大学の演劇サークルを舞台にした青春小説である。生田さんがこういうものを手掛けるなんて驚きだ。普通の女の子、南夕夏が主人公。彼女は大学に入学してサークルに入ろうとする。その時、今まで経験したこともない芝居をやってみようとしたのは、高校時代、ある女の子が演劇をしていたのを見ていたからだ。彼女は教室ではまるで目立たないのに、ESSで英語劇をしている時だけはまるで別人のように生き生きしていた。誰もそんな彼女のことなんか気にもとめてなかったのだが、夕夏は気になっていた。演劇の何がそんなにも彼女を引きつけたのか、知りたい、と思っていた。
それは、実にささいなきっかけだ。だが、この小説はその一点に拘る。演劇サークル「劇団・森の人」は変人の集まりだ。そこに身を置き、初めて芝居をする。入学からスタートして、その年の秋に初舞台を踏む(しかも、主役で!)までのお話である。
自分らしさって、いったいなんだろうか。よくわからない。大学に入り希望に胸膨らませていたわけではない。ただ、今までの自分とは違う自分になるため、きっかけが欲しかった。誰もが感じるようなことだ。あまりにありきたりで、わざわざそれを小説にする必要なんてないくらいにさりげない。だが、この小説はそんななんでもないことを丁寧に描いていくことから見えてくるものを大切にする。
ここにはドラマチックな展開は皆無だ。芝居なんか、しかも学生劇団の学内公演なんか、誰も気にもとめない。これは、ただ自分たちの満足だけのための行為でしかない。だが、それのどこに問題があろうか。まず、最初は、自分を満足させるためだけのことである。でも、そこから世界は徐々に広がっていく。その事実をこの小説は声高にではなく、さりげなさの中で描く。
最初の第1歩をひっそりと記す。消えてなくなりそうなこと。でも、ちゃんと、自分だけは覚えている。大切なこと。「ゴーゴリの『結婚』を上演します」と、主宰のあずみさんが言ったところからスタートしたささやかなはじまり。自己主張ばかりが前面にでるひとりよがりのオリジナルが横行する学生劇団の中で、なんで今時こんなにも古臭いロシアの芝居なんか、と思う。だが、この古色蒼然とした企画から始まったことが大事なのだ。オーソドックスな演劇と向き合うことで、見えてくるものがある。きっと。
だが、ことさらそんなことには囚われない。ただ淡々と彼らの公演までの日常を綴っていくだけ。何を手にしたのかも声高には語らない。当然。行間から感じてもらったならいい。ただの青春小説である。どこにでもある。見過ごしてしまいそうな。だから、大切にしたい。
それは、実にささいなきっかけだ。だが、この小説はその一点に拘る。演劇サークル「劇団・森の人」は変人の集まりだ。そこに身を置き、初めて芝居をする。入学からスタートして、その年の秋に初舞台を踏む(しかも、主役で!)までのお話である。
自分らしさって、いったいなんだろうか。よくわからない。大学に入り希望に胸膨らませていたわけではない。ただ、今までの自分とは違う自分になるため、きっかけが欲しかった。誰もが感じるようなことだ。あまりにありきたりで、わざわざそれを小説にする必要なんてないくらいにさりげない。だが、この小説はそんななんでもないことを丁寧に描いていくことから見えてくるものを大切にする。
ここにはドラマチックな展開は皆無だ。芝居なんか、しかも学生劇団の学内公演なんか、誰も気にもとめない。これは、ただ自分たちの満足だけのための行為でしかない。だが、それのどこに問題があろうか。まず、最初は、自分を満足させるためだけのことである。でも、そこから世界は徐々に広がっていく。その事実をこの小説は声高にではなく、さりげなさの中で描く。
最初の第1歩をひっそりと記す。消えてなくなりそうなこと。でも、ちゃんと、自分だけは覚えている。大切なこと。「ゴーゴリの『結婚』を上演します」と、主宰のあずみさんが言ったところからスタートしたささやかなはじまり。自己主張ばかりが前面にでるひとりよがりのオリジナルが横行する学生劇団の中で、なんで今時こんなにも古臭いロシアの芝居なんか、と思う。だが、この古色蒼然とした企画から始まったことが大事なのだ。オーソドックスな演劇と向き合うことで、見えてくるものがある。きっと。
だが、ことさらそんなことには囚われない。ただ淡々と彼らの公演までの日常を綴っていくだけ。何を手にしたのかも声高には語らない。当然。行間から感じてもらったならいい。ただの青春小説である。どこにでもある。見過ごしてしまいそうな。だから、大切にしたい。