唐茄子はカボチャ

映画と音楽と・・・

最後の誘惑

2012年07月14日 | 映画 さ行
最後の誘惑 [DVD]
クリエーター情報なし
ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン


磔にされた後に「なぜ見捨てたのか!」と叫んだ後に「目的は果たされた」みたいな・・・正確な言葉でなくて申し分けないですけど、その両極端なことばをつなぐための一つの試みとして、その2つの言葉の間に悪魔の誘惑に一度負け、あらためて悪魔を断ち切り神に仕える姿を描くことでつなげてしまうというのはとても面白いですね。

そこのテーマにあわせて人間的というか、俗物的とまではいわないのかわからないけど、きわめて一般人的なイエスという人物が自分の意思と関係なく神の声が聞こえてしまった。何で神が自分を選んだのかわからないことだらけという人間にして、エピソードもそういう立場であらためて解釈するとこうなって・・という、信仰している人には絶対認められない物語になっていると思いますが、その2つの矛盾するような言葉をつなぎ合わせるためのアプローチの仕方としてはとても面白かったです。

神様はある意味、人間の考える整合性とか関係ない存在です。この中に登場するイエスも「愛」と思ったら「斧」、そして「磔」という、神の言葉に従ったらそんなめちゃくちゃな行動になってしまっわけですけど、その矛盾は人間の中での矛盾であっても、神にとってはなんでもないこと。仮定はどうあれ、結果を道武器出すためのプロセスだから、その間にイエスがどう思われようが知ったこっちゃないわけですね。その辺の神の人間から見たいい加減さが出てる気がしました。これは、旧約聖書の中のそんなことしなくても、最初からこうしてれば良かったのにとつい思ってしまう浅はかな人間には、神の考えがわかるわけがないという決め付けに対する皮肉にも感じました。

同時に奇跡や言葉で人気が出テ来る自分へのおごりから自分の母を「あなたは誰?」みたいに言わせてしまっているところも、面白い。宗教的解釈も、ちょっと間違うとただの若造の付け上がったセリフになってしまう。

ヨハネやイエスが、それまでのユダヤ教と異質な終末的というか、ええじゃないかみたいな、あとは野となれ山となれ的な雰囲気を出しているところもとてもよかったです。


パウロとイエスのやり取りも面白い。イエスはあそこで死んで価値が出た。生き残ったとしてもそんなことは価値がない。パウロがうそつきかどうかということでなくて、パウロの生きる道に必要なのはイエスの存在そのものでなくて死んでよみがえって天に昇ったイエスであったのかなあ・・・と。イエスに会ったことのないパウロであればこそ余計そうなんだろうと、なんとなく感じました。いってることがよくわからないですね。

自分がイエスの何に惹かれるかというと、いろいろ人に対するやさしさとか、苦しみに葛藤する人間的なところで、こういった違うアプローチからいろいろ考えるのも面白いということですね。