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映画・演劇のレビュー

『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』

2015-08-07 06:41:46 | 映画
予告編を見ているような気分だ。テンポがよすぎて、サクサク行く。でも、それは膨大なお話のダイジェストにも見える。巨人を避けて城壁を作り、その中で暮らす100年間。その間、彼らは巨人を見ていない。巨人の存在を実在のものとは信じきれない人々が徐々に増えてくる。誰も(100年以上生きている一部の人たち以外は)実物の巨人を見た人はいない。巨人なんか、ただの伝説ではないか、と思う。(戦争から70年。戦争を知らない人が総人口の大半を占める今のこの国と似ている)

だが、100年の封印はあっけなく切れる。壁を壊して巨人が乱入してきたからだ。そこからは地獄だ。巨人たちは人間をまるごと食らう。阿鼻叫喚の地獄絵巻は実写だからえぐい。

人々は第2の壁の中で恐怖に怯えながら暮らす。あれから2年後、巨人と戦う自警団を結成して、破られた第1の壁を塞ぐための最後の戦いに挑む。

 先日見たアニメ版の前編と同じ所までが描かれるのだが、脚色が微妙に違うから、世界観にも相違がある。実写版は98分。アニメ版の120分よりも短い。かなりお話をはしょってある。だが、このストレートさは悪くない。大ナタを振るわなくては、この膨大な原作を前後編2部作で完結させることはできまい。アニメ版2部作はお話の途中で終わったけど、今回の実写版はオリジナルな完結を見せるはずだ。この世界をどう終わらせるのか。今から先への興味は尽きないけど、とりあえず、今日見た前編のお話をしよう。

最初に書いたように、人々は巨人を伝説として受け止め、侮っていた。そのつけがいきなりの巨人の襲撃であろう。心の準備が出来ていないところに、いきなりあんな恐ろしい化け物たちがやってきて、パニックに陥る。人間の愚かさをこれでもか、とばかりに描く。(災厄はいつも何の前触れもなく起こる)

自警団の巨人との戦いを描く後半部分もかなりえぐい。最後にエレンが巨人となり、彼らを駆逐していくという展開は原作通りなのだろうが、1本の映画としてはこれだけでは全く完結しない。エレンとミカサの再会から、彼女の変貌に何も言えないまま、死んでいくことになるエレンの想い。彼が巨人に食べられた後、胃の中で蘇り、巨人として復活するという驚愕の展開(アニメ版を見ているから周知の事実なのだが)のインパクトは大きいはずだ。なぜそんなことが可能なのか。彼は何者なのか。混迷していくところで終わる。

何一つ謎は解けないもどかしさ。これは、原作も、アニメも見ていない人にとっては、腹立たしいばかりではないか。しかし、作り手は最初から1本の映画としてこの作品を捉えていないのだから、文句を言っても仕方がないだろう。そんなことより、この作品世界の提示した驚愕をそのまま受け止めた方がいい。それだけでも十分意味を持つ。ありえないことが今すぐ起きるかもしれない。危機管理とか、そんなこと言ってても始まらない。僕たちはこの事実を、口をあんぐりと開けて、ただそのまま受け止めるしかない。

前半(まだここは冒頭のシークエンスなのだが)のラスト。恐怖で身体が動かなくなり、赤ん坊を抱きしめたまま、座り込んだミカサを見つめるエレン。巨人がそこまで来て、彼女は食べられる。まず赤ん坊が食べられて、次は自分も。映画はそのシーンを見せない。残酷すぎるから、ではない。想像を働かせて欲しいからだ。なんでもそのままを見せたならいい、わけではない。想像力がない人間はその方がずっと悲惨だ。戦争を知らないから、戦争の怖さはわからない、なんてうそぶく愚かな人間にはなってはならない。想像することで、危機は回避できる側面も確かにあるはずなのだ。その痛みを抱えて2年間、エレンは生きる。憎い巨人を倒したいという一念で戦う覚悟を決めその日を迎える。

ちょうど、広島に原爆が投下された日に、この映画を見た。その意義を噛みしめたい。

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