
なんだか難しそうなタイトルである。哲学的な考察が描かれるのか、と思う。だけどドラカンである。それだけじゃないはす。チラシの裏にある企画意図を読むと2022年に実際に起きた事件、その実話をモデルにしたセミ・ノンフィクション・スタイルみたいだ。筒井潤(作、演出)が事件ものに挑むなんて初めてのことではないか。いつもと違う新しいドラカンを期待して劇場に向かう。ドラカンとしては久しぶりのウイングフィールドである。
何の予備知識もなく、見始めた。わかりやすいお話ではないとは思う。だけどここまで何のことやらまるでわからなかったということに衝撃を受けた。途中からこれはヤバいかも、とは思った。明確なお話ではないことはわかったけど、これをどう読み込んだらいいのか、わからない。それを筒井さんらしいとか、言わない。意味がないとも言わない。事件は確かに描かれるけど、何故男(ミッキーと呼ばれる)は彼女(ベトナムからの留学生)を殺したのか。殺した後、死体を放置して暮らすのは何故か。何を求めて、何をしたかったのか、とか。だけどその説明は皆無だ。
タイトルの唯一者とは彼のことで、喪失したのは彼女だ。だけど喪失させたのも彼である。芝居はそんなふたりの関係性を描くわけではない。まるでふたりに接点はない。1階の弁当屋の店員と2階に住む住人ということだけがふたりの接点だ。単純に外国人を嫌悪する国粋主義者の男による殺人事件と読むこともできる。白いTシャツの胸の血は日の丸を想起させる。だけど、それだけ?
これはマックス・シュティルナーという哲学者の『唯一者とその所有』にインスパイアされた作品であるらしい。僕は全く彼を知らなかった。当日パンフの筒井さんの文章を読んでそんな人がいたことを知った。やはりこれは哲学的考察だったのだな、と思う。マックス・シュティルナーについて調べたら何かヒントがあるかも、とか思うけど、それはこれを書き終えてからにしよう。今は見たものから感じたことを書く。
これは普通の会話劇ではない。設定だけはあるがお話は展開しない。ミッキーという男(筒井さんが演じる)がいきなり大声を出して恫喝するシーンが何度かある。かなり怖い。弁当屋の店長やミッキーの勤める会社の社長の息子も登場するが、ここでもお話はない。殺害される女性はこのふたり以上に関わってこない。衝動殺人みたいだ。もちろん彼が抱える問題を明確にしない。だから、不安しかない。先にも書いたがわからない。ただ、このわからなさに心は震える。殺すことで理を全うする。一緒にいることで安心する。独りよがりの行為。ただの危ないやつ。だけどこれは猟奇殺人ではなく、歪んだ魂の彷徨(咆哮)を描く。ミッキーという男のお話。その世界観の狭さと意味を持たない殺人には戸惑いしかない。