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映画・演劇のレビュー

空の驛舎 『ブルーギル』

2010-08-18 21:15:07 | 演劇
 中村賢司さんらしいまじめで重い芝居だ。昭和64年1月と、平成22年8月という2つの時間、同じ場所(とある高校の、かつては宿直室であり、今は女子職員の休憩室となっている部屋)でのドラマが、高校という閉鎖的な空間での様々な問題を浮き彫りにしていく。これはよくあるような学園ものではない。だいたい生徒たちは一切出てこない。

 夜の学校にたむろする卒業生たちを描く昭和のパート。ここでの彼らは、なんだか懐かしい。だが、まるで亡霊みたいだ。夏休みの学校を描く平成のパート。ここでの女教師たちは一見生き生きしているように見える。だが、必ずしもそうではない。ここに出てくる男女はまるで抜け殻みたいだ。

 最初はこの2つの時間が対照的に描かれるように見える。それは単純に、過去と現在、夜と昼との違いだけではない。その方向性がそう感じさせるのだ。だが、見ているうちに、どちらも同じだ、と思う。

 結局は、それぞれのエピソードはここには不在の生徒たちのドラマを置き去りにして、教育現場のいくつもの問題を浮き彫りにしていくことになる。その圧倒的な閉塞感は彼らに重くのしかかってくる。あの頃も今もまるで変わらないのだ。もちろん時代はどんどん悪い方向に流れていく。もう取り返しのつかないところまで、来てしまった予感はある。高校という場所は、かつての輝きを失ってしまった。いろんな意味で教師たちは疲弊している。

 子どもたちが自分たちの将来のために今と言う時間を生きる幸福な場所。教師たちがそんな彼らのサポートをする。かつてのイメージは消え去った。学校にはもうそんな図式なんてどこにもないのかも知れない。機械警備が入って、管理的になり、がんじがらめになった高校にはもう未来なんてない。

 中村さんがこんな現状を打破するための何らかのヒントをこの芝居を通して提示してくれるのではないか、と少しドキドキしながら見ていた。しかし、現実はそんな甘いものではない。簡単に解決策を提示できたならいいのだが、それは不可能なことだ。だから、ここには明確な答えや方向性はない。だが、だからと言ってこの救いのない芝居が突きつけてくる現実から目をそむけるわけにはいかない。この芝居が描くその先に、僕らの未来があるのだから。これをしっかりと受けとめて、その先に行こう、と思う。


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