
桃園会は、今まで幾度となく岸田戯曲を取り上げてきた。深津篤史さんは今回も自分の書いた作品のように自由自在、気負いもなくさらりと提示してみせてくれる。確かにこれは深津さんのいつもの作品とは違う。だが、まるで座付作家によるオリジナル公演を思わせるような手つきだ。無理がなく自然体なのである。
今回、僕が見た3本(全4作品が用意され、そのうち3作品が1プログラムとして上演される)は全く傾向の異なる3作品で、それをこだわりもなく順に並べて見せて、でも、まるで違和感なくトータルなイメージすら抱かせる。それは岸田國土という作家の世界をまるごと自分のものとした深津さんだからこそできたことなのだろう。無理なく自然体で見せる。それはそつなくとか、手慣れたとか言うこととはまるで違う。
細部にまで丁寧に目配りがなされる。ピリピリするような緊張感があるにもかかわらず、それはあくまでもさりげない。見ていて心地よく程よい緊張感を抱かせてくれる。この3つの作品世界の中に自分が入り込んで、彼らとともにそこにいる。そんな気分にさせてくれるのだ。
お見合いをしたばかりの娘と、母の静かな時間を描く『葉桜』では、結婚という特別な事態を前にして揺れ動く2人の気持ちが描かれる。まもなく、娘は結婚し、家を出て行く。その前のほんの一瞬の時間。まもなく失われる「2人きり」という緊密で、穏やかな時の中でゆっくりと綴られていく。一転して『音の世界』では2つの空間、3人の男女、それぞれの世界が2対1という構図の中で、いくつものバリエーションを作りながら、スリリングに描かれる。電話を通して聞こえること、聞こえないことが交錯する。男と女の恋の駆け引き。さらに一転して、『明日は天気』では、せっかく避暑に湘南の海までやってきたのに、連日の雨で、泳ぐことも出来ず、旅館に足止めされる夫婦の憂鬱と、ほほえましい様が、ほのぼのとしたタッチで描かれる。なんだか、この夫婦がいとおしい気分になってくる。
この3本はいずれも今から遥か昔に書かれた作品なのだが、めまぐるしい『今』という時代の中で、ノスタルジアなんかではなく、とてもリアルな現実として伝わってくる。時代の気分がなぜかシンクロしているような気がする。昭和レトロなんかではなく、そこから遠く隔たった今という不確実な時代を生きる我々へひとつの方向性を示してくれる、これらはそんな作品だと思える。時代は変われども変わらない人の気持ち、それをこの芝居は、なにげない日常の風景の中で切り取って伝える。
『クラシック』を描くことの意味は普遍性なんていうお手軽な言葉では括れない。時代も、人間も、こんなにも変わる。この芝居が書かれた昭和のはじめが遠くなったにもかかわらず、この芝居が描く小さな不安や幸福は、他の何ものにも換え難い大切なものに思える。
今回、僕が見た3本(全4作品が用意され、そのうち3作品が1プログラムとして上演される)は全く傾向の異なる3作品で、それをこだわりもなく順に並べて見せて、でも、まるで違和感なくトータルなイメージすら抱かせる。それは岸田國土という作家の世界をまるごと自分のものとした深津さんだからこそできたことなのだろう。無理なく自然体で見せる。それはそつなくとか、手慣れたとか言うこととはまるで違う。
細部にまで丁寧に目配りがなされる。ピリピリするような緊張感があるにもかかわらず、それはあくまでもさりげない。見ていて心地よく程よい緊張感を抱かせてくれる。この3つの作品世界の中に自分が入り込んで、彼らとともにそこにいる。そんな気分にさせてくれるのだ。
お見合いをしたばかりの娘と、母の静かな時間を描く『葉桜』では、結婚という特別な事態を前にして揺れ動く2人の気持ちが描かれる。まもなく、娘は結婚し、家を出て行く。その前のほんの一瞬の時間。まもなく失われる「2人きり」という緊密で、穏やかな時の中でゆっくりと綴られていく。一転して『音の世界』では2つの空間、3人の男女、それぞれの世界が2対1という構図の中で、いくつものバリエーションを作りながら、スリリングに描かれる。電話を通して聞こえること、聞こえないことが交錯する。男と女の恋の駆け引き。さらに一転して、『明日は天気』では、せっかく避暑に湘南の海までやってきたのに、連日の雨で、泳ぐことも出来ず、旅館に足止めされる夫婦の憂鬱と、ほほえましい様が、ほのぼのとしたタッチで描かれる。なんだか、この夫婦がいとおしい気分になってくる。
この3本はいずれも今から遥か昔に書かれた作品なのだが、めまぐるしい『今』という時代の中で、ノスタルジアなんかではなく、とてもリアルな現実として伝わってくる。時代の気分がなぜかシンクロしているような気がする。昭和レトロなんかではなく、そこから遠く隔たった今という不確実な時代を生きる我々へひとつの方向性を示してくれる、これらはそんな作品だと思える。時代は変われども変わらない人の気持ち、それをこの芝居は、なにげない日常の風景の中で切り取って伝える。
『クラシック』を描くことの意味は普遍性なんていうお手軽な言葉では括れない。時代も、人間も、こんなにも変わる。この芝居が書かれた昭和のはじめが遠くなったにもかかわらず、この芝居が描く小さな不安や幸福は、他の何ものにも換え難い大切なものに思える。