたのである。
人口[編集]
エルサレムは19世紀後半よりユダヤ人の方がアラブ人よりも常に人口で上回っており、1949年にエルサレムが東西に分割されるとその傾向はさらに強まった。東エルサレムは経済の伸び悩んだヨルダン領にあった上、首都はアンマンに置かれてエルサレムの開発は進められず、人口は停滞した。一方、イスラエル側の西エルサレムは独立後すぐに首都が移され、イスラエルの政治の中心として大規模な開発が進められたため、人口が急増した。1967年に東エルサレムがイスラエルに占領されると多くのアラブ人がエルサレムから流出し、その差はさらに開いた。1967年にはユダヤ人はエルサレムの人口の74.6%を占め、アラブ人は25.4%に過ぎなかった。イスラエルは占領後旧ヨルダン領にあった28の地方自治体をエルサレムに統合したが、その地区にはユダヤ人の大規模入植地が建設され、多くのユダヤ人が流入した。しかしエルサレムのアラブ人の出生率は高く、ユダヤ人入植地の大量建設をもってしても人口比率を増やすことはできなかった。2007年には、エルサレムのアラブ人の割合は34%にまで伸び、ユダヤ人の比率は66%にまで落ちた。このままの人口推移が続けば、2035年にはエルサレムの人口比率はユダヤ人とアラブ人がほぼ同数になると考えられている。[7]
また、エルサレムはユダヤ教の中心都市であるため、国内比率に比べてユダヤ教超正統派の占める割合が非常に高く、エルサレム人口の3分の1を占めており、なお増加中である。
首都問題[編集]


西エルサレムに建てられた外務省庁舎
エルサレムは、古くより三つの宗教の聖地として栄えたが、経済的には必ずしも重要な位置を占めてきたわけではない。そのためエルサレムを領土に収めた代々の国家のうち、エルサレムを首都としてきた国家はほとんどない。
古代のユダ王国や、十字軍国家であるエルサレム王国を除いては、エルサレムは一地方都市にとどまっていた。しかし宗教的には非常に重要な土地であり、イギリスの委任統治領時代に首都がおかれたこともあって政治的重要性も増した。現在においても、エルサレムは、議会や首相府、中央省庁などがある政治と文化の中心であり、イスラエル最大の都市である。
しかし第二次世界大戦後、イスラエル建国・第一次中東戦争などによってパレスチナ問題が起こると、歴史的経緯により国家の正統性にも関わるエルサレムの領有問題も、にわかに浮上する。第一次中東戦争の休戦協定により、エルサレムが東西を分断された後、西エルサレムを占領したイスラエルは、1950年に議会でエルサレムを首都と宣言して、テルアビブの首都機能を西エルサレムに移転。その後、1967年の第三次中東戦争でイスラエルが東西ともに占領し、1980年には、改めてイスラエル議会により、統一エルサレムはイスラエルの不可分・永遠の首都であるとするエルサレム首都法案を可決した。
イスラエルによる統一エルサレムの首都宣言に対し、国際連合安全保障理事会は「イスラエルのエルサレム首都法案は無効だとして破棄すべきものである」「国際連合加盟国はエルサレムに外交使節を置いてはならない」とする国連安保理決議478を可決し(アメリカ合衆国は拒否権を発動せずに棄権)、国際連合総会は東エルサレムの占領を非難し、その決定の無効を143対1(反対はイスラエルのみ、棄権は米国など4)で決議した。
1967年までは13カ国の大使館が西エルサレムに置かれていたが、イスラエルによる東エルサレムの併合に抗議して、これらの国家も大使館を移転。国連加盟各国はイスラエル建国初期に首都機能があったテルアビブに大使館を集中して置いている[1][2]。
1993年のオスロ合意では、エルサレムの最終的地位については、イスラエルとパレスチナが話し合って決めることとされた。
2009年、欧州連合(EU)議長国のスウェーデンは、エルサレムをイスラエル、パレスチナ自治政府、両方の首都とするよう求める発議を行った。イスラエルはこれに反発し、EU加盟各国に抗議を行った。
アメリカは二大政党である民主党と共和党は綱領でエルサレムをイスラエルの首都と認めており、1995年にアメリカ合衆国議会で、大使館のエルサレム移転を求めるエルサレム大使館法案が可決された。しかし、歴代のアメリカ大統領(クリントン、ブッシュ、オバマ)は、大使館移転は中東和平実現の障害になるとの観点から、半年ごとに実施を延期してきた。
2016年のアメリカ合衆国大統領選挙では「駐イスラエル大使館のエルサレム移転」を公約したドナルド・トランプが当選し[1][2]、2017年6月には前述の法案実施について半年延期したものの、同年12月6日には、エルサレムをイスラエルの首都と認定して、テルアビブにある大使館をエルサレムに移転する手続きを始めるよう指示したことを正式に表明した(首都エルサレム宣言)[8]。なおトランプは「エルサレムの最終的な地位については、イスラエルとパレスチナの当事者間で解決すべきで、米国は特定の立場を取らない」とした。
この決定の撤回を求める決議が、2017年12月22日に開かれた国際連合総会で採択された(賛成128カ国、反対9カ国、棄権35カ国、欠席21カ国)[9]。
それぞれの態度(国連・EU・各国)
国連:1947年11月29日に合意された国連総会決議181「パレスチナ分割決議(パレスチナぶんかつけつぎ 、英: United Nations Partition Plan for Palestine)」は、当時のパレスチナ問題を解決するために出された国連決議案。この案は「経済同盟を伴う分割案(Plan of Partition with Economic Union)」と述べられ、イギリスの委任統治を終わらせアラブ人とユダヤ人の国家を創出し、エルサレムを特別な都市とすることとなっていた。1947年11月29日国際連合総会において、この案の採用と実施を勧告する決議が決議181号として採択された。

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