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…人々が主体であることを放棄したときに生まれてくる文化を、フレイレは「沈黙の文化」と呼んでいます。沈黙といっても、何も言わないということではありません。口をついて出てくるのは、すべて他者の言葉、主人が、先生が、専門家が、テレビのコマーシャルが、世間の「みんな」が言っている言葉、それが「沈黙の文化」なのです。
…「もし他人もまた考えるのでなければ、ほんとうに私が考えてるとはいえない。端的にいえば、私は他人をとおしてしあ考えることができないし、他人に向かって、そして他人なしには思考することができないのだ」
…いくら自分が一生懸命に考えて話し手も、相手が一緒に考えてくれなければ、それまでなのです。相手が考えてくれない場合は、自分もほんとうのところ、考えているとはいえないのだと、フレイレはさらに厳しいことを言っています。一人相撲は許されないのです。
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「パウロ・フレイレ「被抑圧者の教育学」を読む」里美実、太郎次郎社エディタス
…人々が主体であることを放棄したときに生まれてくる文化を、フレイレは「沈黙の文化」と呼んでいます。沈黙といっても、何も言わないということではありません。口をついて出てくるのは、すべて他者の言葉、主人が、先生が、専門家が、テレビのコマーシャルが、世間の「みんな」が言っている言葉、それが「沈黙の文化」なのです。
…「もし他人もまた考えるのでなければ、ほんとうに私が考えてるとはいえない。端的にいえば、私は他人をとおしてしあ考えることができないし、他人に向かって、そして他人なしには思考することができないのだ」
…いくら自分が一生懸命に考えて話し手も、相手が一緒に考えてくれなければ、それまでなのです。相手が考えてくれない場合は、自分もほんとうのところ、考えているとはいえないのだと、フレイレはさらに厳しいことを言っています。一人相撲は許されないのです。
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「パウロ・フレイレ「被抑圧者の教育学」を読む」里美実、太郎次郎社エディタス