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ふんでノート ~ちいきづくり・まちづくりと日本語教育

ちいきづくり・まちづくりと日本語教育をつなぐことを,「場づくり・人づくり」から進めていきたいと思ってつらつら書くノート

また識字について

2010年12月23日 18時11分25秒 | いろいろ
先週に引き続き,高野雅夫さんの記事を紹介。

http://mainichi.jp/select/opinion/kakeru/news/20101221ddm012070099000c.html

時代を駆ける:高野雅夫/4 人生を変えた出会い
 《1960年、東京都荒川区立荒川第九中学校夜間学級に入学する。21歳だった。担任は見城慶和(けんじょうよしかず)先生。夜間中学を描いた映画「学校」(93年、山田洋次監督)に登場する教師のモデルだ。クラスの生徒は18人》

 夜に学校に通うため、昼間で終わる仕事をしました。喫茶店の新装開店のチラシ配りとか。


たかの・まさお 教育活動家。09年度立教大大学院特任教授。70歳(写真は64年、夜間中卒業式。絵を持つのが見城先生。高野さん<左から3人目>提供) 学校では英語、数学、国語などの科目があり、1週間ほど寝ないで勉強したことが度々あります。学校に住み込み勤務していた用務員のおじさんの部屋に泊まらせてもらったりして。寝る時間なんてないし、取り返さなくてはと必死でした。欠席したこともありません。

 見城先生は国語の先生でした。大学卒業後間がなくて、俺より2歳だけ年上と若かったのですが「こんな大人がいるのか」と驚きましたね。夜間中の生徒はみんなそれぞれいろんな境遇にあって、その生徒が結構、先生を裏切るんです。借りたお金を返さないとか……。見城先生は独身だった頃は、給料の大半を生徒のために使っていたんじゃないかな。警察の厄介になった生徒を引き取りに行ったり、残業させて夜間中に通わせない雇い主に文句を言いに行ってけんかしたりね。

 《見城先生は昼間、家庭訪問をしていた。これに付いて行った》

 たまたま仕事が休みになったときでした。これで人生が変わったんですよ。入学した頃は、俺みたいな不幸を背負った人間はいないと思っていました。でも弟や妹みたいな年齢の生徒が、3畳の狭い部屋で7人で寝起きしたりしてるんです。昼間は建設業者で安い給料で使われて。掃除、洗濯など家事を済ませて登校する生徒もいた。

 学校では跳んだりはねたり、みんなキャッキャッとはしゃぐんです。苦しい家庭状況なんて全く感じさせない。学校で過ごすのが、唯一の楽しい時間だったんですね。

 将来は大学、いい会社入って「ざまあみやがれ」と世間を見返したいと思っていました。でも、それでいいのか、と思うようになったんです。亡くなったゴンチやおじいさんの顔が浮かんで。自分が何をすべきか、わからなくなりました。

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 聞き手・江畑佳明/今週は火、水、木、土曜日掲載です

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 ■人物略歴

 ◇たかの・まさお
 教育活動家。09年度立教大大学院特任教授。70歳(写真は64年、夜間中卒業式。絵を持つのが見城先生。高野さん<左から3人目>提供)




そういえば,識字に関する全国調査の報告書(中間報告)が解放・人権研究所のホームページに掲載されていたので,それも紹介。
http://blhrri.org/topics/topics_0294.html

活動は目の前の人を大事にするところから始まるけど,行政は実態を把握するところから始まるという意味では大きいなと思った。
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